第10話


 ***


 翌々日、二人組の男がやってきた。琴乃は一度だけすれ違った彼らのことをよく覚えていた。


「こちらは西にし史弥。俺の大学の同期で、太陽新聞の記者です」

「初めまして、時景の奥さん」


 きっちりとネクタイを締めているが暑いのかシャツはまくり上げられていて、背広とくたびれた鞄を腕に抱えていた。その隣にいる坊主頭の男はとても緊張していて、声が上擦っていた。


「あの、あの……は、初めまして? なのか。あの、俺……っ!」

「こっちは僕の後輩、島村しまむらです。島村三郎」


 琴乃は二人に向かって深く頭を下げていた。


「初めまして、西さん、島村さん。わざわざお越しいただきありがとうございます」

「いえいえ。奥さんの事件を解決するのは僕ら新聞記者としての使命ですから」

「社会部でも政治部でもないただの文化部なのに。お前は何偉そうなことを言ってるんだ」

「いちいちうるさいんだよ、時景は」


 まるで自分の家のようにどんどんと英家の中に入ってくる史弥。彼は時景と軽口を叩きあう、とても親し気な関係らしい。琴乃はそれに憧れてしまう。こんなに親しくなれたらいいのに……と誰にも気づかれないようそんなことを考える。史弥の背後では三郎が緊張のあまり震えていていた。三郎の様子に気づいた史弥は大きくため息をついた。


「ほら、だから言ったろ。お前は社に残って仕事してろって」

「でも、俺も無関係じゃないわけですし」

「あら、三郎じゃない。アンタも来たの? 西さんだけだと思っていたわ」


 台所にいたマサが三郎を見て驚き声を上げる。琴乃は二人の顔を交互に見た。ここも知り合い同士だったのか、そんなことも全く知らないままで、何だか自分が情けなくなる。三郎の顔はまだぎこちないけれど、マサを見て安心したのか震えは収まったように見える。


 史弥は居間の座布団にドカッと座る。琴乃も時景もちゃぶ台を囲むように座った。


「まさか奥さんが事件のことを知りたいと言うなんて。電報が来たときは驚きましたよ。てっきり時景もあの女中さんも話すつもりはないと思っていたから」


 事件の話。改めてそう言われると琴乃の身は緊張で固くなり、呼吸が浅くなっていく。その変化に気付いた時景は、史弥に気付かれないようちゃぶ台の下で琴乃の手を握った。ハッと時景を見る琴乃。時景はまっすぐ史弥を見ているけれど、その横顔はまるで琴乃に「大丈夫だ」と言っているみたいで頼もしい。琴乃は深く呼吸を繰り返すうちに、すっかり落ち着いた。でも、二人は手をつないだままだった。


 一方、台所ではマサと三郎が茶の支度をしている。マサは居間の様子が気になるのか手が止まっていて、三郎ばかりが働いていた。


「本当に大丈夫かしら、お嬢様……」


 琴乃の身を案じるあまり、時景に禁止されている過去の呼び方が出てしまった。


「これでお嬢さんの記憶が戻ったら……犯人、捕まっちゃうんですかね……?」

「分かるといいわね、犯人。でも、本当に心配だわ。先生もお嬢様も大丈夫だって言うけど……何も起こらないといいわね」


 ぶつぶつと文句を言いながら居間を見つめるマサ。三郎はまだ緊張する手で急須にお湯を注ぎ始めていた。


「これが、事件の資料です」


 史弥は独自に事件をまとめた帳面ノートを琴乃に差し出した。表紙にはとがった文字で「宮園家惨殺事件」と書かれている。惨殺、なんて恐ろしい言葉だろう。琴乃の胸が苦しくなる。強張ってしまった琴乃の代わりに、史弥が帳面ノートを開いた。


「事件解決の鍵を握っているのは奥さんだと僕は思っています」


 そう言って、史弥は事件のあらましについて話し始めた。

 

 大正8年10月。事件が起きたのは月曜日だった。殺害されたのは琴乃の両親である宮園家夫妻と女中2名、当主の秘書、運転手の計6名。邸宅も火事でほぼ全焼。この火事が犯人による放火なのか失火なのかはまだハッキリとは分かっていない。

 夫人と2名の女中は毒物により、宮園家当主、秘書、運転手は拳銃で火事の前に殺害されていたと帝大の法医学者が結論付けた。


「宮園邸で暮していた人間のうち、三名が生き残っています。おたくの女中のマサさん、宮園家の書生だった島村三郎。アイツです」


 史弥が台所を指さす、琴乃はその指の先にいる三郎を見た。琴乃と目が合った三郎が小さく会釈をしてくる。かねてからの知り合いだったのか、彼も。


「事件発生時、二人は外出していた。女中さんは宮園家の奥様に頼まれて買い物に行っていて周りの証言も取れているし、三郎も旦那さんに命令されて銀行だか郵便局に行ったとアイツ自身が証言している。でもあなた……奥さんは事件に巻き込まれているんです。火事の現場にいたんだ。そこから助け出された、唯一の生き残り。それが奥さんなんです」


 史弥から話を聞かされても、琴乃は全く何も思い出せない。病室で目覚めて、時景と出会ったときのこと以前のことはまるで初めからなかったみたいに。


「事件はまだ解決していません。現場にいた奥さんは、もしかしたら何か見たのかもしれない。ここまで聞いて、何か思い出せませんか?」

「何か、とおっしゃいますと……やっぱり……」

「犯人の顔とか、逃げていく姿とか。せめて男か女かだけでも」


 首をひねる琴乃。いくら考えても何も思い浮かばない。急かすような史弥を時景が諫めた。


「史弥、あまり琴乃さんを急かすな」

「お前がちんたらして事件のことを聞かないから、僕が代わりにやっているだけだろう」

「お前はこの事件を解決した手柄を得て社会部に移りたいだけだろう。琴乃さん、決して無理だけはしないでくれ」


 琴乃の手を握る時景の力がわずかに強くなる。二人の様子に気付いたのか、史弥は呆れるように眉を下げた。


「全く、愛妻家には敵わんよ。奥さん、煙草を吸っても構いませんか?」

「えぇ。マサさん、西さんに灰皿を」

「はい、ただいま!」


 史弥は背広から煙草と燐寸マッチを取り出す。台所ではマサよりも先に三郎が戸棚から硝子製の灰皿を取り出す。


「アンタ、よく知ってたわね、この家の灰皿の場所」

「マサさんが仕舞うとしたら大体ここらへんってわかるんだよ。西さん、今お持ちします」

「ん」


 史弥が燐寸マッチで火を起こし、煙草を灯す。三郎は灰皿を持って居間にやってくる。


「どうぞ、西さん」

「ん、どうも。それで奥さん、話の続きなんですが」

「……琴乃さん?」


 琴乃の変化に最初に気付いたのは時景だった。琴乃は彼の手に爪を立て、ガタガタと震え始める。顔は青白く、何かに怯えているのか遠くを見ていて、その目は大きく見開かれていた。


「いや、いや……っ」


 小さな声で拒絶の言葉を繰り返す琴乃。史弥はさっと煙草の火を消して、琴乃に近寄る。時景は琴乃の肩を掴み、強引に抱き寄せた。時景は琴乃の目と合わせようとするが、瞳はまるで乱暴に揺らしたように小刻みに動き回り、呼吸はとても浅く、何度も「いや」といううわごとを繰り返している。


「琴乃さん!」

「や……嫌―――ッ!」


 時景の強い呼びかけにも反応せず、終いには大きな金切り声を上げ……琴乃はパタリと意識を失い、時景の腕の中で倒れ込んだ。


「お、お嬢様!」

「おい三郎、早く医者を呼んで来い!」

「は、はい!」


 三郎が灰皿を投げ捨てて医者を呼びに外へ駆け出す。時景は意識を失いぐったりとする琴乃を抱きしめた。マサは惑いながらも、すぐに階段を駆け上がって琴乃の自室に向かっていた。

 どうして突然意識を失ってしまったのか……今、その答えを知る者はこの場にはおらず、皆同じような疑問を抱くだけだった。


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