第21話 嵐の前、そして最初の異変

 神社の境内。

 空はすっかり朝焼けに染まり、東の空に薄オレンジ色のグラデーションが広がっていた。

 鳥たちのさえずりが、澄んだ空気の中でかすかに響く。


 「――よし、今日はここまでだ」


 真澄の低い声が、静かな境内を切り裂くように響いた。


 俺は膝をつき、ガクガクと震える肩で息を繰り返す。

 冷たい石畳の感触が、汗で濡れた手のひらをじわりと冷やす。


 符を何度も握りしめたせいで、手のひらは真っ赤に腫れ上がっていた。

 ズキズキと火照るような痛みが脈打ち、全身は鉛のように重い。

 足の筋肉がピクピクと痙攣し、少しでも気を抜けばそのまま倒れそうだった。


 「……くそ……まだ……」


 悔しさと未練が入り混じった声が自然と漏れた。

 俺はギリギリと歯を食いしばり、地面を睨む。


「無理をするな。ここで潰れたら意味がない」


 真澄の冷たい声が降ってくる。

 だけど、ほんの一瞬だけ――その視線が、俺の顔を優しくなぞったような気がした。


 「でも……俺は……」


 言いかけたその時。

 真澄の表情がスッと変わった。


 眉間に深い皺を刻み、目を細める。

 そして、遠くの空をじっと見つめた。


「……この空気……」


 その声色が、今までの訓練時とはまったく違っていた。

 緊張が一瞬で張り詰め、心臓がドクンと音を立てる。


 俺もつられて、思わず空を見上げた。


 空は晴れている。

 だけど――確かに、何かがおかしかった。


 空気が、いつの間にか重たく、湿り気を帯びている。

 肌に冷たさがまとわりつき、地面を這うようにじわじわと冷気が押し寄せてきた。


 鳥たちのさえずりが、不意にピタリと止まる。


 「……嫌な気配だな」


 真澄が静かに呟き、懐から結界の札を取り出す。

 その手の動きは落ち着いているけど、わずかに指先が緊張しているのが見えた。


 俺も慌てて膝をついたまま立ち上がる。

 まだふらつく足を無理やり支え、汗で濡れた符を握りしめた。


「何か……来るのか?」


 声が少しだけ震えていた。

 真澄はじっと前を見つめ、静かに首を振る。


「まだわからん。だが……用心しておけ」


 その目は鋭く、まるで遠くの何かを見据えるように、じっと闇の奥を探っていた。

 胸の奥がざわざわとざわめき、不安が静かに膨らんでいく。


 まるで――嵐の前の、奇妙な静けさだった。



◆ ◆ ◆


 一方そのころ、悠人のアパート。


 朝の光が、薄いカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。

 部屋の中は、静かすぎるほど静かで――その分、冷蔵庫の小さな作動音がやけに耳に残る。


「悠人……まだ帰ってこないね」


 リリムがソファの背もたれにゴロンと寝転がりながら、ぽつりと呟いた。

 片手には、もう半分溶けかけたプリンのカップ。

 そのスプーンで何度もすくっては、口元まで持っていき……でも食べないまま、またすくって……を繰り返していた。


 机の上には、昨日まで真剣に書き殴っていた召喚メモがぐしゃぐしゃに丸められ、いくつも転がっている。


「訓練が長引いてるだけよ」


 カグラが窓際で髪をまとめ直しながら、ちらりと横目で答えた。

 その声はいつも通りクールで無表情――……だけど、耳を澄ませると、ほんの少しだけ張り詰めているのがわかる。


 窓の外。

 街並みはいつもと変わらない平和そのものの風景だ。

 コンビニ前で新聞を読む老人、ゴミ出しをするおばさん、通勤ラッシュを過ぎた静かな道。


 でも――

 その“静けさ”が、どこか異様に感じられる。


 じりじりと、胸の奥をざわつかせるような重さが、部屋の中に満ちていた。


 リリムが、ふと手を止める。

 スプーンを見つめたまま、目がわずかに揺れる。


「……いつもなら、そろそろ帰ってきてもいいのに……」


 か細い声だった。

 その響きが、妙に部屋の中に残る。


 カグラは結んだ髪をギュッときつく締め、窓の外を鋭く睨んだ。


「……変ね。この感じ……」


 眉がきゅっと寄り、瞳が細くなる。

 何かを探るように、視線が遠くの街角をじっと追っている。


 風がふわりと吹き抜け、カーテンがかすかに揺れた。

 その一瞬で、ほんのわずかだけ空気が“冷たく”変わった気がして――

 リリムも、思わず背筋を伸ばして振り向いた。


「……カグラ?」


 カグラはしばらく黙ったまま、何かに耳を澄ますようにじっとしていた。

 そして、かすかに小さな声で呟く。


「嫌な予感がするわ……」


 その声は、確信めいていて――

 リリムの胸の奥にも、ざわりと不安の波紋を広げていった。



◆ ◆ ◆

 


 その日の午後。


 訓練の疲労が全身を支配していた。

 まるで鉛を背負って歩くように、俺はアパートへ向かってとぼとぼと歩いていた。


 (今日は……もう限界だ。とにかく風呂入って、寝て……)


 頭がぼんやりとして、視界も少し揺らいでいる。

 まぶたが重くなり始め、思わずあくびが漏れた、その時――



 ――ドォンッ!!

 


 突然、腹の底に響くような爆音が轟いた。


「……ッ!?」


 反射的に足を止める。

 街の中心部――商店街の方向から、かすかに地面が揺れた。

 通りを歩いていた人たちが一斉に足を止め、ざわめきの波が広がる。


 俺の心臓がドクンと跳ね、背中を冷たい汗がつっと伝った。


「な、何だ……?」


 目をこらす。

 すぐに視界の端に、異様なものが映り込む。


 ……黒い“煙”――いや、“もや”のようなものが、商店街の上空にゆっくりと立ち昇っていく。


 その気味の悪い黒さが、空気を染め上げるように広がり始めた。


 (やばい……これは、普通じゃない……!)


 ゴクリと喉を鳴らし、一歩後ずさったその時。


「悠人!!」


 唐突に声が響き、思わず振り返る。


 「うおっ……!」


 どこから飛んできたのか、リリムが勢いよく俺の視界に飛び込んできた。

 ゼェゼェと肩で息をしながら、目を大きく見開いている。


「見た!? あれ、やばい感じ!!」


「お前、どっから来たんだよ……!」


 息を切らせながらも、リリムは真剣そのものの顔で俺の袖をぎゅっと掴む。


「今はそんなのどうでもいいでしょ! 行くよ!」


「お、おい待――」


 リリムが勢いよく俺の手を引き、いきなり駆け出す。

 思わず体が引きずられ、バランスを崩しながらも必死に足を動かした。


 (くそ……休む暇なんか、なかったか……!)


 街中に広がる騒めきと、不穏な黒煙。

 鼓動がどんどん早くなり、足が自然と速くなる。


 リリムの手のひらが、強く俺の手を握りしめる。

 その感触だけが、わずかな安心感を与えてくれていた――。



◆ ◆ ◆


 

 現場に到着したとき――そこは、もはや“街”とは呼べない有様だった。


 商店街の一角が、見るも無惨に壊されている。

 ショーウィンドウは粉々に砕け散り、地面にはひび割れが走り、電柱が根元から折れていた。

 街路樹は幹ごと裂け、ベンチや標識がねじり潰されたように歪んでいる。


 空気そのものが、異常だった。


 まるで空間がビリビリと軋むように、目に見えない“何か”が渦を巻いている。

 耳の奥がキーンと鳴り、心臓の鼓動がやけに早くなる。


「な……なんだこれ……」


 俺の喉から、自然と震える声が漏れた。

 汗が背中を伝い、手のひらがじっとりと湿る。


 そして――視線の先。

 瓦礫と煙が立ちこめるその中心に、“それ”は立っていた。


 黒い影。

 いや、影と呼ぶには異様すぎた。

 輪郭がぼやけ、瘴気の塊のように常に揺らめいている。

 その中に、人間の形をした何かが、うっすらと見える。


「久しぶりだな、“器”の少年よ」


 低く響く声が、体の奥にまで突き刺さる。

 声が発せられるだけで、周囲の瓦礫がコトリ、と微かに転がるほどの重圧。


「誰……だ?」


 俺は思わず一歩後ずさり、身構えた。

 符を取り出そうと手を伸ばすが、指先が小さく震えているのがわかる。


 そのとき――


「悠人、下がって。こいつ、ただ者じゃない……!」


 リリムがすっと前に出た。

 いつものおちゃらけた表情は消え、真剣な瞳で黒い影を睨んでいる。

 手のひらにはすでに赤黒い魔力の光が揺れていた。


 張り詰めた空気。

 その緊張を切り裂くように、バッと頭上から風が吹き抜けた。


「間に合ったか――!」


 鋭い声とともに、ビルの屋上から一人の影が飛び降りてくる。

 舞い上がるコート、きらりと光る紙符。

 音もなく地面に着地したその姿は――カグラだった。


 「カグラ……!」


 俺が思わず声を上げると、カグラは一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を黒い影に戻した。


 手にした紙符が風に揺れ、空気がピリピリと音を立てるような感覚が広がる。

 その瞬間、さらに街の静けさが深まり、まるで“嵐の目”にいるような圧迫感が全身を包み込んだ。


「悠人、リリム、油断するな。これは……本当に“やばい”やつよ!」


 カグラの声が、低く、鋭く響く。

 その瞳は、まるで獣のように研ぎ澄まされていた。


 俺の背筋に、ゾクリと冷たいものが走る。

 視線の先で、黒い影が微かに笑ったように見えた。


 嵐のように静かだった街が――今、確実に、戦場へと変わろうとしていた。


 


(つづく)

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