第4話「温度」

「今日は、元相方さんが挑もうとしている世界を見てもらいたかっただけです……」


 見たからといって、現実を知ったからといって、俺にできることは何もない。

 そんなのは谷田川やたがわ藤瀬ふじせも承知の上で、俺を屋上へと招待した。


「このレベルからスタートして、どれだけ進化できるのでしょうね……」


 藤瀬は、ぽつりと言葉を溢した。


彩星あやせ次第、だろ」


 藤瀬に返した俺の言葉も、酷く弱くて情けなくなる。

 でも、どんなに自分のことを情けないと思ったところで、この場で一番の辛さを抱えているのは彩星だってことも分かってる。

 情けないなんて口にするのも、おこがましい。


(独りで頑張らなきゃ、か……)


 屋上へ向かって行ったときの足取りは、まだ青春っぽい空気に溢れていて心が躍った。

 下りの階段は、一段一段に重みがある。

 今は人生の山を登っているつもりでいたけど、階段を下ることで自分の人生の絶頂はとっくに終わってるんだって感覚に陥っていく。

 もう下ることしかできない人生なんじゃないかって感覚が怖くなるけど、階段を下らないと家に帰ることができなくなる。


(さっきまで、彩星と話してたんだけどなー……)


 声優部の活動に向かう前の、ほんのささやかな時間に救われた。力をもらった。

 それは確かな事実なのに、彩星と言葉を交わした瞬間がまるで夢のように儚く散っていってしまう。

 まだ沈み切っていない夕陽が、俺の存在を突き刺してくる。

 眩しすぎる痛みに反応した、その瞬間。

 校舎のどこかから、綺麗すぎる声が俺の聴覚を攫うために現れた。


(演劇部……いや、この高校なら、声優部……)


 簡単に上ることができた階段が、簡単に下りることができなくなった。

 はずだった。


『忘れてもらいたいなら、覚悟決めなよ』


 あんなに重かった足が、面白いくらいに動き出す。

 このセリフを表現している声の主に会いたいって気持ちが、俺の心を動かしていく。


『……忘れてほしくない! 忘れてほしくないよっ……!』


 声の主が待っている場所に辿り着く頃には、俺が求めていた声は聞こえなくなっていた。単に、セリフが終わっただけに過ぎないのは分かってる。

 でも、その、セリフが終わってしまったことが惜しくて惜しくて仕様がない。


「めっちゃ上手いんですけど! え、なんで、声優部に入んなかったの?」

「学力……」

「あー……」


 数人の生徒が、おしゃれなメッシュの入った髪型の女子生徒に寄って集ってる状況。

 切れた息を整えながら、その集団に近づいていくと……。


郁登いくとさん」


 輪の中心にいた、美紅みくに名前を呼ばれた。

 名前を呼ばれているだけなのに、美紅に名前を呼ばれると特別感のようなものが増してくるから困る。


西島にしじま、知り合い!?」

「声優部に興味があるっていうから、掛け合いやらせてもらったんだけど……」

「上手すぎて、俺たち相手にもならなくて……」


 俺のことを知っている声優部の面々が率先して話しかけてくる。

 っていうか、目の前にいる知り合いたちが声優部所属だったことに驚かされる。


「郁登さんっ」


 視線が交わったところで、これっぽっちも表情を変えてくれないだろうなって思っていた美紅が……。


「郁登さんだ」


 俺に駆け寄ってくるとき、柔らかな笑みを浮かべてるなんて狡すぎる。


「今日、こっちの高校、来れないって話……」

「特別講習……あ、頭が悪い人が受けるやつ、頑張って終わらせてきた」


 声優部の面々が名残惜しそうに美紅を手放し、俺は美紅と一緒に最初に使っていた空き教室へと向かう。


「一分一秒でも、惜しい」


 惜しいって棒読みっぽい喋りは、どう考えても美紅のもの。

 そんな喋りをする美紅が、人を圧倒するほどの芝居ができるなんて誰が信じられるか。


「私は、ど素人だから」


 教室の扉が閉められる。

 俺たちは、完全に声優部が活動していた世界から隔離されてしまう。


「素人って芝居じゃなかっただろ」

「私は与えられた文章を読んだだけ。プロの世界では通じない」


 適当な椅子を用意して、美紅に腰かけるように促す。

 美紅は従順に行動してくれて、俺が何を言っても信じてくれるんじゃないかって危うさが本当に美紅の素人さを物語っている。


「早く養成所通いたい……」

「両親?」

「高校だけはちゃんと出ろって。私、馬鹿だから」


 不服そうに事実を語る美紅だが、両親の希望を叶えるために頑張る彼女の姿勢は素直に応援したくなる。


「馬鹿かどうかは知らないけど、今のままでも十分食ってけそうなとこが怖いよ」

「郁登さん、私を褒めるの、上手い」


 世の中、単純にできすぎている。

 美紅に名前を呼んでもらえるだけで、俺の心に滞っていた不安が消えていく。

 美紅の声があれば、無限に曲を書き続けることができるんじゃないかって幸せに浸ることができる。


「正直、うちの声優部ってレベルが低いんだよ」

「だから、藤瀬先輩、怒ってた?」

「んー、それは多分としか言えないんだけど、多分」


 窓から差し込む夕陽がいい具合に沈みかけていて、ただの空き教室が何かの撮影場所のように美しく見えてくる。


「美紅が本気を出せば、声優部なんて潰せちゃうんじゃないかってくらいレベルが低い」


 眩しっと言って、夕陽を自分の手で遮る美紅。

 影が美紅を隠してしまったけど、夕陽に照らされた美紅がキラキラと輝くように見えた瞬間を好きだと思った。


「……セリフも私がやろうかって……言いたいけど……」

「大人たちが推したいのは、声優部」


 大人たちがやろうとしていることを覆すだけの力が、美紅にはあるような気がする。

 でも、高校二年っていう年齢の割に、空気を読むのが上手い。

 上手すぎるから、自分の欲を曝け出すことができない。


「……これから、汚いって思う場面に遭遇するかもしれない。理不尽な目にも、いっぱい遭うかもしれない」

「芸能界、怖いね」

「んー……そこは否定してやりたいんだけどな」


 美紅は、楽しそうに話を聞いてくれる。

 まるで、自分には無関係だと言わんばかりに笑顔を浮かべてくれる。

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