第26話 ミューゼア・セルベール


 私は両親から、「物」のように扱われていた。

 生前の名前は、もう遠い霧の彼方だ。


 ただ、胸に刻まれているのは、シンと静まり返った部屋の冷たい空気。

 そこには、私の息遣いだけが小さく響いていた。


 食事はいつも一人。

 テーブルの上には、栄養素だけが完璧に計算された、色も温もりもない料理。

 両親は、私がそれを決められた時間に、決められた量だけ口に運ぶことだけを監視していた。まるで、私は彼らの手で動く精巧な機械ででもあるかのように。


 笑顔を見せてくれるのは、テストの結果が輝いた時だけだった。

 学校の壁に張り出された数字の羅列。その頂点に私の名前が刻まれていることを報告すると、父は一度だけ、満足げに頷く。


「よくやった。我が家の誇りだ。」


 母は私の肩に手を置き、まるで工芸品を眺めるように囁いた。


「さすが、私の最高傑作。」


 その言葉には、温かさなど微塵もなかった。

 彼らの視線は、私の目には届かず、ただ「成果」という無機質な数字を追い求めていた。

 その数字が、彼らの虚栄心をどれだけ満たすか。それだけが、彼らの関心だった。


 もし、私がその数字を刻めなくなったら?

 ――考えることさえ恐ろしかった。


 きっと私は、壊れた道具のように、静かに部屋の隅に打ち捨てられるだけだっただろう。

 だから、私はひたすら期待に応えた。

 息が詰まるような灰色の毎日の中で、ただ一つ、私の心に色を灯してくれたものがあった。

シミュレーションRPG『ソングオブアース』。


 こっそり買ったゲーム機の中に広がるその世界は、私の救いだった。

 そこでは、私は何者にでもなれた。

 剣を振るう勇猛な戦士、星を読み解く賢者、仲間と笑い合うただの少女。

 画面の向こうの彼らは、私の「成果」ではなく、私という「存在」を見てくれる気がした。


 共に試練を乗り越え、勝利の喜びを分かち合う。

 くだらない冗談で笑い、時には無茶をして叱られる。

 彼らの声は、私の心にそっと寄り添い、孤独を溶かしてくれた。


 だから、私はその世界に溺れた。

 すべてのキャラクターを育て、すべてのアイテムを集め、すべての物語を心に刻むほどに。

 それは、現実からの逃げ道であり、私が「私」でいられる唯一の場所だった。

 私が、胸を張って「好き」と言える、たった一つの宝物だった。


 ――そして、気づけば、私はこの世界にいた。

 ミューゼア・セルベールとして。


 皮肉なものだ。

 転生した先でも、私の運命はほとんど変わらなかった。

 セルベール公爵家。権力と富の頂点に君臨する家。

 ここでも、私は「セルベール家の令嬢」という役割を押し付けられた。


 父も、母も、兄も、私を「家の名誉を高める駒」としか見なかった。

 品行方正に振る舞い、完璧な政略の道具であること。

 求められるものは、前世と何一つ変わらなかった。


 再び、私は孤独の淵に立たされた。

 この世界が『ソングオブアース』そのものだと気づいた時でさえ、その驚きを誰とも分かち合えなかった。

 破滅の未来を知り、恐怖に震える夜も、ただ一人、闇の中で耐えるしかなかった。


 ――ああ、そうだ。

 ルナさんの瞳に宿る痛みを、私は最初から理解していた。


 彼女も、きっと同じだった。

 奴隷として、セルベール家の暗殺者という冷酷な役割を背負わされ、期待に応えることでしか自分の価値を証明できなかった。

 その息苦しい闇の中で、彼女に光をくれたのは、たった一人の恩人――『あの人』だったのだろう。


 私が、ゲーム機の世界に救いを求めたように。

 ルナさんは、『あの人』に縋った。

『あの人』が、彼女が「自分」でいられた唯一の証だったから。

 彼女に未来を夢見る勇気をくれた、たった一つの光だったから。


 だが、その光を失った今、彼女の世界は灰色に沈んだ。

 いや、光を知ってしまった分、かつての闇よりも深い、絶望という名の奈落に閉ざされている。

 ライゼルの輝きは、彼女にとってどれほど眩しく、そして残酷だっただろう。


 私たちが当たり前のように浴している、この温もり。

 ギリアムさまが、セバスさまが、ガリアードレさまが、私という「個人」に注いでくれる、曇りのない信頼と笑顔。

 それは、ルナさんが渇望しながら、決して手にできなかったものばかりだ。


「ズルい」


 彼女はそう呟いた。

 その一言は、私の心を鋭く抉った。

 痛いほどに、彼女の気持ちがわかる。

 もし、前世の私が、こんな幸福な光景を目の当たりにしたら――


 きっと、同じ言葉を吐いていただろう。

「どうして、私だけが」と、世界を呪い、涙をこぼしていただろう。


 ――。


『イカロス』。

 あれは彼女が生きる上で必要だった武装であると同時に、心の支えなのだろう。

 大切な『あの人』が希望と一緒に託してくれた、大事な拠り所。


 彼女は『あの人』に言われた通り、『イカロス』の名を伏せて大事にしていた。

 あの魔道具……あれだけ強力なアイテム。ゲームの中でも、その入手イベントは特殊だったはず。そうだ確か……私は何度も読んだ。あの物悲しいテキストを。


 思い出せたのは、前世の記憶が扉を開いたからだろうか。

 脳裏に、記憶の断片が浮かび上がってきた。

 それはアイテムボックスの隅で輝いていた、一つのフレーバーテキスト。


『――かつて自由を夢見た魔族の魔導士が、広い世界をその目で見たいと願い作り上げた翼。だが彼女は太陽に焼かれる前に、権力に焼かれてしまった――』


 ……魔族の魔導士?

 テキストを思い出した瞬間、思考の歯車が音を立てて回り始めた気がした。

 はっきりと『魔族の魔導士』と書かれていた。そして、製作者は『彼女』。


 ……権力に焼かれた?

 イカロスの製作者は、セルベール家のような人間の権力者にその命を奪われたとでもいうのだろうか。いや。――もしも『ような』でなく、『セルベール家そのもの』を指しているとしたなら?


 ……そして、あの言葉。ルナさんが『あの人』の言葉として語った夢。


『広い世界を、この目で見たい』


 テキストに書かれた願いと、全く同じだ。

 点と点が、繋がり始める。

 バラバラだったパズルのピースが、一つの可能性を示している。


 古い文献を見ても『イカロス』の記述がどこにもないわけだ。

 あのUR級飛行魔道具は『あの人』、ルナさんの『恩人』その人が製作したものに違いない。『イカロス』はまだ作られてからさほど時が経過していないアイテムだったのだ。


 だとしたならば。

 確認してみるべきはガリアードレさまに、だった。


 UR級の魔道具を作れる魔族。

 それも近年まで存命だった魔族に、心当たりはないか、と。

 魔族の王であるガリアードレさまならば、なにかご存じかもしれない。


 ――そうだ。

 確かめるべきことが見つかった。

『イカロス』の製作者の名前は、まだわからない。でも大きな手掛かりは掴んだ。


 私は書庫を飛び出して、ガリアードレさまの元へと走ったのだった。


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