第36話


「そこからはあなたの知る通り。英時景があなたの面倒を見ると言って、資産的にも価値がなくなった宮園琴乃に我が鷹栖家も興味を失った。英は自らの主張を押し切り、あなたは彼と共に暮らすことになった」

「……私の価値はお金だったのですね」

「鷹栖の両親にとっては、そうでしょうね」


 二人の間に重たい空気が流れる。勇二郎はそれをさらに重たくさせるような話を始めた。


「警察に疑われていたんですよ、琴乃さんも」

「そ、そうなのですか?」


 初耳だ。琴乃は仰天して口を大きく開けてしまう。


「しかし、怪我を負っていたこと、記憶が無くなってしまいまともな証言が得られないことで、警察は一旦引いたそうです。でも、内部ではまだあなたを疑う声があるとか。どうしてだと思いますか?」

「さあ……? どうしてなのですか?」

「あなたに不在証明アリバイがなかったからです。事件が起きた時間帯、あなたには誰にも証明できない空白の時間がある」


 自分が犯人かもしれない。その可能性があるなんて考えたこともなかった。琴乃の体が冷たくなる。もしかしたら、両親や使用人たちに駆け落ちを反対されて……カッとなって事件を起こしたのかもしれない。彼女は両手を見た。この白い手が血まみれの醜い手だったら……身震いしている琴乃の様子に気づいたのか、勇二郎は「安心してください」と声をかけた。


「先ほど言ったでしょう。警察にも話していないことがある、と。それこそがあなたの不在証明アリバイです。ご両親が亡くなったと思しき時間帯、私とあなたが会っていたのです」


 フラれたのが惨めで、バツが悪くて今まで誰にも話せなかった。勇二郎は立ち上がった。大日本帝国男児たるもの、いつまでも格好悪いままではいられないのだ。


「警察に行きます。今の話をするために」

「鷹栖様……?」

「これであなたの疑いは晴れるでしょう」

「ありがとうございます、鷹栖様」


 琴乃の表情がパッと華やぐ。こんな顔、婚約している間は一度も見たことなかった。そんな顔で笑うのか。彼女の嬉しそうな表情を見ていると、勇二郎の胸に寂しさが募り始めていた。


「幸せそうで良かった」

「え?」


 琴乃は聞き返す。勇二郎はもう「格好悪く」てもいいようで、今まで誰にも話さなかった「本音」をようやっと口にしていた。


「私なりに幸せにしようと思ったんですよ、あなたのことを。親に決められた婚姻だったけれど、あなたを世界一幸せな花嫁にしようと思っていた。でも、私にはそれができなかった……だから、他の男にできるはずないと思い込んでいた。いや、思い込みたかった。でも英時景にはそれができたんですね」


 勇二郎は顔を伏せる。細く長く息を吐きだし、再び顔を上げ琴乃と視線を通わせた。


「あなたが好きだった花も、教えてくれた花言葉も、一生忘れません。その花を見るたびに、あなたの幸せを祈ると約束しますよ」


 琴乃はきょとんと首を傾げる。


「……あの、鷹栖様。一つお伺いしたいのですが」

「何でしょう?」

「……私が好きだった花、とは何だったのですか?」


 琴乃の思いがけない問いに勇二郎は思わず吹き出してしまった。それまで忘れてしまうとは。今までしっかり覚えていた自分が馬鹿のようだ。


天竺葵ゼラニウムですよ」


 花言葉は「信頼」だと過去の琴乃が言っていた。きっと彼女はその時から、心の底から信じられる相手を求めていたのだろう。それに気付けなかったのだ、自分は。


「何か困ったことがあれば私にご連絡を。あなたのためなら協力を惜しみません」

「ありがとうございます、鷹栖様」

「それでは……ごきげんよう、英夫人」


 帽子を被り、ステッキを片手に去っていく勇二郎。琴乃は立ち上がって、彼の姿が見えなくなるまで深々と頭を下げていた。


 ***


 たくさん話を聞いて疲れてしまい、喫茶室を出るのが遅くなってしまった。汽車にも乗りそびれ、帰宅が遅くなってしまった。もう日が傾き始めている。琴乃は英家に急ぐ。

 せっかく勇二郎に会う機会をマサが作ってくれたのに、結局琴乃の記憶は戻らずじまい。何も思い出せない自分にがっかりしながら引き戸を開けた。


「ただいま帰りました」


 マサの返事がない。


「マサさん?」


 こんな遅い時間に買い物だろうか? 琴乃は草履を脱ぎ部屋に入ろうとした瞬間、背後に何者かの気配を感じた。血の気が一気に引いていく。


「琴乃お嬢さん」


 振り返るな、と心の中で警鐘が鳴る。室内に逃げ込もうとしたが、もう遅かった。頭部に激痛が走り……琴乃はその場に倒れ、気を失った。

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