第47話
誘拐事件から約二か月経ち、琴乃はついに退院の日を迎えた。大量の血を失い、一時は生命すら危ぶまれたのにまさか生きて病院を出られる日が来るなんて。最も驚いていたのは手術を担当した外科医だった。退院の際、外科医は二人を見送りに来ていた。
「奥さん、退院できたからってくれぐれも無茶をしないように。面倒ごとは全部旦那に任せるんだよ」
「えぇ、わかっております」
琴乃は隣に立つ時景を見る。荷物を抱えている彼は感極まっているのか、目に涙を貯めていた。
「すぐ泣く旦那だな。大丈夫かい? 奥さん、もう変なことに巻き込まれて、病院に担ぎ込まれることがないようにね。アンタ以上に旦那が大変なことになっちまうからね」
「そうですね。ありがとうございました、先生」
琴乃は頭を下げる。隣にいる時景が微動だにしないので、琴乃は彼の背中にそっと触れて礼をするよう促した。
「ほら、旦那様も」
「……本当にありがとうございました。先生は、俺たちの命の恩人です」
「いやぁ、何もしていないさ」
医者は琴乃を見る。
「奥さんの生きたいという気持ちが強かったってだけだ。いいかい、二度と来るんじゃないよ!」
そう言われて、二人は病院を後にする。
「やっと帰ることができるのですね、二人の家に」
琴乃の足取りは軽い。時景は琴乃がはしゃぎ過ぎないようその手を掴んでおきたいが、入院中の荷物を抱えているせいで、彼女に声をかけることしかできない。
「帰る前に、寄るところがあるんだ」
「まあ、どこでしょう?」
時景の後について、琴乃は歩く。彼が向かった場所は喫茶ロマン堂だった。琴乃は目を輝かせる。
「コトちゃん!」
「……テルちゃん!」
テルは時景を突き飛ばして琴乃に抱き着く。琴乃はよろめきながらも彼女を抱きとめていた。
「良かった、本当に良かった~~!」
「テルちゃん、何度もお見舞いに来てくれてありがとう」
テルに続くように、千代と梅子もロマン堂から飛び出してきた。琴乃の表情がさらに明るくなる。
「千代ちゃん、梅ちゃん!」
「琴ちゃん!」
梅子はテルごと琴乃を抱きしめて、千代は涙ぐみながら琴乃の背を支えていた。
「本当に何もかも終わったのですね」
千代の言葉に琴乃も頷く。琴乃も記憶を取り戻し、犯人は逮捕され、無事退院できた。千代は元気そうな琴乃の姿を見て、一連の事件の終結を実感していた。
「コトちゃん、早くおいで。見たことのないお菓子があるの! 洋菓子よ!」
「私の主人が退院祝いだと言って用意してくれた洋菓子ですの。エクレア……と言ったかしら?」
テルに引っ張られて、ロマン堂に足を踏み入れる琴乃。中に入ると、マサ、克治、史弥が琴乃を待ち構えていた。マサは涙をボロボロと流し、克治から手拭いを借りて顔を拭っている。
「お嬢様、退院、おめでとうございます」
「どうしてそんなに泣くの? マサ。病院で毎日会っていたじゃない」
マサは嗚咽を上げる。琴乃が明るい陽の下で「マサさん」という他人行儀な呼び方をやめて、宮園家で彼女が使えていた時の同じように「マサ」と親し気に呼んでくれる。それだけでマサは胸がいっぱいになってしまう。琴乃は彼女を慰めながら笑っていた。
「奥さん、本当に良かった」
「西さんも……お世話になりました」
琴乃が史弥に向かって頭を下げようとすると、彼はそれを止めていた。
「僕は奥さんに謝らなければいけない。アイツの事、ずっと見抜けずにいたんだ……本当に申し訳ない」
「いいえ、西さんは悪くありません」
琴乃の声音は凛としている。史弥を見つめる瞳は汚れなく透き通り、美しく輝いている。見ていると、史弥の心も凪いでくるような気になる。これが時景を魅了した瞳か、と史弥は思う。
「すべてあの人のせいなのですから。あなたが責められるいわれはありません」
「そう言ってくれると、心が軽くなりますよ、奥さん」
史弥の肩の荷が少しだけ降りていく。
「お詫びというわけではないのですが、時景にどんどん仕事を持っていくようにしますね」
「まあ、嬉しいです。旦那様の作品がたくさん読めますね」
琴乃は振り返って、
「コトちゃん……いや、お嬢さん」
今度は克治が声をかけてくる。琴乃は頭を下げた。
「マスターにも色々助けていただき……本当にありがとうございました」
「いや! 助けられたのは俺の方なんだ! だから頭を下げるのはやめてくれ!」
「まさか、オッサンのハンケチの持ち主がコトちゃんだったとはねぇ」
その話を病室で聞いたとき、琴乃はとても驚いて口をぽかんと開けていた。まさか、こんなところであの時の彼と繋がっていたなんて。人生、何が起こるか分からないものだ。
しかし、あのハンケチはもうここにはない。撃たれた琴乃の出血を止めるために使われた真っ白なハンケチは、病院で処分されてしまったらしい。克治は「ちょっと待ってください」と琴乃に言って、一度納戸に引っ込み、小さなリボンがついた包みを持って再び現れた。
「これ、代わりになればいいんですが……あなたにどうしても『お返し』したかったんです」
琴乃はそれを受け取り、リボンを解く。中に入っていたのはあれとよく似た真っ白なレースのハンケチ。朱色の刺繍も施されている。文字が読めないテルが首を傾げる。
「なんて書いてあるの?」
「『KOTONO.H』……英琴乃、と書いてあるんです」
今の琴乃の名前だ。琴乃はそれを胸に抱く。
「あの時、お嬢さんに出会ったから俺は真人間になることができた」
「……大変だったけれど、三郎も捕まり、奥様と旦那様の無念も晴らすことができました」
「コトちゃんも記憶を取り戻したし!」
琴乃は再び振り返って、時景を見つめた。彼は琴乃に近づき、その肩を抱く。
「まるで物語の結末のようですね、旦那様」
「あぁ、そうだな」
琴乃はハンケチを見つめる。あの時出した勇気が再び手元に戻ってきたような気がする。
「マスター、もう『お嬢さん』と呼ぶのはやめてください」
「でも、俺から見たらお嬢さんは命の恩人なわけだし……」
「ここでは『コトちゃん』と呼んでほしいのです。私は今、宮園家の一人娘ではなく、駆け出し作家の妻で、このお店の女給なんですから。それに、私だってお礼を言わないと」
克治は動揺しているのか、額には脂汗が滲む。琴乃は肩に置かれた時景の手に触れていた、その体温を感じるようにそっと。
「あの時マスターを助けたから、私は旦那様と出会うことができたんです。だから、マスターはいわば橋渡し役です」
二人が幸せそうに微笑んでいる。克治の目から涙がこぼれた。宮園家の事件を知ったとき、どれほど悲嘆にくれただろう。目の前に琴乃が現れた時、彼女が以前の記憶を失くしたと話したとき、どれほど自分は驚いただろうか。そして、彼女が幸せになってほしいと何度願ったことだろう。今、克治の目の前にあるのは、彼が願い続けた光景だった。克治は涙をぬぐい、深く頷く。
「……わかった、コトちゃん。英先生が大作家になるまで、この店で働いてくれ」
「えぇ、ありがとうございます。まさかあの時こんなことになるとは思わなかったけれど、マスターにも出会えて、助けることができて、本当に良かった」
微笑む琴乃に、時景は「一応言っておくが」と釘をさしておく。
「だからと言って、今後、あの時のような無茶な人助けはやめるように」
「そうですよ、琴乃様!」
「先生の言う通りだわ! 女学校の時、私たち本当にびっくりしたんだからね! 琴ちゃんが急に走っていって!」
「本当に驚きましたわ……暴漢に立ち向かうなんて」
みるみる小さくなっていく琴乃。テルはその姿を見て笑っていた。テルも克治のように琴乃に助けられたことがあるから、彼女の「いいところ」は身に染みるほど知っている。
「記憶があってもなくても、コトちゃんはコトちゃんだったんだねぇ」
皆の様子を見ながら、テルは微笑ましくそう呟いていた。
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