第29話 丸い地平


 落ちる瞬間、大地を揺るがす一撃レビ・デアドスで地面に穴を開ける。間欠泉ガイザーさながらに噴きあがった柔らかい土をクッションにして、俺は地面への落下速度を落とした。


 が、まだ足りない。

 完全に殺し切れなかった勢いを俺が受ける為、ルナを庇う形に身体の位置を入れ替える。その瞬間、背中に地面へと激突した衝撃が走った。――こひゅっ! 目がチカチカして、息が出来なくなる。


 ルナを放してしまった。

 土煙が舞いしきり視界を得られない中で、彼女が走り出す気配だけを感じた。


 彼女が無事でよかった、という気持ちと、ヤバい止めないと、という意識がほぼ同時に俺の中で生まれた。俺は立ち上がろうとして――。


 あ、だめだ。動けない。

 こひゅー、こひゅー。今ちょっと息すら出来ないぞ?

 追い掛けないといけないのに。


 ◇◆◇◆


 走り出したルナは、いち早く砂煙の中から飛び出した。

 庇われたとは言え、身体にダメージは受けている。右腕が折れていた。これでは魔法弾はもう使えない。


 痛みに眉をひそめながら、周囲を見渡す。

 ギルアムが墜落したのだ。あの女が近くに来ていないわけがない。心配して、きっと声を上げる。


「ギリアムさま!」


 そこか。とルナは声が上がった方へと振り向いた。居た。ミューゼア・セルベールだ。この瞬間こそ、仕事を成す千載一遇のチャンス。腕の痛みにジト目を細めつつ、彼女はミューゼアに向かって走っていく。


 ギリアムの元へ走ろうとしていたミューゼアだったが、ルナに気づいたようだった。だがもう遅い、とルナは腰ベルトからナイフを抜き左手に持つ。近くに護衛もいない。よしんば居たとしても、この距離まで近づいてしまえば……!


 一瞬。

 ギリアムの顔が浮かんだ。


 空での戦闘中にあいつが見せた、なんとも憎たらしい、子供っぽい笑顔。だからかもしれない、そのせいでルナの気持ちが揺れたからかもしれない。とにかく次の瞬間、ルナは驚愕した顔でミューゼアのことを見ることになる。


 ミューゼアは、ルナが繰り出してきたナイフによる鋭い一撃を、腰から抜いた剣で見事に弾いたのだった。


「な……っ!?」


 姿勢を崩しながらジト目を見開いたルナは唖然とした顔で。


「そんな……ボクの、一撃が」


 当たる――そう思った瞬間に見せたミューゼア・セルベールの剣技は、実に見事なものだった。それこそ、一瞬見惚れてしまうほどに。


「……贈られた剣、役に立ちましたよギリアムさま」


 ホッとした顔で呟くミューゼアだ。

 そして周囲の領民も、ホッと胸を撫で下ろした。


「こいつ、ミューゼアさまになんてことを!」

「大それた奴だ!」


 ざわつき殺気立ってくる領民たち。

 ルナはほくそ笑んだ。


「いい反応。やっぱり、こうあるべき……なんです」


 この町に来てから、ずっとイライラしていた。祭りの笑顔、屋台の香り、ミューゼア・セルベールの幸福な姿――それらを見るたびに、心の中に黒い疼きが溜まっていった。『あの人』を奪ったセルベール家の娘が、なぜこんな笑顔を、って。


 ルナの笑いに、さらにいきり立つ領民たち。

 あわやルナのところになだれ込もうとした、直前。


「皆さん、慌てないでください。私は大丈夫ですから。その場を動かないで!」


 ミューゼアが領民たちに釘を刺す。

 その声に、領民たちはすぐ静かになった。ルナが舌打ちする。


「小癪……。大人しく、死ねばよかった……んです」

「ルナさんが本気でしたら、きっと避けられなかったと思いますよ」

「は? なにを言ってるの? ボクいつだって本気」

「じゃあ、きっと今、ルナさんは迷ってらっしゃるのですね。自分でもわからない、心の奥で」

「…………」


 無言のルナが腰を低くして、左手でナイフを構える。

 ミューゼアもまた、正眼に剣を構えた。


「おおお、ミューゼアさまも戦いなさるのか」

「これは良い見物!」


 やんや、やんやとここでも見物客が増えていく。


「ライゼルの奴らは、みんなお喋り……なの?」

「賑やかな町であることは確かですね」

「違う。おまえたちのことを言ってる」

「ああ。そういう意味ですと、ギリアムさまやガリアードレさまは、たぶん。私はちょっと不器用なもので、そこまででは。どちらかと言えば、喋るのは苦手かもしれません」

「そう……。よかったね、もう二度と喋らないで済むようにしてあげる」


 言いつつ、ルナが低い姿勢のまま前に出た。

 視界の下から狙ってくる、その鋭いナイフの一撃を、ミューゼアは華麗に剣で逸らす。


「私はギリアムさまのように、剣で語り合う、なんて器用なことは出来ません。ですが今日は、頑張ってみます。ルナさん、私も貴女のことが、知りたい」

「逃げないなんて、余裕、あるんだね」


 低い姿勢から伸びあがりつつ、ルナは逆袈裟に切り上げた。それをミューゼアは一歩下がって避ける。下がったところに、ナイフの突きが飛んでゆく。今度は半身を逸らして避けた。


「ありま、せん、よ!」


 避け際、剣を振るう。ルナの脚を狙ったその横薙ぎは、しかし軽いジャンプで避けられた。だけどそれこそがミューゼアの狙いだ、剣を振った勢いのままに身体を回し、宙に浮いたルナに蹴りを入れる。ルナは折れた右手を庇いながら、身を捻って背でそれを受けた。


「案外ヤらしい連携してくるね」

「こちらにきてから、ギリアムさまに教わりました」

「ギリアム、ギリアム……って、ギリアム大好きじゃないですか」

「はい、大好きです。私は、ここにきてギリアムさまと逢って変われたんです」


 ちっ、とルナは舌打ちした。

 イライラする。ここの奴らと話していると、胸の中をかき回されるような気がして、不快だ。なんでこいつらは皆、幸せそうに、自信満々な笑顔をするのだろう。


「そう……ボクにはわからないや。ボクとおまえたちは、全然違う」


 拒絶を刻むように、ルナのナイフが空を切る。

 ミューゼアはその銀の軌跡を、悲しいほど冷静な目で見つめながら、剣で受け流した。

 ――全然違う?

 彼女は考える。いいえ、そんなことはない。少なくとも、この魂の芯の部分では。


「いいえルナさん、同じです。……少なくとも私は、貴女と同じだった」


 そう、同じ。ミューゼアは自分で頷いた。

 ルナさんのジト目が、カッと見開かれる。怒りと侮蔑、そしてほんのわずかな戸惑いが混じった色。そんな視線は慣れている。かつての私が、幸福な誰かに向けていた視線そのものだから。

 彼女のイライラが、まるで自分のことのように肌に伝わってくる。わかる。わかりすぎる。その黒い衝動に突き動かされるように、ルナさんは獣のようにナイフを振り回し始めた。


「私も、父や母から『道具』として扱われていました。期待という名の、見えない首輪をつけられて。成果を出すことでしか、生きている価値を見出せなかった。だから……痛いほどわかるんです。貴女の胸の奥で疼く、その痛みが」


 刃と刃がぶつかる甲高い音だけが、私と彼女の間の空気を震わせる。


「そんな言葉を信じろと?」


 ルナさんの声が、乾いた砂のようにこぼれた。信じられるはずがない。私もそう思う。


「信じなくて、いい。ただ、聞いて欲しい」


 私は、私自身の傷を抉るように、言葉を紡いだ。


「母に『最高傑作』と言われた日、その声には体温がありませんでした。父に『我が家の誇り』と称えられた時、その瞳は私を通り越して、遠いどこかを見ていた。だから私は、冷たい自室でゲームの世界に逃げ込んだんです。道具でしかない自分から、目を背けるために」


 自嘲の笑みが、唇の端に浮かぶ。

 そう、私もただの『道具』だった。奴隷という鎖こそなかったけれど、魂は同じ檻の中にいた。役に立った時だけ存在を許され、それ以外は無価値。常に世界との間に薄い氷の膜が張っているような、あの息の詰まる孤独感。この広い世界のどこにも、私のための居場所なんてないのだという、冷たい確信。


「それは、この世界に来ても同じでした。この世界の父と母も、私を『セルベール家の駒』としか見なかった。不思議なものですね……私は生まれ変わっても、同じ役を演じる運命だったのです」


「生まれ変わり……? この世界……? なに言ってるです」


 ルナさんのナイフの軌道が、ほんの少し乱れる。その隙を見逃さず、私は囁くように、この世界の誰にも明かしたことのない秘密を打ち明けた。


「ルナさんには、正直に話します。私には、この世界に生まれる前の記憶があるんです。そして前の世界で私は……この世界の物語を、隅から隅まで知ることができました」

「そんな与太話、信じると……でも?」


 声は否定しているのに、彼女の瞳が真実を求めて揺れていた。


「セルベール家に仕えていたなら、噂を耳にしたこともあるでしょう? この私が、時折ありえない予言を口にし、家の危機を救ったことを。……もちろん、ほとんどは気味悪がられて終わりましたが」


 ルナさんの動きが、凍りついたように止まる。その表情が、私の言葉を肯定していた。


「そうです、貴女が耳にした噂は、全て本当のこと。だから、私は知っていた。『イカロス』のことも、貴女のことも」


 ごくり、と彼女が唾を飲み込んだのがわかった。私は続ける。


「……けれど、私の知識はあまりに薄っぺらだった。ただの文字情報なんです。『倒した暗殺者からイカロスを得る』……ゲームの中では、ただそれだけの、一行のテキストでしかありませんでした」

「倒した……暗殺者……」

「ええ。本来の物語では、貴女は誰かに倒され、首を落とされ……その身に着けたUR級飛行アイテムだけが、戦利品として奪われる運命だった。貴女という個人は、ただのアイテムドロップのきっかけに過ぎなかったんです」

「でもボクは生きてるぞ! おまえたちに捕らえられたのに、一度倒されたのに、生きてる!」


 ルナさんの絶叫が、私の胸を打つ。そうです、貴女は生きている。なぜなら。


「それは、ギリアムさまが、本来の物語に登場するギリアムさまではなかったから」


 私の口から、ごく自然に微笑みがこぼれた。思い出すだけで、心に温かい光が灯る。

 全ては、あの人から始まったのだ。


「あの方は、本来この世界ではもっと悪辣で、嫌われ者で……誰からも愛されず、孤独のうちに処刑されるはずの悪役でした。でも、ギリアムさまはご自身の意志で運命に抗い、自分を変えた。この世界のルールそのものを壊して、因果律の外側に立っている……そんな人なんです」

「信じるとでも? そんな与太話を信じるとでも!?」

「いいえ、貴女はもう、信じ始めているはずです」


 私は確信していた。

 暗殺者として、ターゲットである私のことを調べ尽くしたはずの彼女なら。


「私のこれまでの言動が、ありえないほどに正確だったことを。貴女は、誰よりも知っているはずです」


 ルナが息を呑む。ナイフを握る手が、微かに震えていた。「信じるものか」と呟く唇とは裏腹に、彼女の瞳は、どうしようもなく真実を受け入れてしまっている。


「ですからね、ルナさん。貴女も変われる。この、世界の理から外れた町でなら」


 ルナの眉が、痛々しいほどに歪んだ。

 乾いた笑い声が、彼女の喉から絞り出される。


「はは……おまえもその話ですか。あの男と同じく、甘ったるい夢物語ばかり」

「…………」

「よしんば真実だとして、それがなんだというんです。ボクが変われる? この町でなら? ……馬鹿馬鹿しい。ボクはこの町に、おまえたちに、妬ましさしか感じない。ただ、ズルいとしか思えない!」

「その気持ち――ライゼルの笑顔に心が引き裂かれる、その気持ち……私には、わかります」


 ああ、どうしてだろう。彼女の痛みを代弁するたびに、私の胸も締め付けられるのに。かつての自分の、冷たくて暗い感情の渦に引きずり込まれそうになるのに。それでも、言葉が止まらない。この子を、このままにはしておけない。


「わかるなんて、嘘」

「この町の温かい光が、貴女の心の闇を深くするんですよね。私も、前の世界でそうでした。幸福そうな家族を見るたびに、『どうして、私だけがこんな目に』と、世界を呪いたかった」

「セルベールの娘に、わかるはずなんてない!」

「ええ、確かに私はセルベール家の令嬢です。けれど、この魂は、他の世界から迷い込んだ、ただの孤独な小娘なんです。貴女と、何も変わりません」

「全然違う!」


 ルナさんが叫んだ。その声は、もう怒りだけではなかった。それは、悲鳴だった。


「ボクは、そんなに甘くない! 優しさなんて、とうに捨てた! どこが同じだっていうの!? なんでおまえたちは、そんな……そんな……! 絶対に、同じなんかじゃない!」


 彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 それを見た瞬間、私の胸を締め付けていた疑問の正体が、ふっと霧が晴れるように見えた。どうして私は、こんなにも彼女に固執するのか。


(……ああ、そうか。そんな、簡単なことだったんだ)


 私は、まるで自分自身に言い聞かせるように、儚げに微笑んだ。


「……ホント、気がついてみれば、とても単純なことでした」


 私はルナさんの前に、そっと剣を置き、無防備な姿を晒す。


「私も不思議だったんです。初めて会った時から、どうしてこんなにも貴女のことが気になって、放っておけないんだろうって」


 ルナさんは、ナイフを握りしめたまま、ただ私を見つめている。その瞳は、嵐の前の海のようだ。


「答えは、私の心の中にありました。……私、貴女を救うことで、あの頃、誰にも救われなかった自分自身を、一緒に救おうとしていたみたい。とても、自分勝手な話でしょう? だからこれは、私のエゴなんです」

「エゴ……?」

「そう。私は、私の都合で、貴女に幸せになって欲しかったんです」


 これで、腑に落ちた。このどうしようもない衝動の正体が。


「そうですね、ルナさん。私は貴女と『同じ』じゃなかった。でも、その違いは、貴女が思うようなものじゃない。生まれでも、境遇でも、能力でもない。……ただ一つ、絶望の淵で、手を差し伸べてくれる人に出会えたか、どうかの、ほんのわずかな運の違い」

「それって……」

「私は、幸運だった。私の破滅の未来を、世界の常識ごと叩き壊してくれる、ギリアムさまという『ルールブレイカー』に出会えた。あの方は、私の『成果』や『知識』ではなく、ただの『私』を見てくれた、たった一人の人でした」


 私は、震えるルナに向かって、ゆっくりと一歩踏み出した。


「怯えないで」

「ボクは……怯えてなんか……!」

「いま、その折れた腕を治してあげる」


 私は彼女の傍らにひざまずき、祈るように、その痛々しい右腕に手をかざした。温かい癒しの光が、私の掌から溢れ出す。


「なんで……ですか。なんで、そんなに、優しくするですか……!」

「私には、貴女を救えない」


 光を注ぎながら、私は静かに告げた。


「貴女の心を、その深い傷を本当に癒せるのは、私じゃない。きっと、貴女自身だけ。……でも、その手助けなら、私にもできる。私だけじゃない。この町には、貴女の手を取りたいと願う人が、たくさんいるんです」

「ボク……、ボクは……!」

「憎しみを燃やし続けて生きる道も選べます。でも、もし……ほんの少しでも、変わりたいと願うのなら……この町で、もう一度、人を信じてみませんか?」

「わあぁぁあぁあぁあっ!」


 ルナさんは堰を切ったように叫び、子供のようにがむしゃらにナイフを振り回した。私の袖が、ザクリと裂ける。


「きゃっ!」

「寄るな! 寄るなです!」


 彼女は後ずさりながら、魂から絞り出すように叫んだ。


「ボクに……そんなことを願う資格なんてない! あの人が鞭で打たれている時、ボクはなにもしなかった! 見て見ぬふりをした!」

「小さな子供だったんですもの。仕方がなかった」

「違う! ボクはホッとしてたんだ! あの人がいれば、ボクは叩かれないって! よかった、って、そう思ったんだ!」


 めちゃくちゃに振るわれるナイフが、私の頬を浅く掠める。


「あの人が死んだ時もそうだった! 悲しいはずなのに、涙も出なかった! ただ、見てるだけだった! 名前も知らない『あの人』! あああああ! せめて名前だけでも聞いていれば、ちゃんとお墓を作ってあげられたのに! ボクは、自分が傷つくのが怖くて、自分の安全だけを考えてた! そんな自分を……今さら、許せって言うの!?」


 慟哭にも思えたその声に、横から応じる者がいた。


「そうじゃ。許してやるんじゃよ、まだ幼い頃の自分じゃろうが。怖くて当たり前なんじゃ。のぅ、セバスよ」


 ミューゼアが振り向くと、そこにはガリアードレが居た。スケルトンたちを一掃して、広場にやってきたのだ。後ろにセバスも続く。


「許すことから始められる一歩というものはあります。ギリアムさまも、変わろうとなさっていた最初の頃は、それまでの自分の行いにお悩みになってたものです」

「うむ」

「横から来て勝手なこと……言うなです!」

「言わせてもらうさ。なにせお主は、わしの古い友人が未来を託した娘。不幸になどさせてはやらん」


 ガリアードレが真面目な顔で言った。

 ルナが反発する。


「なにワケわからないことを!」

「そうじゃな、わかるように伝えよう。お主の言う、恩人殿――『あの人』じゃがな、名はエスカ、わしの古い友人じゃ」

「……え?」


 ルナの動きが止まった。


「あの人の素性……わかったの?」

「うむ。ミューゼアに聞かれて思い出した。忘れていたのが不覚じゃったが、まさか奴隷に身をやつしていたとは」


 一瞬、苦々しげな表情。だがガリアードレは、そのまま淡々と語り続ける。


「彼女――エスカは、かつて我が魔族領で暮らしていた魔法使いじゃ。いつもいつも、魔族領だけでなくもっと広い世界が見たいと言っておっての。いつか、この世界が丸い球体であることを証明したい、とも言っておった」

「……球、体? なにそれ?」

「さてな。なんでも古来からある一つの説らしいのじゃがな。この地面は丸くて球になっている、とかなんとか。わしらは馬鹿馬鹿しいと笑っておったがの。球だというなら、なぜこんなに地面は平たいのじゃ、と」


 懐かしむような顔で、ガリアードレは古い友の記憶を語る。

 ルナは、ただ茫然とそれを聞いていた。


「魔族領を出たのは、あ奴の持病がいよいよ悪化したからじゃ。命に先がないと自覚したエスカは、一人で旅立った。人間たちの魔法知識も勉強して、どうにかこの世界が球体であるということを証明するんだ、と言っておったよ」

「この世界が、球体……?」


 そう言えば、とルナは思い出した。

 あの人は――エスカさんは、いつか私の代わりに真実を見つけて欲しい、と言っていた。その為に『生きて』と。


「なるほどのぅ。じゃあその首輪は、その為の魔道具なのじゃろう。この世界の真実を見つける為の。たぶん病気の進んだエスカの身体では、使いこなすことがもう出来なかったんじゃろうなぁ」

「そういえば――」


 と口を挟んできたのはミューゼアだ。


「確か『イカロス』は、使いこなすのにとても大変な習熟を要したはずです」

「ふむ。やはりそういうことか」


 ガリアードレが頷く。

 そこに、新たな声が被さってきた。


「だからエスカは、まだ若いルナに夢を託した、というわけか。生きろ、というメッセージと共に」


 ギリアムが、ルナの後ろに立っていたのだった。


 ◇◆◇◆


 俺は、呆然として立ち尽くすルナに問うた。


「ルナ、あのときおまえは『あの人』の話を聞けたなら仕事を諦めてもいいって言ってなかったか? どうだ、ここで手を引くという選択は?」

「……無理。あのときとは違う、ボクの中で、なにか暗い炎が燃え上がってしまった。憎い気持ちと、苛立ちと、妬み、嫉み、自分でもわかるくらいに、全てマイナスの感情」

「そっか、まだ足りないか。まあ、言葉だけじゃ難しいよな」


 言いながら俺は、ヒョイ、とルナを担ぎ上げた。

 うん、小柄だから軽い。


「な、なにするですか!」

「その目で確かめるのが早いだろ。一緒に飛ぶぞルナ、いいな?」

「よくないです!」

「いいんだ」


 ニカッと笑って俺たちは飛んだ。5連飛行具、さすがミューゼア嬢曰くSSR級のアイテムだ。二人分でも十分飛べる。


 飛ぶ飛ぶ飛ぶ。風を切って上昇する。高みへと上がる。

 雲が近い。こんなところまで上がったのは初めてだ。地上を見ると、全てが豆粒みたいに小さく見えて、なんとも不思議な気分になった。絶景とはこういうこと。ヒュウヒュウと、風の音だけが耳に届く。


 なんかここは孤独で寂しい、独りぼっちな場所にも思えた。

 だけどそれ以上に、なんとも神秘的な世界だとも感じる。


「この高度まで二人で来たのは二回目か」

「つくづく……おまえに魔道具を使うコツを教えなければよかったと思うです」

「そう言うな」


 そう言われると苦笑するしかない。


「なあ。この景色、いいよなぁ。凄いよ、地上の皆がゴマ粒みたいに見える」

「こんな景色、もう見慣れてる」

「ありゃ。そうか残念」


 俺は何回この景色を見ても感激できるんだがなぁ。

 さすがUR級飛行魔道具の持ち主というべきか、俺より進んでいる。


「これでオシマイ? じゃあ戻ろ」

「いーや、これからが本番だろ」

「え?」


 不思議そうな顔で俺を見た。


「おいルナ、『イカロス』と俺の飛行魔道具の力を合わせるぞ」

「なにを言って……」

「もっと高く。高く高く、ほら同調しろ。きっとそこに、エスカの求めたものがある」


 そう言うと、ルナは無言で俺に合わせてきた。

 UR級とSSR級の飛行魔道具が合わさり、最強に見える。

 グングンと上昇、まだだ、まだ足りない。


「どこまで上がる……の?」

「もっともっと! 『イカロス』の限界まで、保護魔法が許す限り!」

「えええ」

「行くぞ、そこにはきっと世界の果てが待っている!」

「えええええ?」


 俺たちはチカラを合わせて昇った。雲を突き抜けその先へ。次第、周囲が暗く感じられるようになってきた。ちょっと息苦しい。この辺りが限界なのか? いや、もうちょっと。もうちょっと!


 ――――。


「へえ……これは凄い」


 まずは、驚きしか口に出来なかった。

 息苦しさを感じる暗い空の中、俺たち二人はポツンと『そこ』に居た。


「そうか。これがルナ、おまえの恩人さんが託したかった光景なんだ」

「まる……い?」

「そうだな。地平線、なんだよなあれは? ビックリするな、本当にこの世界が丸かったなんて」


 丸くて青くて大きくて、とても綺麗な物が足の遥か下にあった。

 俺たちは、あの大地からここまで昇ってきた。


「ギリアム……、これは本当に、ボクたちが住んでる大地なのですか? ボクの目が変になっちゃったのかな、なんだか、大きな大きな球体に見え……ます」

「安心しろ、俺にもそう見えている」

「これが、ボクたちの住む……世界?」

「どうやらそうらしい」


 神秘的な光景を前にして、俺たちは息を呑みながらも言葉が止まらなかった。不思議な興奮に駆られて、思わず目を見開いてしまう。ルナもまた、ジトっとしていたはずの目を大きく見開いて、足元にある地面の球――そうだな地球とでも呼ぶか――を眺めていた。

「びっくり……です。世界の端は断崖絶壁だと思って……たのに」

「俺もだよ。ああでも、そうかこれが真実なんだ。おまえの恩人さんが、命と引き換えにしておまえに託した景色」

「この景色……が?」

「ああ。そしてお前が得たこの知識で作る『未来』は、おまえの中にあるんだよルナ」


 俺がそう言うと、ルナはしばらくあっけに取られた顔で、俺の方を見た。


「ボクの中に未来。……そんなこと、考えたこともなかった」

「なにかを『ズルい』と憎み続けるか、それとも『美しい』と愛してみるか。……選ぶのは、おまえ自身だ」

「でも、でもボクは……これまでに幾人もの命を仕事で奪ってきてしまった。ボクにそんな、なにかを愛する資格なんて……」

「あるに決まってる」


 俺は、ルナの言葉を遮るように、静かに言い切った。


「――資格があるかどうかなんて、俺が決めてやる」


 有無なんて言わさない。これは決定事項だ。


「おまえの罪が重くて一人じゃ持てないってんなら、俺と、ミューゼア嬢と、ライゼルの全員で持ってやる。そうすりゃ、おまえの分は羽みたいに軽くなるだろ」


 俺は震えるルナの頭に、ぽん、と掌を置いた。


「だからルナ。おまえは、これからどうやって笑うかだけを考えてろ。それ以外の面倒事は、全部俺が殴り飛ばす」

「ボク……でも、ボクは……」


 言葉にならない声が、ルナの唇から漏れる。その小さな肩が、後悔と罪悪感の重みで震えているのが、痛いほど伝わってきた。


「エスカは、おまえに生きてほしかった。それでいいだろ」


 俺の声が、星の下で響く。


「だから生きろ、ルナ。……大丈夫だ。罪を抱えたままでも、腹の底から笑える日は来る。俺たちが、一緒におまえと笑ってやるから」


「ぁ……ぁぁ……」


 堰を切ったように、ルナの瞳から大粒の涙が溢れ出した。

 それはもう、憎しみの色じゃなかった。凍てついた心を溶かす、温かい雨のようだった。

「うっ……うわぁぁあああああ――っ!」


 嗚咽。

 それは、長い間、孤独な闇に閉ざされていた魂の産声だったのかもしれない。


 幼子のように泣きじゃくるルナを、俺はただ黙って、力強く抱きしめてやる。

 新しい始まりの夜明けを、丸い大地が祝福してくれたのだった。

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