第24話 夜明け前
夜明け前の主城は静まり返っていた。
わずかに開かれた窓から吹き込む風が、書庫のテーブルに置かれている本のページをそっとめくっていく。木の軋む音が、誰もいないはずの回廊にかすかに響くたび、パトリックはそのたびに手を止め、視線を上げた。
「ヤナが砂になって消滅した」──。
クチルから聞いたのは衝撃的な言葉だった。しかしパトリックは、その言葉を疑うことなく信じた。砂になるというのが、祈りの砂浜とどこかつながりがあるように思えたからだ。
(まぁ、そうなるともう……ヤナは……)
まさか生きているということはないだろう。パトリックはイスに深く腰をかけて、分厚い書物に向かっていた。目の下には深い隈、手元には記録をつける紙片の束。
薄墨で走り書かれた日付と単語には、ところどころ涙で滲んだあとがある。
(俺は、誰一人守れない人間だな)
何度、この後悔を味わえば気が済むのか。
エドラを守れなかった。ヤナの異変にも、あの子が最後に抱えていた苦しみにも、気づいてやれなかった。
クチルが怯えた目で訴えた“砂になって消えていく”という言葉が、耳の奥にこびりついて離れなかった。
(命を削る戦具。あれは──)
確信とまでは言えない。だが直感は警鐘を鳴らしている。
(……あのとき、もう一歩踏み込んでいれば……)
いくらでも後悔は胸に押し寄せる。それでもパトリックは手を止めなかった。ページを繰り、付箋を挟み、いくつかの古い報告書を横に広げていく。
「あれ……パトリック?」
ふいに聞こえた声に、パトリックはびくりと背筋を伸ばした。振り返ると、静かな足音を鳴らして歩いてくる男の姿があった。
柔らかい朝の光に照らされたその表情に、思わずパトリックの緊張が解ける。
「……ユリクスさん」
「おはよう。早いね。あれ? どうしたの。なんか元気なさそうじゃない?」
ユリクスがパトリックの隣に腰を下ろすと、何も言わずに広げられた書物に視線を落とした。
ユリクスは息子のレオシュと同じで物腰柔らかく、自分が先導を切るというよりは誰かを立ててその下に付き従うような人物だ。控えめだが常に周囲をよく見ていて、こうして人の異変によく気付く。
(本当に、この2人は親子そっくりだ)
今回のことも、レオシュは何かを悟ったものの、パトリックの判断に任せるというつもりで自分が継ぎ手たちをおさめると言ってくれた。
こういうさりげない優しさや気遣い、配慮の行き届くところはユリクスの家系なのだろう。ユリクスの妻であるディナも優しい女性である。
「その……実は、先日ヤナがいなくなりまして」
「いなくなる……?」
ユリクスは眉を顰めた。その言葉が何を意味しているのか、パトリックの言葉の続きを待っているようだった。
「実は、クチルの目の前で砂になって消えたっていうんですよ。ヤナが。クチルはまだ子どもですが、嘘をつくような子じゃないし、何より本当にあれからどこを探しても、ヤナがいないんです」
そこまで一息に打ち明けてからユリクスの方を見ると、悲痛な表情を浮かべていた。ユリクスは侯爵という立場ながら気さくに息子のレオシュがいる宿舎にやってきていたし、このところはずっと忙しくて、まだクチルとイヴァンには会ったことがないが、近々行きたいと言ってくれていた。
戦いにもできるだけ見に来て民間人が怪我をした時の治療などにもあたってくれたし、ディナも含めてユリクスの家は家族ぐるみで継ぎ手たちを支えてくれていた。
「……そうか。エドラの次は、ヤナが……」
ユリクスは隣ではらはらと涙をこぼした。息子のレオシュだけでなく、エドラやヤナ、フベルトやシェナとも親しくしていたユリクスのことだから、衝撃と悲しみを感じているのだろう。
「本当に不甲斐ないです。俺が副指揮官になって、もう2人も……俺は、継ぎ手を死なせたくないと思って副指揮官になったのに……」
パトリックは言葉に詰まって机に顔を伏せた。その様子を、ユリクスはハンカチで涙を拭いながら見ている。
「……俺が、俺じゃなかったら……あと2人は、救えたんでしょうか。まだ、生きてたんでしょうか……」
「パトリック……」
「エドラは外交官として働いて、ヤナは今も継ぎ手として活躍してたんでしょうか……」
「……それは、わからない」
「俺が何か知っていたら、何か予兆があったとしてそれに気づけたらって、あの日から後悔しかなくて……俺、本当にあの2人に、もっとしてあげられたことがあったんじゃないかって……」
「……パトリックは、1人で抱えすぎてるみたいだね」
そういうとまだ泣き腫らした赤い目で、パトリックのことをじっと見つめ、背中を撫でた。それに気づき顔を上げたパトリック、涙に滲むその目の下のクマを指先でなぞる。
「私も、今回の件、どこまで誰を疑っていいか正直まだわからない。ザバリア君の動きが怪しいのは感じていたが、今回のヤナのことも関係あるのか……」
「すみません……あなたに報告するまでには、ちゃんとまとめておこうと思ったんですが……こんなとこで会うとは……」
「うん、ごめんね。間が悪かったよ。でも、いいか。これ以上パトリックには無理をさせたくないから。それで、こんなものを読んでいたんだよね?」
それから机の上の書物に視線を向けた。そこには、「継ぎ手死亡例 戦具との因果関係不明」と記された、50年以上前の報告書があった。
それを見たユリクスの目が、細くなる。
「何か、今回の件に関する示唆はあった?」
「いや、まだ何も」
「そう。でも、これは僕が預からせてもらおうかな。これ以上無理しないで。今日はもう帰って寝て。パトリック、自分が思ってるよりも、酷い顔をしてるよ」
「そう、ですか……」
ほんをとりあげられ、パトリックは息を吐いた。こんな自分が休んでもいいのか。あの2人への申し訳なさや、クチルたちへの顔向けのできなさがないまぜになる。
「うちで休んで行ってもいいよ?」
「いや。遠慮しておきます。あんな、いつまで経っても新婚みたいな2人に挟まれて休めないですよ」
ユリクスの家庭は円満も円満である。妻のディナもユリクスも互いを世界でたった1人の男女として、愛する人間として見つめているのがよくわかる。
「今日のところは帰ります。ただ……明日以降で構いませんが、もっと古い文献を探す方法を教えてくれませんか。ここの書庫にあるのはこれが一番古くて、もっと古い記録を辿らないとわからないことばかりなんです」
「なるほど。それなら、適任な人がいるな。レフカの書庫の番人さん」
「……カレディアさん、ですね」
「そう。あそこの領地はここからじゃ少し遠いけど、近い日取りで出かけられる時はある? まぁ、最悪僕1人で行ってもいいけど、ディナも行きたいって言うだろうな。3人で行こうか」
「あの方……かなり恐れられてますよね。俺も正直怖いっすよ」
「そう? 僕は結構優しいところがあると思ってるんだけどなぁ。そういう優しいところを見せてってお願いしておくよ。ね?」
「まじでお願いしますね」
「うん。じゃあ、まずはそれぞれ外出届を出して……その間は、うちのレオシュがみんなを束ねるのかな」
「はい。そういう約束をしてます」
「うん。息子ならうまくやるだろう。じゃあ、またいつから行けるか日取りがわかったら教えて?」
「はい、わかりました」
「じゃあ、僕はディナのモーニングティーに付き合ってくるから。じゃあね」
「はい。いってらっしゃい」
(相変わらず、あの人の愛情は健在か……)
他の貴族からもおしどり夫婦であると認識されているが、実は2人に向けられる視線は温かいものばかりではない。妻のディナはかなりの下級貴族であり、侯爵が娶る相手としては不足がありすぎると猛反発を食らったのだ。
しかし、ユリクスとディナ夫妻にはカレディアという協力な後ろ盾もいる。同じく侯爵であり、彼ら夫妻と仲良くしている名門貴族の娘だ。見た目からして苛烈で強い女性という印象で、あの家族とは正直正反対のようにも感じるが、なぜか馬が合うのだろう。
(にしても、カレディアさんまで巻き込んで……大事になってきたな)
カレディア・カルノワール。若い頃から家を背負ってきた武闘派の切れ者である。
上層部にも顔が利く一方で、その苛烈な性格と戦歴が恐れられている。
(あの人の前に、こんな顔で行けないか……)
窓に映る自分の酷い顔を自嘲してから、パトリックも書庫を後にした。
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