第53話:鏡の後ろに違和感がある件について


 霧となって河川敷から離脱し、僕と霧島先輩はメフィラの背中を追って空を飛ぶ。

 数分の飛行の後、たどり着いたのは、この街でも屈指の高級ホテル――その最上階にあるスイートルームだった。


「まぁ、適当に座ってリラックスしなよ」


 霧のまま室内に侵入し、実体化したメフィラはふかふかのソファに腰を下ろすと、脚を組んで優雅に寛ぎ始めた。


「……」


 僕は何とも言えない気持ちで、部屋の中を見渡す。

 実際に目にしたことはないので断言はできないが、ここは恐らく、スイートルームと呼ばれる最高級の部屋なのだろう。

 リビングだけでも教室ほどの広さがあり、空間を贅沢に使って巨大な壁掛けテレビや、明らかに高級そうな家具が配置されている。

 絨毯は足が沈むほどに柔らかく、ガラス張りの窓からは街の全景が一望できた。空を飛べる身ではあるが、長く見つめていると吸い込まれそうな錯覚を覚える。


 部屋の四方には扉がいくつもあり、恐らくその先に寝室やバスルーム、トイレなどがあるのだろう。


「お前さ……僕が必死にこの世界の仕組みを解き明かそうとしてる間、こんな豪華な部屋でのんびりしてたわけ?」

「のんびりしてたとは心外だな。彼らも言ってただろう? 僕も鏡の世界の君に追われていたんだよ。やむを得ず、身を隠していただけさ。ほら、潜伏と言えばホテルだろ?」

「いや、そういう時に選ばれるのは、もっとこう……ボロボロのモーテルとか、薄暗い地下室とかなんだよ」


 間違っても、こんな贅沢の極みみたいなスイートルームじゃない。

 広すぎるリビング、ふかふかの絨毯、街を一望できるガラス窓。

 潜伏先というより、優雅なバカンスだ。


「まぁ、結果的に見つからなかったんだから、良しとしようよ。それより、せっかくだし何か食べるかい? ルームサービスも充実してるよ」


 メフィラが黒い冊子を軽く放って寄越す。反射的に受け取り、パラパラとめくると、目を疑うような金額のメニューがずらりと並んでいた。


「……いや、今は腹ごしらえしてる場合じゃないだろ。僕が聞きたいのは、あの眼のことだ」


 冊子をそっと閉じ、真剣な瞳でメフィラを見据える。

 戦線から一時的に離脱できたとはいえ、今は情報収集を優先すべきだ。

 食事なんて、後回しでいい。


 ……全く。これだから、メフィラは――


「おぉ! めっちゃ美味そうじゃないか! 十六夜家で食い足りなかったから、腹が減ってきたなぁ~」

「じゃあ、仕方ないですねぇ! なんか食べましょう!」

「君のこの世界の霧島レイに対する甘やかしっぷりは、いったい何なんだい……?」


 うるさい。


 霧島の姉御がお腹空いたって言ってるんだから、仕方ないだろ。


「取りあえず、このメニュー表の端から端まで全部頼みましょうか!」

「えっ? いいのか……? よく見たらめちゃくちゃ高そうだけど……」

「いいんですよ! 全部メフィラが払ってくれますから!」

「君、他人の金でプレゼントはどうかと思う――って言ってなかったかい?」

「臨機応変! 物事は移り変わっていくんだよ!」


 メフィラは呆れたように肩をすくめ、深いため息をついた。


「はいはい。それじゃあ、ザッと全部頼むよ。時間かかるだろうから、それまでにシャワーでも浴びてきたらどうだい?」

「ん、そうだな。せっかくだし借りるか。先輩、良かったらお先にどうですか?」

「いや、私はいいよ。大して動いてないし、家を出る前に浴びてきたからな」

「そうですか。じゃあ、僕だけ失礼してシャワー行かせてもらいますね。メフィラ」

「そっちの扉の先だよ。タオルもアメニティも全部揃ってるから、好きに使って」

「ありがとう」


 珍しく素直に礼を言いながら、僕はシャワーへと向かった。



♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰




「はぁ……」


 シャワーの音が、静かに空間を満たしていた。

 温かい湯が肩を伝い、背を流れていく。

 僕は壁に額を押しつけるようにして、目を閉じた。

 頭の奥で、ぐるぐると考えが渦を巻いている。


 メフィラと霧島先輩が、どこまで僕の状態を察していたのかは分からない。

 けれど、こうして一人になる時間をくれたことには、素直に感謝している。

 今の僕は、外面こそ何とか保っているものの、内側はもうぐちゃぐちゃだった。


「世界を滅ぼすって、なんだよ、お前……」


 考えるのは、鏡の僕の発言だ。

 世界を守る――僕たちの世界を犠牲にして。


 頭の中でぐわんぐわんと自分の声が反芻する。

 思わず眩暈がするが、僕の身体はちょっとした体調不良さえも許さない超スペックへと作り変えられてしまった。すぐに眩暈は収まり、肉体が最適化される。

 便利な能力ではあるが、今は逆に鬱陶しかった。


「はぁ……」


 もう一度大きな溜息をついてから、目の前にある鏡を見る。

 曇ったガラスの向こうから、憂鬱そうな顔をした僕が見つめ返してくる。

 他の誰でもない僕――地藤優斗。


 世界を守る為――とほざいて大事な人を傷つけ、結果的に色んな反則をしながら自分で招いた危機を無理やり跳ねのけた男。

 そんな奴が、今度は世界を守る為――とほざきながら、もう片方の世界を滅ぼそうとしている。


 全く。我がことながら、極端にも程がある。

 ハッキリ言って、付き合いきれない。

 だが、確かにこれこそが地藤優斗だという感じもする。

 いや、本当に傍迷惑な存在であることに変わりはないんだけどね?


「ま、これも性分って奴か……」


 変な話かもしれないが、僕は僕が敵で少し安心していた。

 だって、自分が相手なら、

 僕は再び溜息をついて、水蒸気で曇った鏡の曇りを払うために、掌で鏡面を拭った。

 その瞬間――


「―――ッ」


 鏡に、何かが、映っていた。

 僕のすぐ背後。

 鏡の中に、妙な少女が立っていた。

 白い眼。

 白い髪。

 白い肌。

 色彩を持たない存在。


 まるで、世界から切り離されたような気配。

 輪郭はぼやけていて、今にも霧のように消えてしまいそうなのに、確かにそこに“いる”。

 心臓が――ここにはないはずの心臓が、一瞬止まりかけた。

 けれど、先ほど常識外れの光景を見ていたおかげか、再起動は早かった。


「誰だ⁉」


 剣は――生憎、全裸なので持っていない。

 代わりに吸血鬼の力で爪を伸ばし、背後を振り返る。

 赤い瞳で、広々としたバスルームを睨みつける。

 ……誰もいない。

 空間は静まり返っていた。


 シャワーの音だけが、変わらず流れている。

 湯気が漂い、鏡が再び曇り始める。


「……あれ?」


 僕は慌てて辺りを見渡す。

 バスタブの縁、壁の隅、天井の影――どこにも、誰もいない。

 再び鏡を見る。

 先ほどの少女が映っていた鏡面を、じっと見つめる。


 けれど、やはり。


 そこには、僕しか映っていなかった。





♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰





「おぉ! 上がったか! 見ろよ、全部めちゃくちゃ美味そうだぞ!」


 モヤモヤした気持ちを抱えながらシャワーを終えてリビングに戻ると、注文していた料理がすでに届いていた。

 部屋にあったテーブルを総動員し、山のように積まれた料理がビュッフェのように並べられている。

 霧島先輩は目を輝かせながら、お皿を片手に料理を見つめていた。


「すごい量ですね……あっ、先輩。お先にどうぞ」

「おっ、本当か? じゃあ、遠慮なくいただきまーす!」


 わざわざ僕がシャワーから戻るまで待っていてくれたらしい霧島先輩は、主人からGOサインをもらった犬のように、ポニーテールを揺らしながら次々と料理をお皿に盛りつけていく。

 僕もタオルを置き、お皿を手に気になる料理をいくつか選びながら盛り付け、ふかふかのソファに腰を下ろした。


「少しは落ち着いたかい?」

「まぁ、ね……」


 優雅に寛ぎながら、対面に座るメフィラが流し目を送ってくる。

 実際には落ち着くどころか、さらなるパニックに陥りかけていたわけだが、あまりにも一瞬の出来事であり、疲れた僕が幻影を見た可能性も否定できないので曖昧な返事に留めておく。


「ところで、メフィラ」

「なんだい?」


 僕は、メフィラが手にしているグラスに注がれた液体――ワインらしきものに目を向けながら尋ねた。


「お前、一応は女子高生っていう設定じゃなかったか?」


 実年齢が未成年なわけがないし、そもそも人間ですらないから法律の適用外なのは分かっている。それでも、仮にも女子高生が飲酒している光景は、色々とアウトな気がする。

 主にコンプラ的に。

 メフィラは肩をすくめて答えた。


、だよ。我が愛しの契約者様」

「便利な言葉だな」

「全くだね」


 真面目に取り合う気はないらしく、僕の突っ込みに意趣返しをしながら、メフィラは機嫌良さそうに笑った。


「はぁ……まぁ、何でもいいけどさ」


 別にコイツが何を飲んでいようが、それが原因で捕まろうが、僕にとっては知ったことじゃない。

 視線を料理に戻し、しばらく無言で食事に集中することにした。

 あまり自覚はなかったが、かなりエネルギーを消耗していたらしい。

 十六夜家でご馳走を口にしていたにもかかわらず、気づけばかなりの量を胃に収めていた。

 未だに食欲が衰える気配のない霧島先輩が、幸せそうな笑顔で料理を頬張っている横で、ある程度満足した僕はメフィラに目を向けた。


 彼女はおつまみを摘みながら、優雅にグラスを傾けていたが、僕の視線に気づくと、ゆるく片目を瞑って言った。


「何か、聞きたいことがありそうだね?」

「当然だよ」


 僕は頷きながら答えた。


「聞きたいことがありすぎて、どれから尋ねたらいいか分からないくらいだ」

「ふむ。気持ちは分からないでもないけど、時間は有限だ。一番聞きたいことから尋ねることをおすすめするよ」


 一番聞きたいこと。

 そんなもの、決まっている。

 風呂場のことは後で聞くとして――僕はそっと息を吸い込み、あの瞬間のゾッとする感覚を思い出しながら、口を開いた。


「あの“眼”は、なんだ?」

「……」


 メフィラは脚を組み直し、手の中のワイングラスをゆっくりと回す。

 赤く澄んだ液体が静かに揺れ、その動きに目を落としながら、彼女は答えた。


「あれはね、“観測者オブ・ザーバー”と呼ばれるものだよ」

観測者オブ・ザーバー……?」


 聞き覚えがあるようで、ないような言葉に、僕は首を傾げる。


「僕も詳しくは知らないけれど……あれは、世界線を確定させるシステムのようなものらしい」

「世界線を確定させる? それってつまり――」

「その世界が“存在している”と証明する存在ってことさ」


 メフィラはグラスを傾け、喉を潤すと、続けた。


「例えば、“並行世界”って聞いたことがあるだろう? 我が愛しの契約者様の正体は、そこの出身者だと睨んでいるんだが――話が逸れるから今は止めておこう。ともかく、世界には無数の選択肢があって、可能性がある。ここまでは分かるよね?」

「あぁ……例えば、Aを選んだ世界線と、Bを選んだ世界線では、まったく違う世界になるってことだろ?」

「そういうこと。それこそ、君が僕と契約することを選んだ世界と、選ばなかった世界では、まったく異なる結末を迎えているはずさ。きっと、契約しなければ世界は滅んでいただろうね。誇りなよ、。それを知る人は少ないけれどね」

「……」


 嬉しそうに語るメフィラの言葉に、僕は複雑な表情を浮かべるしかなかった。

 その“世界の危機”を招いたのが、僕自身の行動だったことを知っているからだ。

 メフィラはキャビアの乗ったクラッカーを口に運び、ワインで流し込むと、再び口を開いた。


「そういった“IF”――もしもの世界である並行世界は、選択肢の数だけ無限に広がっているに違いない。だけど、それって僕たちには実証できないよね? だって、僕たちは自分が選んだ世界しか知りようがない。違う世界が存在しているなんて、結局は机上の空論だ。例えるなら“シュレディンガーの猫”だね。箱を開けて“観測”するまでは、生きているとも死んでいるとも言える状態。つまり、観測されるまでは、世界は“存在している”とも“存在していない”とも言えるんだ」


 シュレディンガーの猫――量子力学の思考実験。

 観測されるまでは、複数の状態が重なり合っていて、観測によって初めてその状態が確定する。

 あの時、空に浮かんでいた巨大な“眼”は、この世界を“観測”していた。

 つまり、この世界が“確かに存在している”と証明する存在が、そこにいたということだ。


「だけど、それって全部“並行世界”の話なんだろう? 確かに“観測者”がいるっていうのは納得できるけど……この世界は“並行世界”じゃないだろ?」

「流石は我が愛しの契約者様。鋭いね」


 空になったワイングラスをテーブルに置きながら、メフィラは軽く拍手を送ってくる。

 ちょうど同じタイミングでお皿を空にした霧島先輩も、首を傾げながら嬉しそうに拍手をしてくれた。可愛い。


「揶揄うなよ。こっちは真剣に考えてるんだ」

「揶揄ってなんかないさ。本当に感心したんだよ。この世界が“絶対に存在しえない虚構世界”であることに気づいているなんて」

「……そりゃあ、な」


 “絶対に存在しえない虚構世界”。

 可能性の延長にある並行世界とは違い、成立するはずのない、仮初の世界。

 この世界は、選択肢の先にある“かもしれない”ではなく、“あり得ない”の集合体だ。


 例えば、唯ちゃん。

 彼女は健康的で、素直で、まっすぐな少女へと変化していた。

 それはとても喜ばしいことではあるけれど――あり得ないことだ。

 己を嫌悪し、兄に恋をし、純粋無垢なまま育ってしまった世間知らずな哀れな少女。

 それが十六夜唯だ。その前提は決して揺らぐことはない。何故なら、そんな彼女だからこそ死王女は惹かれ――結果的に唯ちゃんの命を救うことに繋がったのだから。

 仮に、これから先の人生で性格が変わっていく可能性があるとしても、それは“今”の話ではない。


 霧島先輩もそうだ。

 目の前で幸せそうにご飯を頬張っている彼女は、現実の彼女とは違う。

 残念ながら、彼女の過去の経験からして、今のような性格に至ることは難しいだろう。

 彼女の人生は常に居場所を追い求める果てのない過酷な旅のようなもので、ようやく手に入れた居場所すらも失った彼女は、全てを押し殺したような無表情が常となってしまった。

 そして、そんな彼女だからこそ、血の大公に目を付けられ、そして混乱の最中、僕と血の契りを交わすことになったのだ。


 最後に、会うことは叶わなかったが――璃奈。

 彼女もまた、この世界のように生きることはできないはずだ。

 これまで彼女は、反発心や自己利益を押し殺して生きてきた。

 人の為に。人の為だけに生きてきた。

 そんな彼女だからこそ、あの歪んだ聖女のような在り方になったのだ。

 ……本当の彼女は、今のように清楚な格好ではなく、もっと自分のやってみたいものがあったのかもしれない。彼女なりの反逆精神をぶつけた、自己表現の仕方があったのかもしれない。


 璃奈に限らず、皆がそうだ。


 唯ちゃんは、本当はもっと素直に思っていることを口にしたいのかもしれない。

 霧島先輩は、心の底から笑いながら豪快に生きたいのかもしれない。


 だけど、そうはならなかった。

 そうなることはできなかった。


 だから、この世界は――あり得ない世界なのだ。


「……どうして、こんなあり得ない世界が成立しているんだ?」


 鈍い痛みを感じながらも尋ねる。

 メフィラは肩を竦めた。


「創造者が上手くやった、としか言いようがないね。ただ、観測者オブ・ザーバーが“観測”しているのも今だけだよ。この世界には矛盾があまりにも多すぎるし、結局はどこまでいっても転写品に過ぎない。僕たちが少し本気を出しただけで外殻に罅が入るくらいに脆いし、観測者が“観測”を止めたらあっという間に瓦解するだろうね」

「じゃあ、鏡の僕はどうやってこの世界を救うつもりなんだ……?」

「本人の口から直接話を聞いたわけではないけれど、大よそ推測はできるよ」


 メフィラはワイングラスをテーブルに置くと、どこからともなく手鏡を取り出した。

 そして、グラスを囲むように鏡の角度をゆっくりと傾けていく。

 僕の位置から見える鏡には、ちょうどワイングラスが反射して――視界には、二つのグラスが並んで映っていた。


「このテーブルの上にあるグラスが、僕たちの“元の世界”だとしよう。鏡の中に映っているグラスが、“虚像世界”だ。仮に僕がこのまま鏡を持つ手を離したり、少し角度を誤るだけでこの虚像世界は君の視界から消える。つまり――世界は滅ぶわけだね」


 ひらひらと手鏡を揺らしながら、メフィラは軽やかに説明する。

 なるほど。

 観測者オブ・ザーバーが、どうしてこんな虚像世界を“現実”として確定したのか不思議だったが、こうして例えられると非常に分かりやすい。

 この世界の創造者は観測者オブ・ザーバーの視界に映る角度に合わせて、この虚像世界を“演出”したのだ。


「さて、ここからこの鏡側の世界を“永久に存続”させようと思った場合――どうすればいいと思う?」

「……」


 メフィラの問いに、僕はしばし沈黙した。

 腕を組み、頭を働かせる。


「元のグラスを消す――なんてことをしたら、鏡の中のグラスも消えるよな」

「そうだね。でも、発想としては正しいよ。鏡の中の君も言っていたじゃないか。“僕たちの世界を滅ぼして、こちらの世界を存続させる”って」

「……」

「分かったみたいだね」


 別に露骨に表情に出したつもりはなかったが、やはりこの悪魔相手に隠し事は通用しないらしい。

 メフィラは僕の頬に手を添え、左目のあたりまで指を滑らせると、強引に頭の向きを変えた。


「この鏡の中に映っているグラスが、君の視界に“先に”映ったとしよう。元のグラスは、少し角度を変えれば見えなくなる」


 視界が限定される。

 確かに、今の僕の目には鏡の中のグラスしか映っていない。


観測者オブ・ザーバーはあくまでもシステムであり、そこに感情はない。だから、映ったものを“観測”し、映らないものは“観測”しないんだよ。……例え、視界から一瞬消えたのが長年存続していた正しい世界だとしてもね」

「……」


 鶏が先か卵が先か。

 思考回路がない観測者オブ・ザーバーにとって、それは本当にどうでもいいことなのだろう。


「具体的にどうやって観測者の視線をこちらの世界に限定させるのか。その方法は分からないけれど、少なくとも鏡の世界の君は、何か考えがあるようだね」


 メフィラはそう言って、意味深に微笑んだ。


「考え、か……鏡の僕は、いったい何を考えているんだろうな」

「おや? オリジナルは我が愛しの契約者様のはずなのに、分からないのかい?」

「分かってたら、こんなところで悩んでないよ……」


 自分のことのはずなのに、自分のことが分からない。

 それは、奇妙で、少しだけ怖い感覚だった。


「……もう一度、鏡の僕が言っていたことを考えてみたけどさ、やっぱり分からないんだ。どうして奴があんな考えに至ったのか」


 この世界を守るために、別の世界を滅ぼす。

 鏡の僕は、それこそが地藤優斗だと――僕自身だと断言した。

 天羽璃奈を切り捨てたように、そうすることこそが“僕”なのだと。

 確かに、そうかもしれないと思う気持ちはある。

 この世界に生まれ、滅びの運命を知っているからこそ、そういう考えに至るのも理解できなくはない。


 だけど――どうしても、引っ掛かる。

 それは違うんじゃないか。

 心の奥で、誰かが叫んでいる気がする。


「分からないなら、聞くしかねーんじゃねーの?」

「えっ」


 僕の隣に腰かけてきたのは、立食式で食事を楽しんでいた霧島先輩だった。

 既にメインディッシュは食べ終えたのか、彼女の手の中にはスイーツが山のように積まれている。


「分からねーなら、理解できるまで教えてもらう。納得できないなら、納得できるまで話し合う。それが、対話ってやつだろ?」

「でも、相手は僕ですよ? 自分のことなのに、自分に聞くなんて、変じゃないですか……?」

「変なわけないだろ」


 霧島先輩は、プリンの上に乗っていたチェリーを頬張りながら、きっぱりと言い切った。


「自分だから自分のことが分かってるなんて、それこそ思い上がりだぜ。人は、自分にだって平気で嘘をつく。……私を見てみろよ。自分が何をしたいのか分からないまま暴走して、挙句の果てにはこの街の人間を生贄にしようとしてたんだぜ?」


 おどけたような口調で自虐を口にする。

 けれど、その赤い瞳は真剣だった。

 軽さの裏に、確かな痛みと覚悟が滲んでいた。


「それに、この世界の連中は、お前の世界の連中とは結構違うんだろ? 性格が違えば、それはもう別人だ。何を考えてるかなんて、本人にしか分かりっこないさ」


 あっけらかんとした口調ではあるが、彼女の言葉はすべて正論だった。

 そうだ。この世界は、元の世界をそのままコピーしただけの模造品ではない。

 性格も、選択も、積み重ねた時間も違う。

 だから、こちらの僕が異なる結論に至ったとしても――それは、当然のことなのだ。


「ありがとうございます、霧島先輩。確かに、鏡の僕は僕とは違う存在です。それをちゃんと認識しないと、危うく向こうに引っ張られるところでした」


 霧島先輩の言葉が、胸の奥に静かに染み込んでいく。

 鏡の僕がどれだけ執拗に『君は僕だ』と繰り返そうとも――奴は僕ではない。

 そこをしっかり線引きしないと、余計なことばかり考えて、動きが鈍ってしまう。

 危うく、またいつもの負のスパイラルに足を取られるところだった。

 ……僕は、何度彼女のお世話になれば気が済むんだろうな。


「おう。役に立てたようなら何よりだ! 景気づけにプリンでも食うか?」

「はい! いただきます」

「はい、あーん」

「あーん」


 差し出されたスプーンの上に乗ったプリンを口に含む。

 とろける甘味が舌に広がり、脳まで幸福感が押し寄せてくる。


「やれやれ。我が愛しの契約者様が、こちらの世界の霧島レイに駄々甘な理由が少し分かった気がするよ。――ただ、この光景を天羽璃奈が見たら、間違いなくブチ切れるんじゃないかい?」

「……」

「どうしたんだユウト。急に銅像みたいに固まって」

「……いえ、ちょっともう、お腹いっぱいなので……」

「プリンなら別腹だろ? ほら、あと2口くらいだぞ?」

「結構です。先輩が召し上がってください……」

「そうか? じゃあ、遠慮なく」


 間接キスになることも気にせず、僕が口をつけたスプーンでプリンを平らげていく霧島先輩。

 その無邪気な姿を横目に、僕はなぜか急に出てきた冷や汗を拭いながら、向かいのソファでニヤニヤと笑っている悪魔に視線を向けた。


「あのなぁ、確かに璃奈に見られたら気まずい光景だったかもしれないけど、そもそも今は会いたくても会えない状況なんだって、分かってるか?」

「もちろん。だから、帰ったら告げ口しようと思って」

「馬鹿お前やめろ」

「アハハ! 顔がマジじゃないか。本当、からかいがいのある契約者様で楽しいよ」

「はいはい。勝手に楽しんでろよ……」


 それはそれとして、璃奈に言うのは本気でやめてほしいな――なんて。

 そんなことを考えていると、ふと口をついて出た言葉があった。


「――っていうか、お前に会ったら、まず言いたいことがあったんだ」

「愛の告白かい?」

「寝言は寝て言え、酔っ払い」


 悪魔の戯言をさらりと受け流しながら、僕は真剣な瞳でメフィラを見つめた。


「僕を、向こうの世界へ帰してくれ」

「おや? 世界の危機だというのに、ずいぶん呑気なことを言うねぇ。そんなに天羽璃奈に会いたいのかい?」

「それはもちろんだ。だけど、それ以上に――向こうの世界には、僕たちの仲間がいるじゃないか」


 璃奈、霧島先輩、十六夜蓮、十六夜唯。

 原作を知っている僕からすれば、まさに錚々たる面子だ。

 黒幕が鏡の僕であるという気まずさと申し訳なさがあるが――そんなものは大事の前の小事だ。

 世界の危機が迫っているのだから、今こそ彼らの手を借りるべき時だろう。


「ふむ。確かに、それは一理ある。君の言う通り、向こうの世界には頼れる人間が揃っている。……でも、残念だったね」


 メフィラは肩をすくめながら、ワイングラスを軽く揺らす。


「こっちのごたごたを片付けるまでは、向こうの世界には帰れないよ」

「なぜ?」

「もう、世界が閉じられてしまったからさ」

「世界が閉じられた……?」

「例えるなら、並行世界のように完全に独立した世界になりつつあるってことさ。……流石に僕でもこの段階になると気軽に世界間を移動することは出来ない。あとは、こちら側から事態を解決するしかないだろうね」

「……じゃあ、僕たちが何とかしなきゃ――」

「僕たちの世界は認識することも出来ないまま滅んでしまうだろうね。観測者オブ・ザーバーとは、そういう次元のものだから」

「……」


 脳裏に、あの巨大な“眼”が浮かぶ。

 空に開いた、次元の裂け目のようなそれ。

 確かに、あれは常識の外にある存在だった。

 世界の存在を“確定”するためだけに存在する、システムそのもの。

 もしそれが破綻すれば、抗える者などいない。


 ――とは言いつつ、僕らの世界には力技で何とかしそうな剛の者がちらほらと脳裏に浮かぶが……それでも、多大なる犠牲が出ることは避けられないだろう。


 何としても、鏡の僕の野望は打ち砕かなければならない。

 それが、この歪な世界を終わらせる唯一の道であり、僕たちの世界を守るための最初の一手だ。


 けれど――その前に、どうしても確認しておきたいことがあった。


「さっき、“世界は閉じられた”って言ってたよな? ……そもそも、この世界を創ったのは?」


 僕はメフィラが先ほど口にしていた言葉を思い返しながら、首を傾げる。

 鏡の僕が執拗に守ろうとしているこの歪な世界が、偶然生まれたとは到底思えない。

 あれほど精密に構築された構造と、観測者の視線を欺く仕掛け。

 それらが、ただの偶発的な産物であるはずがない。

 誰かが、明確な意図を持ってこの世界を創った。

 その誰かの目的が何であれ、鏡の僕の行動はその延長線上にあるはずだ。

 だからこそ、創造主の正体を知ることは、今後の戦いにおいて重要な鍵になる。


 メフィラは特に勿体ぶる様子もなく、あっさりとその名を口にした。


「この世界を創ったのは、“鏡の大公”と呼ばれる悪魔だよ」

「鏡の……? それって、まさか――」


 言いかけて、僕は息を呑む。

 その名に覚えがあった。

 もし僕の記憶が正しければ――


「小物?」

「酷い覚え方をするじゃないか」

「でも、小物だろ?」

「やれやれ――」


 メフィラは呆れたように小さく溜息をつきながら、グラスを指先でくるりと回した。


「――確かに、血の大公が力も階級もそれなりの癖に、ナルシストすぎる言動と、いつまで経っても改善されない慢心癖、そして強いものには媚び諂うという、醜悪で下品で、救いようがない小物であることは、森羅万象、空が青く、海も青く、血が赤く、僕が美しいのと同じくらい疑いようのない事実として――」

「そこまで言ってやるなよ」


 最後はお前が盛大に裏切った癖に。

 メフィラは僕のフォローを無視して言葉を続ける。


「まぁ、鏡のは血の大公とはまた違った悪魔だよ。良くも悪くも一芸特化といった感じかな?」


 豪奢な部屋の中を見渡しながら、感心したように言うメフィラ。

 鏡の僕の発言によれば、メフィラ2人掛かりでもこの世界の維持は出来ないようだから、一芸特化とはいえ、出力されている力は途轍もないのだろう。


 ……とはいえ、“大公”という肩書きに、僕はどうしても嫌な記憶しかない。


 僕は滅茶苦茶嫌な気持ちになりながら、メフィラに尋ねようとした。

 またしょうもない“大公シリーズ”と戦わなくてはならないのですか?――と。


 だが。


「我が愛しの契約者様――」


 僕が疑問を口にするよりも先に、メフィラの声が空気を切り裂いた。

 その声音は艶やかで、唇にはいつものように柔らかな弧が浮かんでいる。

 しかし――黄金に輝く瞳は鋭く光り、まるで獲物を見据える猛禽のようだった。


 彼女は指先でワイングラスを軽く揺らしながら、ソファに深く腰を沈める。

 脚を組み、背もたれに身を預けたその姿は、まるで玉座に君臨する魔王のようで――

 勇者の到来を感知した魔王が、静かに宣告するように告げた。


「――客人だ」


 次の瞬間、ホテルが揺れた。


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