第17話


 琴乃は目を見開く。どうして彼が自分に口づけなんてするのか、皆目見当がつかなかった。

 時景は琴乃に唇を押し付け、首の角度を変えて柔らかくついばむ。琴乃が逃げないよう腰に腕を回し後頭部にも大きな手のひらを添える。まるで捕らえられたみたいだ、と頭のどこか冷静な部分で琴乃はそう思った。初めは驚きのあまり身を強張らせていたけれど、彼女は次第に体の力を抜きいつしか彼に身を委ねるようになっていた。

 嬉しい、嬉しい。琴乃は心の中でそう繰り返す。その思いが唇を伝い彼に伝わったのか、時景の口づけは深くなっていく。うっすらと開いた琴乃の唇に舌を差し入れ、かのじょのそれに柔らかく触れた。琴乃の体がぴくりと震えたのを時景は逃さなかった。彼女の劣情を感じ取ったのだ。とっさに引こうとする琴乃の舌を追いかけて絡み合う。琴乃は甘い吐息を漏らすが、それは今の時景にとっては勲章のようなものだ。

 琴乃は彼の口づけに翻弄されながら腕のあたりにしがみついた。お互いの粘膜が絡み合う水音、熱っぽい吐息、抱きしめあう布擦れの音。口づけはしばらく続き、時景が離れる時には琴乃の息が上がっていた。荒い呼吸で琴乃は自分の想いを彼に告げる。


「……私は、あなたが愛おしいのです、先生」


 黒水晶みたいな琴乃の瞳。あまりの美しさに時景は息をのむ。


「私は、あなたにとってどのような存在だったの? 昔の私も、あなたのことを愛おしく思っていたの? 私が知りたいのは、それだけなのです……」


 時景は少しだけ琴乃から離れ、今度は彼女の手を握った。


「俺もだ。俺も、あなたが愛おしくてたまらない。過去も今も、この気持ちは変わらない。あの日からずっと、俺にはあなたしかいないんだ。……話せばとても長くなりますが、いいですか?」


 琴乃は大丈夫と言うように、彼の手を握り返した。彼の心地のいい体温がじんわりと伝わってくる。時景はぎゅっと目を閉じていて、次第にその力を緩めるように目を開いた。琴乃は時景を見つめる。


「あの事件があった日、俺たちは駆け落ちの約束をしていたんです。お互いに恋に落ち、この叶わぬ恋を成就させるために……俺たちはそうするしかなかった」

「叶わぬ恋……?」

「あなたに許嫁がいたのです。男爵家の次男坊、鷹栖勇二郎という男で、女学校の卒業を待たずに結婚することになっていた。でも、俺たちはどうしても一緒に生きていたかった。だから、二人で駆け落ちをしようと決めた」


 琴乃は病室で初めて彼に出会ったときのことを思い出す。どうして時景が今にも旅に出ることができるような服装をしていたのか、ようやっとわかった。


「あの事件さえ起きなければ俺はあなたと駆け落ちして、いずれは妻として迎えていた。この家で暮そうと約束していて……だからきっと、今と大して変わらない生活を送っていたでしょう」


 時景は目の前にいる琴乃の瞳を覗き込む。たとえ記憶を失ってしまっても、あの高潔で瑞々しい彼女の魂の色は変わっていない。時景は手を放し、今度は彼女の頬を包み込んだ。


「俺は今も昔も、あなたのその魂を愛している。気高く美しい魂を。憐れんで共に暮らしているんじゃない。俺が、あなたと共に生きることを望んでいるのです」


 琴乃は自らの感情に突き動かされて、今度は自分から唇を重ねていた。こみ上げてくる彼に対する愛情が彼女をそうさせたのだ。


「……今の気持ちを言葉にすることができなくて。でも、私も同じ気持ちなのを分かってほしくて」


 拙い彼女の言葉、仕草に時景は笑みを見せた。口角は上がり、目尻は柔らかく下がっている。彼は愛しい人を見る時、こんな表情をするんだと琴乃は思った。


「今も昔も変わらず、俺は、あなたに愛されていることが嬉しくて仕方がない」


 近づき、再び唇を重ねあう二人。さきほどの緩慢とした口づけとは違い、とても性急で熱っぽい。互いの呼吸を間近に感じ、唇は一分の隙も許さぬよう重なり合い、粘膜同士が絡み合う水音が響く。

 息が上がって苦しい、でもそれ以上に気持ち良くて、離れたくなかった。琴乃は時景の襟のあたりを掴んだ。時景の大きな手のひらは琴乃の背中、腰、脚を撫でまわす。くすぐったさよりももっと上質な、今まで感じたことのない触れ合い。堪えることができなくて、琴乃は思わず唇を離し、甘ったるい声を上げていた。


「……先、生……」


 熱のこもった瞳。愛しい女性にそんな風に見つめられて、耐えられる男はいるだろうか? 時景はゆっくり琴乃を押し倒し、布団に寝かせた。艶やかな黒い髪が布団に広がる。


「昔話をする時間はこれからもたくさんある。だから……今夜くらいは、愛しいあなたに溺れたい」

 

 時景はそう言って、琴乃の首筋に顔をうずめた。琴乃は声が漏れないよう、口で手を抑えようとする。こういう時の【夫婦の作法】のようなものは、本で読んで知っている。でもまさか急にこんな日が来るとは思わなくって、恥ずかしさがじわじわとこみ上げてくる。けれど時景は彼女が声を抑えるのを許さず手首を掴み、その唇を再び塞いだ。時景は寝巻きの上から琴乃の胸元に触れ、その柔らかさを楽しむように手のひらで撫でる。琴乃のくぐもった声が漏れる。時景は唇を離し、彼女の耳元で囁いた。


「もっと欲しい、あなたが……。身も心も俺のものにしたい」


 その言葉を聞き、琴乃は彼を受け入れるために体の力を抜いた。彼女も同じだったのだ、彼のものになりたい。そして、同じように自分もそれを手にしたい。琴乃の気持ちを感じ取った時景は彼女の寝巻きの腰ひもを解き、白い肌をあらわにした。かつて触れたいと願った柔らかそうな肌を見つめながら、彼もシャツを脱ぎ始める。そして再び琴乃に覆いかぶさった。


 電灯も消さず、明るい部屋で二人は互いに溺れるように、甘い声をあげ、何時間もかけてその身を重ねた。

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