第50話:僕は僕に、違和感を持つことを許さない件について


 扉の前に立つ男――地藤優斗は最初、唖然とした表情でこちらを見つめていた。


 無理もない。

 クリスマスパーティーのために顔を出し、扉を開けた先に、自分と寸分違わぬ顔の男が立っていたのだから。

 驚かない方がおかしい。


 実際に、僕も彼の到来は予見していたものの、こうして実物を目にすると想像以上の動揺に襲われていた。

 全く同じ顔、全く同じ体型、全く同じ人間が目の前にいる。

 その違和感は、尋常ではない。

 鏡とは違うのだ。

 --いや、厳密にはここは鏡の世界の中なので、鏡の中の自分と言えなくもないが……彼は僕と同じ動きをすることはない。


 お互いに動けず、妙な沈黙が満ちる。

 先に動き出したのは、この世界の地藤優斗の方だった。

 それだけの時間で、彼は落ち着きを取り戻したらしい。


「――驚いたな」


 全く同じ声で呟かれたその言葉が、第一声だった。


「来るのは分かっていたけれど、こうして対面すると、奇妙な感覚があるね」

「お前……」

「お前、なんて他人行儀な言い方は止せよ。なぁ――僕?」


 ニヤリと不敵な笑みを浮かべながら、挑発するような物言いをするこの世界の地藤優斗。

 根幹は同じ人間のはずなのに、何故か心の余裕に大きな差がある気がするのは僕の気のせいなのか。

 できれば、気のせいであって欲しいところだ。


「その言い方からして、お前――ややこしいから、『そっち』って言うけど、そっちも事情を理解しているんだな?」

「当然だろう。僕――ややこしいから、『そっち』と言うけれど、僕はそっちから生まれた個体なんだから」

「おい、お互いに『そっち』だとややこしくなるだろ? そっちがそっちで、こっちはこっちで頼むよ」

「同じ人間なのに、こっちがこっちだなんて、不平等じゃないか。どちらかというと、そっちがこっちに来た客人なんだから、こっちにそっちと呼ばせてくれよ」

「客人を敬うべきだろ? そっちがそっちだ」

「いや、こっちがそっちだ。……そっちがこっち?」

「どっちだよ」


 もう会話がぐちゃぐちゃだった。

 元が同じ個体が出会うと、こんなにややこしいことになるのか……。

 僕は額を抑えながら首を振った。


「あー、もう。このままじゃあ、キリがないから、君のことは『鏡の僕』と呼ぶことにするよ。事実なんだし、異論はないだろ?」

「ふむ。まぁ、言いたいことはあるけど、いいよ。じゃあ、僕は君のことを『本体の僕』と呼ぶことにするよ。異論はないだろう?」

「ないよ」


 お互いの間で取り決めを交わす。

 どう呼び合うかだけでこんなにややこしい会話を挟む必要があるだなんて。

 流石は僕。

 随分とまぁ、面倒くさい人間だ。


「さて、色々と聞きたいことはあるけれど、取り敢えず場所を移動しないか? 鏡の僕」

「十六夜家の中じゃダメなのかい?」

「ダメに決まってるだろ。同じ人間が二人いることをどうやって説明するつもりなんだよ」

「それもそうか。それじゃあ、散歩しながら話すとしよう」


 そう言った鏡の僕の身体から黒い霧が立ち昇る。


「反転しているとはいえ、能力的には同じ存在なんだ。当然、付いてこれるよね?」

「もちろん」


 僕もまた、黒霧を発生させながら頷く。

 そして、僕たちは二人同時に黒霧となって空へと飛びあがった。




♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰ 




 黒霧となった僕たちは、互いの動きを確かめるように、昼の空を滑る。

 飛び方の癖、旋回のタイミング、風の捉え方――どれをとっても、鏡の僕は地藤優斗そのものだった。

 まるで僕の記憶をなぞるように飛ぶ。


 やがて、鏡の僕に先導されるようにして、河川敷へと着地した。


 クリスマスということもあってか、人影は一つもない。

 閑散としたこの河川敷は、秘密の話し合いをするのにもってこいの場所と言えるだろう。

 とはいえ――


「なんで、家じゃないんだよ……」


 思わず不満が漏れてしまった。

 川から吹きつける乾いた風が、コートの隙間から容赦なく身体を冷やしていく。

 草木はすっかり枯れ、地面は霜に覆われている。


 どうしてこんな寒くて寂しい場所で、男二人――それも、自分自身と話さなきゃならないのか。

 暖房の効いた部屋で、こたつに入ってみかんでも食べながら駄弁る感じじゃダメだったのか。


 鏡の僕は肩をすくめて、少しだけ笑った。


「生憎と、家には客人がいてね。寒いところ悪いけど、我慢してくれよ」

「客人? 誰だい?」

「本体の僕もよく知る人だ。……まぁ、後で紹介するよ」


 そう言いながら、鏡の僕は足元の石を拾い上げ、川に向かってアンダースローで投げた。

 石は水面を何度も跳ねながら、向こう岸まで飛んでいく。

 軽やかで、無駄のない動きだった。


「上手いね」

「どーも」


 思わず褒めたが、すぐに気づく。

 こいつは僕だ。

 つまり、自分で自分を褒めていることになる。

 クソ……ややこしいな。


「手首のスナップを利かせるのがコツだよ。本体の僕はこういう遊びはしないのか?」

「やらないなぁ……もしかして、僕のインドア性が反転してこういうのが得意になったのかな?」

「どうだろう。あぁ、だけど身体を動かすのは好きな方かな」

「じゃあアウトドアだろ。きっちり反転しているじゃないか」

「ハハハ」


 お互いに探りを入れ合うような――よく分からない距離感の会話をする。

 妙な感じだ。本当に、妙な感じ。


 目の前にいるのは、違うようでいて、実は同じ存在。

 だからこそ、この戸惑いは、ある意味で正常なのかもしれない。


 とはいえ、いつまでも雑談ばかりしているわけにはいかない。

 僕は意を決して、口を開いた。


「ねぇ、鏡の僕」

「なんだい、本体の僕」

「『十六夜のエクソシスト』って、知ってる?」

「もちろん。『原作知識』のことだろう?」


 やはり、そこは変わらないらしい。

 まぁ、当然と言えば当然か。

 僕の“根幹”にあたる部分がそれなのだから。


「だから、この世界のことを自覚した時には驚いたよ。まさか、外伝の側に生まれるとは……ってね」

「そりゃあ、そうだよな」


 本編に生まれた僕ですら驚いたのだから、鏡の僕の衝撃は並大抵のものではなかっただろう。

 なにせ、ほとんど覚えていない外伝世界だ。

 中途半端な知識だけ渡されて、いきなり異世界に放り込まれたようなもの。

 我がことながら、同情を禁じ得ない状況だ。


 けれど、同情ばかりしていても話は進まない。


「……なぁ、鏡の僕」

「なんだい、本体の僕」


 僕は、自分自身だからこそ聞きづらいことを、あえて口にした。

 厭な気持ちになるのは分かっていたが――それでも聞かなければならなかったから。


「……璃奈が亡くなったことは?」

「知ってるに決まってるだろ」


 吐き捨てるような口調だった。

 鏡の僕は目を伏せ、苦痛を噛み殺すような声で続ける。


「最低最悪の気分だったよ。鏡の世界とはいえ、あれは確かに璃奈だったのに、どうしてこんなことになったんだろうな……」


 目を伏せ、苦痛を堪えるような声で語る鏡の僕。


 場違いな感想だが――僕は少し、安堵にも似た感情を覚えた。

 ショックで引き籠もっていたという話を聞いていたから、落ち込んでいるんだろうなとは思っていたが、地藤優斗が天羽璃奈の死に何も思っていないようであれば、それはそれで耐え難いショックだっただろうから。


悪魔の屁理屈ワンダー・トリックによる蘇生は出来なかったの?」

「出来なかった」

「どうして?」

「成立しなかったんだよ」


 苦々しい表情で鏡の僕は語る。


「璃奈の心臓を受け取った時の条件を覚えているか? 『恋人である天羽璃奈は地藤優斗に全て捧げる』と」


 僕は頷く。

 もちろん、覚えている。

 血の大公との戦いの中、成り行きで彼女の心臓を受け取ることになったのだが――彼女はハッキリと言葉にして、僕に全てを捧げると宣言してくれたのだ。


「だが、天羽璃奈は今回、自らその命を手放した。地藤優斗に捧げられるはずだった命を、使。この時点で矛盾が発生し――悪魔の屁理屈ワンダー・トリックは発動しなかった」

「そんな……で、でも、僕らならうまく誤魔化せるだろう?」

「その場にいればな。……僕が璃奈の死を知ったのは、彼女が亡くなった数日後のことだ。その時には既に、璃奈の心臓は契約違反で僕の所有物ではなくなっていたよ」

「……」


 心臓を捧げた相手を不死にする悪魔の契約。

 だが、まさかこんな落とし穴があったとは……。


 驚きはあるがしかし、完全に予想外というわけでもなかった。

 何故なら、悪魔の屁理屈ワンダー・トリックで璃奈を蘇らせることが出来るなら、鏡の僕が既に実行に移しているだろうと思っていたからだ。


「そうか。よく分かったよ。……ところで、鏡の僕はこれからどうするつもりなんだい?」


 かなり酷なことを聞いているとは分かっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。

 天羽璃奈という、地藤優斗の根幹である少女がいなくなってしまった時、僕はいったいどうするのか――。


「どうする……か。さて、どうしたもんかな――」


 乾いた風を浴びながら、鏡の僕は遠くを見つめる。

 視線の先に何があるわけでもない。ただ、思考を遠くへ投げているようだった。

 不意に屈み、石を一つ拾い上げると、吸血鬼特有の膂力を使って思い切り投げた。

 石は水面を何度も跳ねながら対岸へ向かって飛んでいくが、結局、真ん中あたりで力尽きて沈んでいった。


 その沈みゆく石を見つめながら、鏡の僕はぽつりと呟く。


「――ま、実のところ、やることは決まってるんだけどね」

「そうなんだ。何をするつもりだい?」

「おいおい、僕らは同じ人間だろ? 分からないのか?」


 再び石を拾い、今度も対岸を狙って投げる。

 だが、石はまたしても届かず、水の中に沈んでいった。


「そんなこと言われてもな……根幹が同じとはいえ、僕と鏡の僕じゃ経験してきたものが違うし、性格だって反転してる。何をするつもりかなんて、分かるはずがないだろ?」

「……そうか」


 何故か噛み締めるような口調で言いながら、鏡の僕は再び石を拾いあげた。


「僕が何を考えているか教えてもいいけど、それより君は、元の世界へ帰る方法を考えた方がいいんじゃないか? どうせ何も覚えていないんだろう」

「ご名答。さすがは僕だね」

「そりゃあ、君は僕だからね」


 呆れたように笑いながら、鏡の僕は再び石を投げた。

 先ほどまでとはフォームが少し違う。

 改善の効果があったのか、石は対岸に届くことこそなかったが、飛距離は明らかに伸びていた。


「正直なところ、相変わらず何も思い出せなくてさ。ここへ連れ込んだ元凶であるメフィラの奴は全然姿を現さないし、困ってたんだよね。だから――」

「この世界におけるイレギュラーである僕を頼りに来たってところか」

「正解」


 さすがは僕。

 理解が早いから、会話がスムーズに進む。


「本体の僕が置かれている状況と考えはよく分かったよ。大変だったね」

「同情はいいから、何か知っていることがあれば教えてくれないかい?」

「知っていることか……これといって本体の僕に教えられることはないけれど、僕にできることと言えば、君を元の世界に返すことくらいかな」

「そうか……分かった。それじゃあ、それで構わないから是非――?」

「君を、元の世界に送り返すって言ったんだよ」


 飄々と。

 何でもないことのように、鏡の僕は僕が熱望してやまない願いを叶えられると言った。


「で、できるの……?」

「もちろん可能だ。じゃなきゃ、こんなこと言わないさ」


 それは確かにそうだが――そんなに簡単に、さも当然のことのように言われると、今日まで孤軍奮闘してきた僕が馬鹿みたいじゃないか。


「ど、どうやって……?」

 

 僕は震える声で尋ねる。

 鏡の僕は右手をゆっくりと持ち上げ――見慣れた仕草で指を鳴らした。


 パチンッ。


悪魔の屁理屈ワンダー・トリック

「あっ、ごめん。それ無理だった」

「うえェっ?」


 指を鳴らしたままの姿勢で固まる鏡の僕。

 彼への悪口は全部僕へのブーメランになるのであまり言いたくはないのだが、気障なポーズといい、唖然とした表情も相まって、滅茶苦茶間抜けっぽい。


「えっと……なんで?」


 指を下ろした鏡の僕は、心底理解できないという顔で首を傾げた。

 どうやら、本当に理解できていないらしい。


「なんで、と言われたら困るけど……多分、あいつの仕業だよ」

「あいつ?」


 ここまで説明してもまだ理解できないのか。

 我がことながら、呆れた理解力の低さだ。

 僕は溜息をつきながら奴の名を口にした。


「メフィラだよ。それ以外に理由があるかい?」

「メフィラ? なんであいつが……って、あぁ、そういうことか」


 腕を組んで考え込んでいた鏡の僕だが、恐らくこちら側にいるメフィラが『反転』していることを思い出したのだろう。

 何とも言えない表情で頷いた。


「忘れかけていたが、そっちのメフィラはヤバい奴だったな」

「そういうこと。……アイツ、盤面を丸ごとひっくり返すような反則技は嫌っているからさ。多分、この世界からの脱出に制限を掛けているんだと思う」

「随分とまた、難儀な相棒を持ったな……」

「相棒なんて表現をしないでくれ。仲が良いみたいに聞こえるじゃないか」


 聞き捨てならない単語を聞き、思わず憮然と注意をする。

 如月メフィラが僕の相棒だって?

 悪い冗談にも程があるだろう。


「ず、随分と拗れた関係みたいだな……」

「当たり前だろ。これまでアイツのせいでどれだけの被害を被って来たと――って、そういえばこの世界にもメフィラはいるんだよね? 話しぶりからしてこっちのメフィラと随分違うみたいだけど、どこら辺が違うんだ」

「どこら辺と言われてもな……」


 唯ちゃんの反応や、『そっちのメフィラ』という言い方からして存在していることは間違いなさそうなので、聞いてみる。

 鏡の僕は肩を竦めた。


「順当に反転している――というコメントに留めておくよ」

「おいおい、随分と気になる言い方するじゃないか。もっと詳しく教えてくれよ」

「それは止めておくよ。多分、帰りたくなるだろうから」

「はぁ?」


 鏡の僕は、含みのある視線を向けながらニヤリと笑った。

 全く質問への答えになっていないが――本体メフィラのことを思えば、なかなか凄まじい反転を遂げているようだ。


「まぁ、何でもいいさ。話を戻すけど、そんなわけでこの僕は今、悪魔の屁理屈ワンダー・トリックに制限を掛けられていて、あっちの世界には帰れない状況なんだよ。だけど――」

「鏡の僕は、こちらの世界とメフィラを交わしていて、当然、制限なんて掛かっていない。だから君を帰せる。そういうわけだね」

「その通り」


 僕らは互いに頷き合う。


「鏡の僕、お願いだ。僕を元の世界へ帰してくれ」

「本体の僕に頼まれたとあっては、断るわけにはいかないな」


 鏡の僕は、僕に向かって右手を翳した。

 断られなくてよかった――と、一先ず安堵する。

 ……いや、そもそも彼が断る理由なんてなかったのだ。

 彼からすれば、僕はこの世界にとってのイレギュラー。

 こんな存在は、さっさと元の世界に返却するに限る。


「――さて、それじゃあ君を帰すことにするよ。何か忘れ物とかないかい?」

「忘れ物、か……」


 強いて言えば、ここまで世話になった霧島先輩に、帰ることを伝えてお礼を言いたかった。

 蓮や唯ちゃんにも、クリスマスパーティーを途中で抜け出したことを謝りたかった。

 けれど、せっかく解決への道筋が見え、物事がスムーズに進んでいる今、余計なことをして帰れなくなっても困る。

 彼女たちには申し訳ないが、このまま帰らせてもらうとしよう。


「いや、ないよ。何も持ち出しているわけじゃないし――ん?」


 ――と。

 そこで、思い出した。

 そうだ。僕には、持ち出しているものがあった。

 咄嗟にコートのポケットへ手を突っ込む。

 かさっ、と小さな紙が指先に触れる感触。

 急速に頭が冷えていく。

 静かに眠っていた脳が、回転を始める。

 ポケットの中で手を開き、紙をぎゅっと握り締める。


 ――この世界の璃奈が残した遺書を、握り締める。


「どうしたんだい? 何かあった?」

「あ、あぁ……ごめん。そういえば、忘れ物があったなーって思い出して。忘れ物っていうか、借りていたものをそのまま持って行こうとしてた感じなんだけど」

「ふーん。僕が渡しておこうか?」

「いや、いいよ。時間はあるんだろ? せっかくだし、お別れを言うついでに渡してくるよ」


 脳が警鐘を鳴らしている。

 こういう時、僕の直感は外れたことがない。

 とにかくこの場から離れろ――そんなアラートに従い、僕は適当な言い訳を並べながら、少しずつ鏡の僕との距離を取る。


「確かに時間はまだあるけど、早く向こうの世界に帰った方がいいんじゃないか? ――そっちの璃奈の安否が気になるだろう?」


 鏡の僕は右手を下ろし、何でもないような顔でそう言った。

 僕の心に最も響く言葉を、的確に選んでくる。

 “帰るのが正しい”と。

 そう思わせるように。

 そう考えるように


「確かに気になるけど、だからってこの世界でお世話になった人たちを蔑ろにするわけにはいかないだろ?」

「随分と謙虚だね。君、本当に僕かい?」

「当たり前だ。僕は、僕だ」


 違和感を与えないように。

 僕は少しずつ後退る。

 鏡の僕は既に手を下ろしているが――いつ能力が発動されるか分かったものではない。


「……おいおい、どうしたんだよ。自分自身を警戒してどうするんだ?」

「あっ、警戒してるの分かるんだ」

「当たり前だろ。君は、僕なんだから」

「確かにそうだったね。だけど、僕には君のことが分からないよ」

「妙な話だな」

「うん。本当に、妙な話だ」


 後退りながら、僕は璃奈の遺書を握り締める。

 彼女の“死”が、僕に警戒心を与えてくれる。

 確信を与えてくれる。


「だけど、分かることが一つだけある。――お前は、。何を考えているのか知らないが、僕を元の世界に帰したくて仕方がないみたいだね」


 沈黙。

 鏡の僕は何も言わない。

 僕は警戒を解かぬまま、懐の『柄』に手を伸ばす。

 一触即発の空気が張り詰める中、不意に鏡の僕は大きく溜息をついた。


「……ふん。分からないって言いながら、きっちり分かってるじゃないか。あーあ、これだから嫌なんだ。同一存在ってのは」


 何とも今更なことを口にする。

 鏡の僕は降参するように両手を上げた。


「はぁ……さすがに性急すぎたか。僕としたことが、千載一遇のチャンスを前に前のめりになっていたらしいね」

「……」

「だから警戒するなって。気づかれてしまった以上、もうどうしようもない。君を元の世界に帰したところで、どうせ――何より、君自身が乗り込んでくるんだろう?」

「君は……」


 自棄になったようにペラペラと喋る鏡の僕。

 その諦観に満ちた表情は、まるで最初からこうなることを予期していたかのようだった。


「ほら、気づいたことがあり、聞きたいことがあるんだろう? 遠慮するなよ。僕は君だ。なんでも聞くといい」


 探偵に見つかった犯人のように。

 城内にまで賊に侵入された王のように。

 罪を暴かれた罪人のように。


 鏡の世界の僕は、鷹揚としながらも、どこか威圧感を漂わせる口調で告げる。


「ねぇ、鏡の僕」

「なんだい。本体の僕」


 鏡の僕の目は凪いでいた。

 それは――覚悟が決まった者の目だった。

 僕は、改めて問いかける。


「君は、何を考えているんだ」

「なに、ちょっと大それたことを考えているだけさ」

「大それたこと?」


 鏡の僕はまた石を拾う。

 今度は投げず、上空へと放り投げる。

 石は弧を描いて落ちてくるが、彼はそれを軽々とキャッチし、肩の力を抜いた口調で言った。


「――この世界のことを、救おうと思っているんだ」





♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰






「えーと、どういう意味……?」


 言葉の意味が掴めず、僕は思わず問い返す。

 鏡の僕は、呆れたように眉をひそめながら石を拾い上げ、無造作に川へ投げた。


「君も知ってるだろ。この世界は――虚構だ。君らの世界を投影しただけの偽物で、最後には呆気なく消える運命にある。……じゃなきゃ、外伝とはいえ、こんな無茶が通るはずがない」


 その言葉は淡々としていたが、僕の胸には冷たい衝撃が走った。

 そうだ、考えてみれば当然のことだった。

 この世界は、悪魔によって創られた異世界のようなもので、いずれ崩れ去る仮初めの舞台に過ぎず、そこに生きる者たちもまた、例外なく消えていく運命にある。

 鏡の僕も、元気で頼れる霧島先輩も、素直で可愛い唯ちゃんも、普通になった十六夜蓮も――この世界で出会った彼らは皆、


 世界の都合で生まれ、世界の都合で消される。

 以前、血の大公の迷宮を攻略した時と同じように、偽物は本物の都合で容赦なく殺される。

 原作でもそうだった。


 外伝は、あくまで外伝。

 祭りが終われば、幕は下りる。


 それが定めであり、抗えない構造なのだ。

 だからこそ、鏡の僕は考えたのだろう――この世界を、虚構でしかない鏡の世界を、救いたいと。


 鏡の僕は真剣な瞳に諦観を滲ませながら、厳かに告げる。


「本体の僕は、あれやこれやと奔走していたようだけれど――結局は、時間の問題なんだよ。何もしなくても、ただ待っているだけで、きっと数か月もしないうちに綺麗に瓦解して、


 その言葉を聞いた瞬間、僕は思わず顔を顰めた。

 この世界で出会った人々――僕の世界とは違う要素を持ちながらも、確かにここで生きている彼らのことを思うと、胸の奥がざらついた。


「滅びを止められる方法は……ないのか? 例えば、悪魔の屁理屈ワンダー・トリックを使うとか」

悪魔の屁理屈ワンダー・トリックは確かに万能に見えるけれど、この世界を維持できるほどの力はないよ。いや、説明が悪かったかな。能力の階位的には同じ位置にいるけれど、方向性が違うと言うべきかもしれない。仮にメフィラが二人同時に能力を行使したとしても――それでも、無理だろうね」


 使い方次第で不死の存在を創り上げ、分不相応な力を与えることすら可能な悪魔の力。

 四騎士にも匹敵するメフィラの能力であれば、世界の維持も可能なのではと一瞬期待したが――やはり、そこまで万能ではなかったらしい。


「――ところで、本体の僕は、偽物と本物の違いについて、どう思ってる?」

「突然だな……別に、どうも思ってないけど?」

「フフフ、気楽なもんだな。それが“本物”の特権か」

「……なんだよ。随分と嫌味っぽい言い方をするじゃないか」

「悪いね。でも、真剣に考えた方がいい。それが、今回の主題だから」


 鏡の僕は肩をすくめると、再び石を拾い上げ、川へ向かって投げた。

 改善されたフォームの成果か、石は凄まじい速度で水面を跳ねながら、対岸の手前まで飛んでいく。


 あと少しで、届きそうだった。

 石は水面を跳ねながら、対岸の手前で力尽きる。


 鏡の僕は、その軌道を見届けながら、まるで石の届かなさに何かを重ねるように、ぽつりと語り始めた。


「偽物に価値がないのは、そこに真価がないからだ。だから偽善者は、何も為すことができない。だが――逆説的に考えれば、偽善者も己の行いを追求し、真価を得れば本物に至るということになる」


 それは、石が届かないことに意味を見出すような言葉だった。

 鏡の僕はまた石を拾い、再び投げる。

 届かない。


「よく言うだろ? “結果がすべて”って。あれも欺瞞に満ちた言葉だが――それでも、結果を無視することは誰にもできない。特に、それが存続を賭けた戦い――“戦争”であるなら、なおさらだ。結果は常に“勝者”によって語られる。そこに善悪はない。偽善もない。あるのは、ただ生き残った者の物語だけだ」

「戦争だって? 急に何の話を――」

「例え話さ。たとえばこの石が僕自身だとして、今僕たちが立っているこの岸が鏡の世界、向こう岸が君らの世界だとしよう。石がどちらの岸に属していたかなんて、最終的にどちらの岸辺に転がっているかで判断される。つまり、どちらの世界に“帰属”するかは、結果で決まるんだ」


 鏡の僕は、また石を拾い上げる。

 それを見つめながら、言葉を続ける。


って諺があるだろ? 火事がこちらの岸で起きていたとしても、そちらの岸では無関係だ。羨ましい話だよ。こっちは、勝手に創られて、生き残りを賭けてあれこれと騒いでいるのに、そっちは平和そのものだ。だが――もし火事が起きたのが、そちらの岸だったとしたら?」

「……まさか」


 その考えに至った瞬間、背筋が凍りついた。

 そんなこと、考えるはずがない。

 そう思いたかった。


 だが――相手は僕自身だ。


 仮に、僕がこの世界に生まれたとして。

 この世界の崩壊を目の前にして。

 そのことを、欠片も考えないと言い切れるか?

 自分自身に問いかける。


 答えは、NOだった。


 僕が目を見開いたまま沈黙すると、鏡の僕が石を拾う手を止め、こちらをちらりと見た。

 その目は、何も言わずともすべてを察したように、わずかに細められる。


「――つまり、そういうことだよ」


 その声は、どこか嬉しそうで、どこか寂しげだった。

 まるで、ようやく本音を共有できたことに安堵しているかのように。

 僕は拳を握りしめる。

 胸の奥が焼けるように熱く、喉が裂けるほどの怒りが込み上げる。


「お前……!」

「そう憤るなよ。僕は、君だぜ?」

「ふざけるなッ!」


 怒鳴り声が、河川敷の静けさを裂いた。

 僕は、己の中に渦巻く激情を抑えることができなかった。

 コイツが言ったことを認められない。

 身勝手にもコイツは、今、こう言ったのだ。

 自分たちの世界を存続させるために――


「お前、……!」


 鏡の僕が語っていたのは、つまり――僕たちの世界を滅ぼし、鏡の世界を延命させるという選択の比喩だ。

 偽物の世界が模造品で脆いのであれば、補強すればいい。

 どこよりも合致する本物の素材――元の世界を使って。

 本物を喰らい、偽物を生かす。

 その選択を、僕自身がしようとしている。


 言葉は怒りのままに吐き出された。


 ふざけている。

 こんなのは、間違っている。


 こんなのは――


「僕じゃない!」


 認めたくなくて、僕は必死に叫ぶ。


「お前は、僕じゃない!!」

「いいや。僕は、


 僕の叫びを冷徹な声で打ち消す鏡の僕。

 欺瞞を許さぬ真っすぐな瞳。

 鏡の僕は、僕の奥底にあるものを、容赦なく暴いていく。


「世界を救うために、片方を切り捨てる。それは正しく、地藤優斗の在り方だ。忘れたのか――?」


 そして、決定的な一言が放たれる。


「地藤優斗は、『世界』の為に『』男じゃないか」


 この僕に、逃れようのない真実を突きつけてきた。


 思考が止まり、時間が凍ったように感じる。

 耳鳴りがする。

 視界が揺れる。

 ここにはない心臓が、痛いほどに脈打つ。


 そうだ。

 そうだった。


 僕は、そういう奴だった。

 忘れていたわけじゃない。

 忘れようとしていただけだ。

 璃奈を大事にすることで、あの選択をなかったことにしようとしていた。

 でも、それは欺瞞だった。


 僕は――


。大の為に大事な小を殺す究極の偽善者。それが、君の本性――根幹だ」

「……」


 ぐらり、と眩暈がする。

 知りたくなかった――直視したくなかった真実に、吐き気がする。


 思わず膝をついた僕を見下ろしながら、鏡の僕は再び石を拾った。


「とはいえ、本体の僕は、仮に思いついたとしてもここまでのことはしないだろう。何故なら、一欠けらの良心と常識があるからね。君は、良くも悪くも“普通の人間”だ。だけど――僕は違う」


 鏡の僕は、静かに言い切った。

 その声には迷いがなかった。

 こうと決めたらブレない、頑丈な精神。


 あぁ、そうだ。唯ちゃんも言っていたな。


 ――彼は、んだと。


「これが許されないことだとは分かっている。だが、それでも僕は、この僕が生まれた世界を見捨てられないんだ。そうじゃなきゃ、この世界の皆が救われないだろ?」


 正直な話、彼と話していて、どこが“反転”なのか分からなかった瞬間もあった。

 話し方も、容姿も、僕と大して相違はなかったから。


 だが、今ならはっきりと断言できる。

 コイツは、

 僕と同じようでいて、決定的に違う。



 鏡の僕は、手の中で弄んでいた石を静かに投げた。

 石は空を裂くように飛び、水面に触れるたびに鋭く跳ねた。

 一度、二度、三度――その軌道は、まるで意志を持っているかのように、迷いなく対岸を目指す。


 届くはずがない距離だった。

 何度も失敗していたはずだった。

 それが今、遂に――

 石は、最後の跳ねで水面を越え、対岸の土を確かに捉えたのだ。


「……届くじゃないか」


 鏡の僕は、その光景を満足げに見届けると、懐から一本の『柄』を取り出した。

 柄を握る手に迷いはなく、瞳は鋼鉄のように揺るがない。

 その視線が僕を見下ろす。

 そして、告げる。


「僕は、この世界を救うよ――」


 その言葉は、祈りにも似た響きを持ちながら、同時に誰かを切り捨てる覚悟を孕んでいた。

 救済とは、選別だ。

 誰かを守るためには、誰かを犠牲にする。

 その理屈を、鏡の僕は受け入れていた。

 だからこそ、迷いなくその言葉は発せられる。


「――君たちの世界を、滅ぼしてでも」


 そうして、この世界を救うべく立ち上がった『英雄』――


 地藤優斗は、静かに剣を引き抜いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る