第2話 音を数える(17Hzの影)

 翌朝。丘の風は乾いて、窓の外の空調音が細くつながっている。

 〈エトワール〉のカウンターに、昨夜貼った**“まだ見ない波形”**のプリント束が置かれていた。澪が深呼吸をひとつして、束の上にスマホと小型プリンタを並べる。藤田は工具袋を足元に置き、私は手順カードを書いた。


 □ 記録の分類(当日/前回/静寂60秒)

 □ 音声→スペクトル(FFT)

 □ 加速度→周波数(Z軸)

 □ AGCの影響を回避(音量固定/ノイズ整形なし)

 □ 時間位置を合わせる(0秒=“円筒設置アナウンス”)

 □ ブラインド:誰のデータか伏せて解析

 □ 無理はしない。途中でやめられる


「分類から行きます」

 澪がプリント束を三つに分けた。

• A:静寂60秒(昨日わたしたちが録った講義室の環境音)

• B:前回の公開講義(学生のスマホ動画から音のみ抽出、提供者同意済)

• C:事故当日の直前30秒(別の学生の動画から音のみ抽出、匿名同意)


 白石の印鑑つき合意書と、園田が作成した**“データ開示同意テンプレ”**が添えられている。オープン手順の最初の果実だ。


「Aから」

 澪がFFTのボタンを押し、Aの波形を小型プリンタに吐かせる。細い線の山がすぐに白い紙に現れた。


「A(静寂):主成分は31〜33Hz帯(空調ファンの基本)と63Hzの倍音。20Hz以下はフラット。17Hzは立っていない」


 私は頷く。

「基準はOK。次、B」


 B(前回)。

 紙には、おとなしい丘のような稜線が続き、31Hzの丘が少し高い。17Hzには、微かな揺れが一線あるだけ。


「次、C」

 澪は一度だけ喉を鳴らして、CのFFTを流した。

 出た。

 平坦な地図に、17Hzの細い塔がすっと立つ。塔は10秒手前からゆっくり高くなり、事故の直前には基準から+6〜8dBまでせり上がる。


 藤田が息を吐いた。「低いな。耳じゃわからない」


「可聴下限の手前。でも、スマホの加速度なら拾える」

 澪はCの元動画の加速度ログもプリントした。Z軸に17Hzの周期が乗る。5.8〜6.1周期/0.35秒で律儀に並ぶ微小な山。

 音声と加速度の二重一致——。


「AGC(自動音量補正)のズレは?」

 私は確認する。


「ノーマライズなし/固定ゲイン。前処理ゼロで出してます。周波数位置は照明フリッカーの揺らぎも受けません」


 私は手順カードの四つ目にチェックを入れた。AGC回避クリア。


「時間合わせを」

 澪が三つのデータの“0秒”を統一した。講義の恒例アナウンス「円筒を置きます」の**“置きます”の子音立ち上がりに合わせて、A・B・Cの時間軸を揃える。

 Cでは、その-09.8秒付近から17Hzが現れ、-06.2秒でぐっと強まり、-01.3秒で最大**。0秒以降は1.5秒で消失。


「足で踏む長さ、に見えます」

 澪がぽつりと言った。

 -10秒から**-1秒まで、片足で踏み続けるのにちょうどいい呼吸**。

 フットスイッチの仮説に、時間の体温が乗った。


「B(前回)に17Hzは?」

 私は念押しする。


「微小。ノイズ床+1dB未満。**“演出日”**だった可能性は低い。事故当日だけ、明確に立つ」


 私はまとめの紙に太字で書いた。


17Hz:事故当日(C)でのみ顕在化/-9.8s → 0s(+6〜8dB)


 藤田が腕を組む。「床下装置がONになってた時間だな」


「まだ決めない」

 私は制止した。「**“17Hzがいた”まで。“誰がONにしたか”**は次でいい」


     ◇


 昼、星ヶ丘大学へ。講義室の前には掲示が出ていた。園田の文面で、データ提供のお願いと公開手順、匿名可、第三者追試歓迎。

 広報の白石が表情を硬くしつつも、掲示を剥がさない。彼の仕事の線引きが、ようやくこちらに寄ってきた。


 講義室。

 木下が点検口の蓋を外し、床下の梁に手を添える。澪は舞台上にスマホを二台置いた。一台は録音(音圧一定)、一台は加速度(Z軸)。装置ON/OFFは一切なし。空調設定は昨日と同じ。

 ブラインドで、誰も何も踏まない時間を60秒×3セット。

 紙が三枚、静かに増えた。17Hzは立たない。Aと同じ。


「教授の反論、きますよ」

 藤田が小声で言う。「換気の切替や人の足踏みでも出るとか」


「切る順番は決めます」

 私は新しい手順カードを出した。


 □ 換気ダンパ切替ログを取得(木下)

□ 空調ON/OFFと17Hzの同時性を確認

□ 人の歩行と17Hzの非同時性(歩幅周期は1.7〜2.2Hz)

□ 照明フリッカー(100/120Hz)との無関係性を表示

□ 統計:各セットのピーク対ノイズ床(dB)

□ 無理はしない。途中でやめられる


「歩行は1〜3Hz台です。17Hzとは桁が違う」

 澪が廊下で実測した歩行加速度のプリントを見せる。1.9Hzに山、3.8Hzに二倍高調波。17Hz帯は空。


 木下が換気の時刻表を持ってきた。「切替は毎時15分と45分。事故は35分前後。かぶらない」


「音の塔は、誰かの意思で立った」

 私は心の中でだけ言う。紙にはまだ書かない。


     ◇


 廊下で、椿が待っていた。白衣は着ていないが、今日はタイピンが光る。


「解析の筋は、見ました。17Hz、ね。偶然に出ることはある。観客のざわめきで低周波が……」


「ここには観客はいませんでした」

 澪が淡々と言う。「無人でも17Hzは立ちません。当日だけ、-9.8s → 0sで立っています」


「しかしスマホはいい加減だ。マイクの特性も加速度のサンプリングも、装置と呼べるものでは——」


「だから二系統で取りました」

 私は被せた。「マイクと加速度。一致しています」


 椿はわずかに笑い、「科学は再現だ」と言った。


「同意します」

 私は頷く。「ブラインドでやりましょう。手で何かを踏む可能性を遮断して。次章です」


 白石が間に入る。「公開ヒアリングの形式で、安全に。大学としても、透明性を示したい」


 椿は肩で息をして、短くうなずいた。言い合いはここまで。測り方に進む。


     ◇


 〈エトワール〉に戻る。真鍮ベル。氷の音。

 澪はA・B・Cの三枚の塔(17Hzピーク)を横に並べ、蛍光マーカーで当日の塔だけに薄い線を引いた。


「まとめます」

 私は録音をオンにし、短く読む。


「一、17Hzは基準(A)/前回(B)では立たず、事故当日(C)でのみ顕在化。

 二、時間位置は“置きます”の**-9.8s→0s**で上昇し、0s+1.5sで消失。

 三、加速度Z軸も同帯域で一致。AGC/フリッカー/歩行では説明できない。

 四、換気切替時刻とは不一致。偶然説の主要候補を除外」


 藤田が工具袋を手繰り寄せる。「床下は明日、電源と配線を分解せずに追う。踏むもの(フット)がどこかで手に変わる瞬間がある」


「園田さん」

 私はスマホで短くメッセージを打つ。匿名データ提供者への礼と、明日の公開条件。**“見せ方”ではなく“測り方”**で決めること。


 澪が最後のチェックを入れた。


 □ 無理はしない。途中でやめられる


 丘の風は夜に向けて温度を落とす。港の汽笛は聞こえないが、数はここにもいる。

 偶然という言葉の上に、細い塔が一本立った。

 塔の根元には、いつだって誰かの足がある。

 次は、床下の手を探す。

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