第17話 境界のなかで
焚き火の炎が、静かに揺れていた。
森の奥にある小さな洞窟。昼のうちに見つけたこの隠れ家は、夜の帳が降りると同時に、ふたりの小さな居場所となっていた。
アイリスは、ルークの髪をやさしく梳いていた。
人の姿に戻ったとはいえ、彼の中にはまだ“竜”の記憶が根を張っている。
言葉やしぐさは徐々に整いはじめたものの、目の奥には時折、猛禽のような鋭さが宿っていた。
「……これ、気持ちいい」
ルークがぽつりとつぶやいた。目を細めるその顔は、どこか無防備で幼く、アイリスの胸をじんと締めつける。
「そう? 昔から、撫でられるの好きだったものね。よく私の膝で寝てた」
「……覚えてない。でも、きらいじゃない」
ルークは膝の上で小さく丸くなりながら、アイリスの指にそっと自分の手を重ねた。
「ねえ、おねえちゃん」
「うん?」
「ぼく、本当に“ルーク”なの?」
その問いに、アイリスの手がぴたりと止まった。
「どうして、そんなことを思うの?」
ルークは少し考えてから、ぽつぽつと話し出す。
「泉の中で、たくさんの声がした。『戻ってこい』『人になれ』『代償を払え』……でも、誰が誰なのかわからなかった。自分が誰なのかも……」
アイリスは、胸の奥がきゅっと痛むのを感じながら、そっとルークを抱き寄せた。
「あなたがルークかどうか――それは私が決めることじゃない。でも、私の目の前にいるあなたは、間違いなく“大切な弟”よ。私がそう感じている。それだけじゃ、足りないかしら?」
ルークは、しばらく黙っていた。
けれど、やがて小さな声で、「ううん」と首を振った。
「足りる。……すごく、あたたかい」
その言葉に、アイリスは微笑んだ。
失われた時間と記憶。竜として過ごした孤独な日々。
すべてが癒えるには時間がかかるだろう。けれど、今確かに、ふたりの絆はまた一歩、歩み寄った。
――そのとき。外で、木の枝を踏む音がした。
アイリスは反射的にルークを庇い、背に短剣を握った。
ルークの瞳もまた、ふっと鋭い光を宿し、かすかに牙を見せる。
「気配……ひとつ。けれど、ただの獣じゃない」
アイリスは頷き、火を覆い隠すようにして立ち上がった。
そして、洞窟の入り口へと足を忍ばせる。
「ルーク、そこにいて。絶対に出てこないで」
「でも、ぼくも……」
「お願い。今はまだ――」
言いかけて、アイリスはふっと微笑んだ。
「ルークは、私の弟なのよ。守られるより、守る方が好きだったわよね」
ルークはしぶしぶ頷き、焚き火のそばで小さく身を縮めた。
外の気配は、まだ遠くでじりじりと近づいている。
王国の追手か、それとも別の影か――
再会の喜びの裏で、再び“戦い”の匂いが、ふたりを包み始めていた。
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