第5話 神入

 レタとミライがはるとくんを送って行ったから、練習は中断になった。

 やっぱり対人関係は、あの二人に限る。

 紗鳥さとり神入しんにゅうについて俺以上に知らなかったらしい。

 あまねに教えられるまま、タブレットでPDFを開いている。

 ――協力者向け参考資料・第四章『神化しんかしんにまつわる現象』。

 

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 第四章:神化しんかしんにまつわる現象


 ●神化しんか

 魔族や魔獣が死亡した際、体内に残っていた魔力量が非常に多い場合、ごくまれに魔力が分離し、暴発することがあります。

 これを「神化しんか」と呼びます。


 通常、魔族や魔獣は魔力によって自己治癒や復活が可能なため、死亡に至ったとしても神化しんかはほとんど起こりません。

 しかし以下のようなケースでは、本来治癒に使われるはずの魔力が働かず、神化しんかが引き起こされることがあります。


 ・妊娠中など、魔力量は多くても自由に使える魔力が制限されている場合

(※母体と胎児はそれぞれ魔力を持っていますが、互いの魔力を共有・代用することはできません)

 ・自ら命を絶つなど、身体が治癒を試みていない場合

 ・極度のストレスなどにより、自己治癒がうまく働かなかった場合


 通常、魔族が老死や病死に至った場合、魔力が減少しているため、当然神化しんかは起こりません。

 なお、魔力を持っていても魔術回路(=魔力を扱うための仕組み)を持たない存在も、魔力を消費することができないため、神化しんかは起こりません。

 このような例としては、魔力はあるが魔術が使えない「粋人すいじん」などが該当します。

 

 神化しんかが発生すると、強大な魔力が暴走し、周囲に甚大な被害をもたらす恐れがあります。

 そのため、魔族社会では神化しんかは自然災害に匹敵するリスクとして重く見られています。


 ●しん

 神化しんかによって生じた魔力のかたまりは、「しん」と呼ばれます。

 しんは、空中を浮遊しながら移動し、その姿は半透明の大きな生物のように見えます。

 その外見から、魔族の間では「しんによく似た生物」としてクリオネが例に挙げられることがあります。


 しんは時間とともに魔力を失い、次第に小さくなっていきます。

 討伐することは不可能ですが、封印することは可能です。


 体長が小型犬程度以上のしんを発見した場合は、魔術局に通報し、封印処理を依頼してください。

 しんは討伐できないため、専用の封印術で安全な場所に隔離する必要があります。


 一方で、非常に小さなしんについては、無闇に刺激しない限り重大な被害に至ることはまれであるため、必要以上の介入を避け、静観する対応が選ばれる場合もあります。

 小さなしんは、より大きなしんに餌として食べられ、消えることがあります。


 しんを発見した際はできるだけその場を離れ、安全を最優先に行動することが求められます。


 ●神隠し/神淵しんえん

 しんが生きた魔族や魔獣、時に人間ひとまを取り込むことがあります。これを「神隠し」と呼びます。

「神隠し」という呼び名は、人間ひとまの社会で行方不明事件の理由として使われ始めたもので、本来は魔族特有の現象を指すものではありません。

 魔族社会における正式名称は「神淵しんえん」といいますが、公的文書や専門的な記録でしか使われず、日常会話や報道ではほとんどの場合「神隠し」の呼称が用いられます。

 神隠しにあった者の身体は消化されず、取り込まれたまま時間が止まったような状態になります。

 まれに、数ヶ月から数年後に生きて帰還する者も存在します。


 これまでの記録では、最長でおよそ十年が限界とされていましたが、近年になって、二百年にわたる神隠しからの帰還者が確認され、各分野で研究が進められています。


 ●神入(しんにゅう)

 小さなしんは、魔族の心の隙間に入り込むことがあります。

 この現象は「神入しんにゅう」と呼ばれています。


 神入しんにゅうの状態では、宿主の感情が鈍くなったり、魔力が不安定になることがありますが、多くは一時的なものであり、時間の経過や周囲の働きかけによって自然に抜けていきます。


 ただし、心身の状態によっては長期間残ることもあるため、早期の対応が推奨されます。

 本人の意志による制御が難しい場合は、医療機関や魔術局への相談が必要です。


 ――――――――――――――――――


 心の隙間に入るしんって、なんか、過去の俺みたいだ。

 あまねの中に居た頃の、美甘周みかもあまねの別人格として振舞ってた俺。

 高校を卒業する頃まで、あまねの心の穴は広くって、俺の意識もはっきりしてた。


 でも、上京した途端、俺の出る頻度は一気に減った。

 ちょうどその頃、らん、レタ、ミライの三人と初めて会った。

 思えば、あれは初対面の相手用の人格としての、延命みたいなものだったんだろう。

 そのまま俺は個人としてバイトもしてたし、らんが話し相手に必ず俺を指名してた。

 極端な話、らんが俺の存在を繋ぎとめてたと言っていい。


 きっと、あまねの心の穴は少しずつ小さくなっていったんだと思う。

 三年前、狭くなったその心からはみ出した俺は、別の個体になった。

 神化しんかで生まれた魔力のかたまりと、らんに固定される前の俺。

 その違いなんて、意識があって、暴発してなかったことくらいだったのかもしれない。


「小さいしんってさ、俺の中にも入りやすい?」

 自認は二十六歳。

 見た目は分離した時から変わってないから二十三歳、魔力核は三歳。

 魔族の子には入りやすいっていうけど、じゃあ俺はどうなんだ。

「いやぁ? 体の構造が違うから、たぶん入らないと思うよ。むしろ……」

「むしろ?」

しんの方が、えにしのことを仲間だと勘違いするかもしんない。しんに意思があればね」

 そっか、同じようなものなんだった。


 ......なら、食えるんじゃないか?

 しんがコーヒーの空き缶に突っ込まれてるから余計、食べ物に見えてくる。

 クリオネみたいな見た目だって、よく見れば水まんじゅうっぽい。

 いや、別に食わないけど。


「何言ってんの? ほら、そろそろ出ようよ」

 多目的ホールを使えなくなる時間が来るより少し前に、紗鳥さとりがそんな声を掛けた。

 らんは缶コーヒーの空き缶に何かの術をかけて、ゴミ箱に捨てた。

 小さいしんが入ってる空き缶なのに、扱いが羽虫のそれと一緒だ。

 しんは、人から引きはがされて急速に弱っているのか、もう空き缶の口よりも小さくなっていた。

 あと数十分で消えるから、気にしなくてもいいってことらしい。


「そうだ、あまね紗鳥さとりって昨日から居るんだよな。俺みたいな猫って見かけた? タマって名前らしい」

「あー、なんか、タマって野良猫が最近居なくなって寂しいって。ボール遊びが好きな子だって」

 紗鳥さとりがPDFから顔を上げた。

「それ、さっき先生から俺も聞いた。タマ、黄色い目でササミが好きな……」

 口に出しながら、思い出してたのは龍の姿だった。

 黄色い目で、ササミ食ってなかったっけ。

紗鳥さとり、それ猫って言ってた?」

 たぶん、らんも同じ結論へたどり着いている。


「え、どうだったかな……」

 龍を含む魔獣は、そもそも猫や鳥によく化ける。

 しかも、あの龍の目はやけに猫っぽかった。

「僕、そのタマってさっき放した龍だと思うんだよねぇ。風呂の時間まで探しに行こうかなって」

「ん、いってらっしゃい。俺たちはもう温泉行くわ、そっちより時間かかるし」

 紗鳥さとりあまねが入るのは、入浴用介護リフトつきの貸切風呂だ。

 貸切の時間も、ちょっと長めに予約してあるらしい。

 

「ミライとレタ、もうあっちでおちびちゃんたちと一緒に探してるって。……タマって名前の猫」

 らんが見せてきたのは、ミライからの連絡だった。

 黄色い目の猫を、子どもが抱きかかえてる写真。

 背景の花を見た感じ、撮影されたのは半年くらい前か。


「で、こっちが放流前の龍の写真」

「同じじゃん」

 紗鳥さとりが同じだって言い切るなら、たぶん間違いない。

「旅館のスタッフも同じ結論っぽい。迷子になっちゃったならもう旅館の飼い猫にするから、見つけたら連れてきてってさ」

 ミライとレタの方で、話は先に進んでいるらしかった。


「俺もらんと探しに行くわ、タマ。あまね、カードキー持ってる?」

 俺の体重が五キロの時点で、紗鳥さとりの入浴を手伝えるはずもない。

 いくら魔術で誤魔化せるって言ったって、体重差がありすぎて危険だから。

「持ってる。もう一枚はミライのはず」

「了解。出発前にミライたちと合流しなきゃか」


「オレ、ミライだよ」

 すぐ近くに居た男が振り返って、俺に軽く手を振った。

 なら、その隣に居るのはレタだ。


「あれ、戻ってきてたんだ」

「餌用に、ササミの切れ端くれるんやと」

 スタッフ室は、貸切風呂のすぐ近くにある。


「オレも、髪の毛の色、らんみたいな派手色にしようかな~……」

「俺は、ミライの黒髪ええと思うで」

 紗鳥さとりあまねが貸切風呂の暖簾を潜った後、右隣から小さく息を吐く音が聞こえた。


らん、どうした?」

「……んや、大丈夫。あまね、ちょっとお疲れさんだったなーって思っただけ」

「あー、ちょっと顔色がね。紗鳥さとりと二人で静かに過ごせたら、落ち着くだろ」


 あまねの繊細さを考えれば、そういう時間は当然必要だ。

 俺が他人の顔色なんか見抜けるわけもない。

 でも、二十三年間同一人物だったあまねの顔色すら、分からないのか。

 

 ササミと一緒に、スタッフが懐中電灯を数本持ってきた。

 もう遅い時間帯だから、気を使ってくれたらしい。


 古めの懐中電灯だ。

 ずっしり重たそうな金属製で、乾電池を何本も使うタイプ。

 長さは二十センチほど、太さはトイレットペーパーの芯くらい。


 それを見た瞬間、レタが

「いや……あかん」

 と、死にそうな声を絞り出した。

 それらは、色も形も――あの日、警察に押収されていった懐中電灯とよく似ていた。

 ストーカーが、俺に使ったやつに。


 あれは、何かを照らすためじゃなかった。

 ただ、ストーカーにとって都合のいい形だったってだけ。

 殴るのも、それ以外も、懐中電灯一本で足りた。

 まあ、無理やり持たされた時に、隙を見てフルスイングしたけど。


 らんに続いて旅館の自動ドアを抜けると、夜の冷たい風が肌にまとわりついた。

 人の声は遠く、虫の音だけが近くで響いている。

 川沿いの旅館の灯りが、水面に細い帯のように映って揺れていた。

 揺れは波紋に砕け、夜の中へ溶けていく。


「あ、あれやんけ」

 足湯のすぐ近くに、一匹の猫が佇んでいた。

 爛々と光る眼は黄色で、水面に映る姿はやっぱり猫じゃなかった。


「おいで、よーしよし」

 らんがササミをチラつかせて、躊躇いなく抱き上げた。

 さすが魔調局、手馴れてる。

「たまには短いのもいいね」

 ……いや、ただの猫好きなだけかもしれない。


らん、毛が長い子好きだよな」

 メインクーンとか、ラグドールあたりの。

 猫カフェで、生後六か月のメインクーンがデビューした時なんかは凄かった。

 らんは通い過ぎて、店員さんに推しを覚えられてたし。


「この前三人で猫カフェ行った時、えにしにそっくりの子に夢中だったもんな」

 ミライが、そんな知らない話を出した。

 三人ってことは、ミライ、レタ、らんで猫カフェ行ったのか。


「俺に似てる?」

「そう。猫型の時のえにし、生後半年いってないくらいの子猫みたいな顔してるじゃん」

「顔はともかく、サイズ的に子猫じゃねえだろ」

「いやっ、メインクーンなら生後六か月で五キロの子は居るよ」

「お前ほんと猫好きだよな」

「......まぁね」

 らんは猫をミライに渡しながら、一瞬視線を逸らした。


 川沿いの道を旅館へ戻る途中、格子戸から柔らかな灯りが漏れる店の前を通った。

 高級そうな料亭だ。

 玄関先の生け花と、紺の暖簾が夜の色に溶けている。


「ああいう店、そういえば前にスタッフに連れてかれたわ」

えにし、待って。いつ、誰と」

 らんの声は、若干食い気味だった。


「え、結構昔……二年くらい前。裏方の集まりで行ってさ、端の席で寿司食ってた」

 そうだ、あの頃は、普通に飲み食い出来てた。


「何もなかった?」

「別に。なんか帰るとき、やけに車で送ろうとしてきた奴が居たくらい。絶対同じテーブルじゃなかったし、たぶん別室グループの誰かなんだけど。もう深夜だったし、しつこくて若干怖かったから、さっさとアプリでタクシー呼んで帰った」

「……」

 気のせいじゃなければ、らんが舌打ちをした。


 まあ、今思うと、車で送ろうとしてきたスタッフとストーカーは同一人物の可能性があるんだけど。

 ストーカーが元バイトだったから、どうせ俺の中だと似たような三人か四人のどれかとしか認識されてない。


 俺なりに気をつけ続けてるんだけどな。

 カラオケだって、急に抱き着かれたりして逃げてから、二人きりで行かないようにしてる。

 不意打ちで体重をかけられた時、

「ここの防音ってしっかりしてるよね」

 って相手が言ってたのが印象的だった。

 それから、同期の居ないカラオケにはそもそも行ってない。


 魔族は人間ひとまと違って妊娠を避けるために同性を選ぶことが多いから、中性的な見た目の方がモテるらしい。

 男子校の姫とか、女子校の王子様、みたいなやつ?


「この前、元マネが楽屋まで来てたし、もうひとりでは動かないって」

「あれねぇ。やっぱりギタギタにすればよかった」

 先月、らんが楽屋に忘れ物を取りに行ったら、元マネと鉢合わせて騒動になったところだ。

 扉越しにらんの怒号は聞こえてた。


 そもそも、二年前に懲戒解雇になったはずだから、楽屋に入れてたのがおかしい。

 退職の時にセキュリティカードを無効化してなかったのが原因らしくて、事務所から俺に賠償金が出た。

 実質的な口止め料だろうから表に出してないけど、脇が甘過ぎるだろ。

 急成長した事務所だから、二年前なんか特にスタッフが足りてなかったんだろうけど。


 そのマネージャーが変わる直前まで、やり取りはしてた。

 仕事で使うからって、急に自撮りを送って欲しいと頼まれるのは元から定期的にあった。

 広報用に顔写真が使われるのは珍しくなかったから、適当に送ってた。


 その日は、

「後から波やハイビスカスを合成するから、シャツも脱いで」

 って連絡が来て、指示通りに撮って送った。


 翌週、マネージャーが変わっていた。


 色んな演者のプライベートな写真を撮ってたらしい。

 俺が寝てる時の写真や、俺がアイス食ってる写真もあった。

 今でも、スマホのカメラで撮られるのだけは苦手だ。


 ネット上に写真が流されてて、ファンからの通報で発覚したらしい。

 閉じられたファンサーバーに元マネージャーが流したのを、一部のファンがSNSに出して、善意のファンは事務所に通報したんだって。


 ファンサーバーっていうか、半分くらいはアンチサーバーだろ。

 事務所に通報したやつより、SNSに流したやつの方が多いってなんだよ。

 一番多かったのは何もしなかったやつだけど、実質的に黙認した時点で同罪だ。


 雨音あまねカモの演者としての見た目は密かにバレたけど、容姿への評価は好評で、特に荒れなかった。

 それどころか、その時期に登録者数が伸びた。

 元モデルだと思われたらしくて、ありもしない別名義を探されてたけど。


 若干、事務所が最初に被害を発表してから、元マネージャーの懲戒解雇を発表するまでは叩かれてたくらい。

 仕事上の信頼関係を利用したって意味では、教師が仕事中に生徒を盗撮、みたいな話だしな。


「貸切温泉、もう使えるって。レタとえにしは先行ってて」

「分かった」

 靴を下駄箱に入れて、上着だけを脱ぎながら脱衣室に上がり込んだ。

 旅館の浴衣は、まあフリーサイズでいいか。

 

 レタが服を脱ぎ始めるよりも早く、風呂場への扉を開け放って、そのまま猫になった。

 傍からの見た目は違和感満載なんだろうけど、ここ一年くらいの俺は風呂に入る時いつもこれだ。

 浴槽に毛が落ちるわけでもないし。

 

 湯船に入る前にシャワーを前足で捻って、全身を濡らした。

 汗が出ない体質だから、石鹸だって別に要らない。


 湯船にそのままちゃぷんと入った。

 もちろん足はつかない。

 肩まで浸かるというよりは、前足を交互に動かしてゆっくり進み続けている。

 猫の姿だけど、犬かきってやつだ。

 ……どう見ても水遊びだな、これ。


「風呂っつーか、泳いどるやんけ」

 レタは当然のように、ラッシュガード姿で現れた。

 絶対水着だろうとは思ったけど、全身それなんだ。


 後ろからやってきたらんはピンク、ミライは紺色の水着を履いてた。

 どっちも、ハーフパンツタイプのやつ。

 レタの基準に合わせたら、まあそうなるわな。

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