第22話:話し合いも騙し合いもどうぞご自由に
「今日も文化祭の準備か。私の無茶に付き合わせてしまって、すまないな」
生徒会室に入った霧島レイは、静かに扉を閉めながら、机に向かって作業中の地藤優斗へと声をかけた。
「いえいえ。楽しみながらやっていることですから、お気になさらず」
優斗は微笑みながら柔らかく返す。
「そう言ってもらえると助かるよ」
霧島は申し訳なさそうに微笑むと、彼の正面に腰を下ろした。
いつものように形式ばった、先輩と後輩の定型文のようなやり取り。
だが、そこに隠された緊張感は、ただの雑談とは一線を画していた。
「そういえば、昨日学校を休んでいたと聞いたが……体調は大丈夫か?」
ふいに声のトーンを落とし、霧島は静かに尋ねた。
「えぇ、大丈夫です。一日休めばすっかり元気になりました」
優斗は穏やかな笑顔で答える。霧島はその言葉に、心の底から安堵したように表情を緩めた。
当事者のくせに――いや、当事者であるからこそ、彼女は地藤の怪我を案じていた。
悪魔たちがその光景を見れば嘲笑したに違いない。
中途半端な軟弱者。人を襲うにはあまりに善人で――真面目過ぎる、と。
「もうすぐ冬になる。季節の変わり目だから、体調には注意するようにな」
「分かりました。お気遣いありがとうございます。先輩も気を付けてくださいね? 確か、また剣道部の遠征があるんですよね?」
その一言で、空気が微かに変わった。
霧島の手が止まり、微かに表情が揺れる。
「……」
「先輩?」
沈黙した彼女に怪訝な表情を浮かべる地藤。
改めて尋ねると、彼女は言いづらそうに沈黙の理由を口にした。
「実は、剣道部は辞めたんだ」
「えっ……えぇ⁉」
驚いてみせる優斗だが、その瞳に浮かぶのは戸惑いではなく、冷静な観察だった。
やはり、そう来たか――彼の中で、そんな言葉が静かに過ぎる。
「ど、どうしてですか? 先輩といえば剣道、剣道といえば先輩だったのに……」
「お前な、私を何だと思っていたんだ……?」
偏見に満ちた後輩のコメントに苦笑いする。
以前からふとした瞬間に毒気というか、予測不能なことを言う人物ではあったが、その調子は変わらないらしい。
「でも本当に、どうしたんですか? あんなに打ち込んでいたのに……あっ、受験勉強で忙しくなったとかですか?」
「いや、そういうわけではないのだが……」
「だったら、なぜ?」
素直に地藤の推測に乗っかって嘘をつけばいいものを、それすら出来ない生真面目な霧島レイは気まずそうに顔を逸らす。
しかし、すぐに真剣な面持ちで地藤の瞳を見つめ返した。
「ただ――やるべきことが明確になっただけだ」
愁いを帯びながらも強い決意に満ちた赤い瞳。
彼女の意思は明確に定まっていた。
例え、その道の先が地獄であったとしても。
「……そうですか。何のことかは僕には分かりませんが、何にせよ上手くいくことを祈っていますよ」
「あぁ、ありがとう」
霧島レイは肩の力を抜き、ようやく少しだけ微笑んだ。
常に仏頂面の彼女が浮かべた微笑は、それだけで男の理性を溶かしかねないほどに魅力的で――普段からもっと笑えばいいのに、なんて感想を地藤は抱いた。
敢えて口に出すほど彼女と親しくはないし、最愛の彼女がいるので胸の内に留めておいたが。
「ところで、天羽とは上手くやっているのか?」
「えぇ、仲良くやっていますが……意外ですね、先輩がそういったことを聞いてくるなんて」
「私だって年頃の女だ。それなりに気にするさ」
自嘲しながら呟く霧島レイだが、地藤が指摘した通り、彼女がそういった話題に興味を持つこと自体が非常に稀である。
珍しいものを見たような顔をする地藤に苦笑いをしながら、彼女は弁明する。
「いや、なに。去年までの天羽は私と同じようにそういったことに興味がなさそうだったんでな。君がどうやって口説き落としたのか気になっていたんだ」
「口説き落としたって言うほどでもないんですが……」
「そう謙遜するな。天羽が君にベタ惚れなのは私から見ても明らかだ」
「ハハハ……ベタ惚れなのは僕も一緒ですよ」
「ほう、惚気話か。君も天羽も随分と変わったものだ」
微笑ましいものを見るような目で地藤を見つめる霧島レイ。
しかし、不意に彼女の表情に影が落ちる。
思わず身構える地藤に対し、彼女は囁くような声で呟いた。
「……それだけ仲が良いのであれば、二人の間に秘密などないのだろうな?」
「秘密、ですか?」
「あぁ。もちろん、恋人同士だからと言って、隠し事が一つもないとは思っていない。だが、大事なことは全て曝け出しているんだろう?」
「……急にどうしたんですか?」
先程までは後輩の恋愛事情を温かく見守る程度の距離感だったというのに、急にプライベートなことに踏み込んできたため、思わず地藤の声も固くなる。
「いや、恋人がいない身ながら、そういう関係の相手がいれば理想的だろうなと勝手に妄想していたんだ。すまない、少し口下手だったな」
警戒されていることを悟った霧島レイは慌てて弁明する。
地藤は不思議そうな表情を浮かべながらも、彼女の疑問に答えた。
「確かに理想的ではありますが……正直、秘密がないと言えば嘘になりますね」
「ほう? どんな秘密だ?」
興味が湧いたのか、身を乗り出して尋ねる霧島レイ。
平均よりも身長が高く、さらにスポーツで日夜鍛えている霧島レイは非常に筋肉質な身体をしている。
しかし同時に、他人種の血が混じっている彼女の肢体は年齢の割に非常に豊満であり――着ている服はただの制服だというのに、身を乗り出すと妙に煽情的な色気を醸し出していた。
さらに地藤を見つめる悪戯っぽい瞳は妖艶で、表情は好奇心旺盛で、妖艶さと相反する幼さもある。
あまり見かけない表情と仕草だけに、その姿は男を惑わす魅力に満ちていた。
……もっとも、その瞳の奥には底冷えするような眼光が潜んでいたが。
霧島レイの思惑を知ってか知らずか、地藤は恥ずかしそうに視線を逸らしながら答えた。
「いや、それは流石に言えないですよ……」
「どうしても、と言ってもか?」
「璃奈にも言えないような秘密ですよ? そんな、急に言われても答えられませんよ……」
「……そうか。それもそうだな。失礼なことを聞いてしまった。許してくれ」
(ここらが潮時か……)
現在の関係性でこれ以上踏み込んでは不信感を与えかねない。
霧島レイは渋々と引き下がった。
必ずその秘密を――悪魔の契約者であるという秘密を暴いてやると決心して。
「ところで、そんな先輩はどうなんですか?」
「ん? 何がだ?」
先輩、後輩の枠を超えるためのファーストコンタクトとしては上々。
地藤優斗と天羽璃奈の仲の良さは既に学園内で周知の事実だが、それでも四六時中一緒にいるというわけでもあるまい。
霧島レイの学園内での権力を活用すれば二人を少しの間、引き離しておくことも可能だ。
この調子で少しずつ地藤優斗と距離を縮め、霧島レイの正体を悟らせないまま彼の情報を抜き取る――これが最善手であると判断した彼女は、今日のところは引くつもりでいた。
しかし、そんな彼女を引き留めるように地藤優斗が質問を投げかける。
彼女が浮かべていたような、悪戯っぽい表情で。
「先輩にだって、僕と同じように人に言えない秘密があるんじゃないですか?」
「私か? ……そうだな。確かに秘密はあるぞ」
会話に乗る意味は特になかったが、今後のことを考えれば冷たくあしらうのは悪手だ。
話の流れに沿うように、霧島レイは彼が望んでいるであろう回答を口にした。
「へぇ、意外ですね。先輩は隠し事などあるか!って言って仁王立ちしているタイプだと思ってました」
「だから、お前の中で私はどんなイメージになってるんだ……?」
先程から話を聞くに、どうにも霧島レイの実態から乖離しているイメージを持たれているらしい。
まぁ、文化祭関係で事務的な会話を交わしたのみであり、プライベートなことはあまり話したことがない間柄なので仕方のないことかもしれないが……。
「先輩はどんな秘密を抱えているんですか?」
「残念ながら言えないな。お前が秘密を明かしてくれるなら、考えなくもないが」
「それ、僕に先に言わせてから自分は絶対言わないやつじゃないですか~」
「そんなことはないさ。私は約束を守る女だ」
「本当ですか~?」
「本当だとも」
揶揄うような問いに真顔で頷く。
霧島レイは本気だった。
彼の秘密を暴けるのであれば――彼女の目的の妨げとなりうる彼のことをコントロール出来るのであれば、多少の秘密は暴露してもいいと考えていた。
最も、大事な秘密を明かすつもりなど毛頭なかったが。
「ふむ……そこまで言うなら、分かりました。僕の秘密をお話しします。だから、先輩も秘密を話してくださいね」
「ようやく話す気になったか。無論、約束は守るとも」
正直、大した秘密は告白されないだろうと高を括っていた。
故に――
「実は僕、魔法使いなんですよ」
一瞬、心臓が跳ねたことを否定は出来なかった。
核心に迫る――にはあまりに幼稚で、しかし全く関係ない――と言い切ることは出来ない。
そんな、絶妙な回答であった。
(なんだ、何を考えている? 間接的に悪魔の契約者であることを匂わせているのか? それとも私を揶揄っているだけか? ……流石に後者か。一昨日の攻防だけで見破られるほど甘い擬態はしていなかったはずだ)
「あっ、その顔は疑っている顔ですね?」
「……こんなことを突然言われて信じる方がどうかしているだろう」
不自然にならないよう、不機嫌そうな表情を装いながら答える。
揶揄われたと判断した先輩の回答としてはごく一般的なもののはずだ。
「確かにそれもそうですね……じゃあ、また今度、魔法をお見せしますよ」
「ほう? それは楽しみだ」
「先輩、やっぱり信じてないでしょ~?」
「いやいや、信じているとも」
「本当ですか~? まぁ、いいや。また魔法をお見せしますから、何が観たいか考えておいてくださいね」
「私が考えるのか?」
「手品じゃなくて魔法ですから。そうだ! せっかくなら、先輩の願いを叶えて差し上げますよ」
「――――」
願い。
霧島レイの、願い。
その身が狂ってしまう程の願い。
「私の願い、か。叶えてくれるなら、何でもするのだがな」
「おっ、今、なんでもって言いました?」
「こらっ、調子に乗るな。叶えられたら、だ」
ずいっと身を乗り出してくる後輩の額を人差し指で小突く。地藤は「あぅ」と情けない声を上げながら後退した。
その屈託のない姿を見て、霧島レイは安堵した。
やはり、ただの悪ふざけだったようだ。
「ほら、僕の秘密を明かしたんですから、先輩も秘密を教えてくださいよ」
「あぁ、確かにそういう約束だったな」
好奇心で目を輝かせている後輩に尋ねられ、この一連のやり取りで忘れかけていた約束を思い出す。
さて、どの秘密を明かすべきか。
霧島レイは数多くの秘密を抱えている。
だが、秘密と言ってもその中身は大小様々だ。
単に自分のプライドが傷つけられるから言いたくない小さなものから、決して明かすことが出来ない重い秘密まで、多種多様だ。
地藤も極めてグレーゾーンとはいえ、ふざけた回答をしていたのだから、この流れに乗っかれるような秘密が良いだろう。
霧島レイはそう判断し、自分の中で特に階級が低く、かつ笑い話になるような秘密をピックアップした。
「あっ、実は吸血鬼でしたっていうのはナシですからね」
「――――」
霧島レイの表情が凍り付いた。
赤い瞳が驚愕に見開かれる。
先ほど「魔法使い」という単語を口にしたばかりだ。だから、そこから連想されるファンタジー的な存在を冗談めかして続けた――という体裁にはなっている。
確かに、霧島レイの外見は非常に特徴的で、特にその紅玉のような瞳は吸血鬼を想起させる要素になり得る。
だが、この空気の中で、わざわざその言葉を選び出すのは、あまりに狙い澄ましている。
――偶然だとは、とても思えなかった。
『――起きろ、斬霞刀』
静かに囁いた次の瞬間、彼女の体が宙を舞った。机の上に一足で跳び乗り、無駄のない動作で右手を左腰へと翳す。
そして、空気が揺れる。
銀光が揺らめき、空間が裂けるようにして一振りの刀が出現した。霧島レイの意志に応じ、鞘に収められたままの祓魔器――『斬霞刀』が宙に現れる。
柄から鍔、そして刀身の先端までが滑らかに銀で統一されたその刀は、凛とした気配を纏い、ただの武器とは思えない威容を放っていた。
霧島は居合の構えから一気に抜刀、銀の軌跡が風を裂き、雷光のように走る。
だが――地藤優斗は、微動だにしなかった。
恐れる様子もなく、ただ静かにその一撃を受け入れるように席から動かなかった。
結果、霧島の斬撃は地藤の首を撥ねることはなく、寸前で止まった。
「貴様――!」
「璃奈に腕を撃たれていましたが、この剣筋なら怪我は問題なさそうですね。流石は吸血鬼」
喉元に突き付けられた刀の切っ先を横目に飄々と語る歪な少年。
霧島レイは唇を噛んだ。
「貴様……私の正体を見破っていたのか……!」
「じゃなきゃ、こんなこと言わないですよ。そういう先輩こそ、僕のこと探りに来たんでしょう? わざわざ璃奈と離れた瞬間を狙って」
「ッ! 見透かしたようなことを言うな!」
首元に突きつけられた刀の切っ先が喉元に食い込む。刃が肌を食い破り、地藤の首筋から赤い液体が滴り落ちた。
「ッ」
霧島レイは慌てて刀を地藤から遠ざけた。しかし鞘へ仕舞うことはせずに、地藤がおかしな真似をすればすぐに首を撥ねられるように油断なく構える。
「見透かしてなんかいませんよ。……先輩も自覚があるようですので僕が言うのも酷な話ですが、ちょっと口下手が過ぎますよ?」
「黙れ! 貴様のように猪口才な奴と交わす言葉など持ち合わせていない!」
「でも、こうして話しているじゃないですか。先輩はいつも、矛盾していますね」
「このッ……!」
「それ以上、僕を傷つけるのはやめた方がいいですよ。吸血衝動、抑えられなくなっちゃいますから」
吸血衝動。その言葉を聞いた瞬間、霧島レイの喉が強烈に渇いた。
視線が地藤優斗の首筋を垂れる血に吸い寄せられる。
吸いたい。飲みたい。あの血を、体内に取り込みたい。
牙を突き立て、全てを飲み干したい――
「ッ! ふざけるな! 貴様に、私の何が分かる⁉」
引き寄せられるように地藤の方へ近づきつつある自分に気が付いた霧島レイは思い切り自分の頭を叩き、首を振って強引に本能の手綱を握りなおした。
まるで霧島レイの全てを掌握しているような言動に怒りと――恐怖を覚え、それを誤魔化すように射殺すような視線で問い詰める。
地藤は飄々と肩をすくめた。
「大したことは分かっていませんよ。先輩がエクソシストなのに実は吸血鬼……いや、半吸血鬼ですかね? どっちでもいいか。で、夜な夜な発情しては少年を襲って血を啜っているということしか――」
「だからふざけるなと言っている! 私は発情などしていない!」
「おっと、そうでしたか。それは失礼しました。ただ、それ以外は事実ですよね?」
「……どうして、あれが私だと分かった? これまでバレたことなどないというのに――」
霧島レイが持つ吸血鬼としての能力の一つ、『黒霧の衣』は極めて強力な能力だ。
これまで勘が鋭いエクソシストや悪魔と何度も出会ってきたが、誰も彼女の正体を暴くことは出来なかった。
だというのに、どうしてこの後輩は彼女の能力に惑わされなかったのか。
「そんなの簡単ですよ」
地藤は何でもないことのように答えた。
「先輩が自分で肯定しましたから」
「なに? 私はそんなこと――」
言ってない、と口にしかけた霧島レイはふと、先ほどの会話を思い返した。
そうだ。地藤は妖しい言動で霧島レイを惑わせ続けたものの、自身からその核心を突くようなことはしなかった。
決定的な一言に思わず剣を抜いてしまったが、あそこで素知らぬ顔をしていればこの場をやり過ごすこともできた、かもしれない。
「――まさか、鎌をかけたのか?」
地藤優斗は肯定も否定もしなかった。
「まぁ、ヒントはたくさんありましたよ。特徴的な口調。自分で襲ってきたくせにやたらと生真面目な態度。そして、今日話しかけてきたタイミング……あれ、こうしてみると鎌をかけるまでもなかったかもしれませんね」
「……」
淡々と告げられた霧島レイを特定する要素。
隠そうと思えば幾らでも隠せたそれらの要素が浮き彫りになっていたのは、単に霧島レイ自身の慢心だ。
己の隠蔽能力のレベルの高さに胡坐をかき、肝心の本体が擬態を怠っていたのだ。
だが、真に恐るべきはこれだけの小さなヒントで彼女を特定した地藤優斗の洞察力だろう。
「……それで、私の正体を暴いてどうするつもりだ?」
「どうするもなにも、これでお互いに素性はハッキリしたわけですし、改めて話し合いといこうじゃないですか」
「この期に及んで話し合いとは……呆れ果てる程の平和主義者だな、お前は」
「先輩は引くほど好戦的ですね」
「揶揄うな。……悪いが、こちらには平和に話し合っていられる余裕などないのだ」
悲壮感の漂う表情で霧島レイは突き付けていた刀を下ろし――今度は上段に構えた。
「ふざけた言動はこの際見逃してやる。だがお前、分かっているのか? 今、ここは死地なのだぞ?」
霧島レイから殺気が放たれる。
エクソシストとして悪魔を狩り、吸血鬼としてエクソシストを襲う。
矛盾した在り方をしている彼女ではあるが、その分、潜り抜けてきた修羅場の数は圧倒的だ。
常人であればそれだけで気絶しかねないほどの強者のプレッシャーが圧し掛かるがしかし――地藤優斗は、一切怯まなかった。
「先輩こそ分かっていないみたいですね。ここは決戦場ですよ」
「分かっているとも」
「いいや、分かっていない」
地藤の瞳が強者として君臨する霧島レイの瞳を真っ向から睨みつける。
「ここで貴女の運命が決まるんです。ここで、決着をつけるんです」
「なにを――」
一切怯む様子を見せず、逆に相手を追い込むような言動をする地藤に困惑する霧島レイ。
主導権を握られ続ける状況が続く中、地藤は予想だにしない一言を放った。
「先輩、契約をしましょう」
「契約、だと?」
「はい」
決着の話から、どうして急に“契約”の話になるのか。
思わず刃先が揺らぐ霧島レイに向かって真剣な表情で頷きながら、地藤は語る。
「内容はこうです。地藤優斗は霧島レイの願いを叶える。代わりに、霧島レイは現在契約している悪魔との契約を断ち切り、地藤優斗に従い、なおかつ、彼と彼の仲間である天羽璃奈、十六夜蓮、十六夜唯に一切危害を加えない――どうです?」
「……なんだ、それは」
地藤の提案を受けた霧島レイの声が震える。それは、怒りだった。
赤い瞳を憤怒に染め上げながら、彼女は無礼な後輩を睨みつける。
「貴様に、私の望みを叶えられるだと……? 冗談も大概にしろ! 私の願いも知らぬくせに、よくもぬけぬけとそのような世迷言を――」
「弟さんの蘇生、ですよね?」
「――――」
その言葉が発せられた瞬間、霧島レイは固まった。
全ての感情を失い、漂白されたような表情で静止すること暫く。
放心状態だった彼女はただ一言、
「……はっ?」
そんな声を漏らした。
馬鹿な。あり得ない。あり得るはずがない……!
その願いを知るのは彼女自身と、彼女と契約を交わしたあの悪魔だけのはずだ。
この少年が知るはずがない。知っていていいはずがない……!
混乱の極みにある霧島レイの中で思考がぐるぐると回る。
地藤優斗は今の彼女が冷静ではないことを見抜き――ここで畳みかけることを決めた。
「どうして、なんて野暮なことは聞かないと思いますが、一応言っておくと僕は悪魔と契約した人間なんですよ。人の秘密なんてないも同然です」
悪魔と契約した人間。その言葉を聞き、霧島レイは微かに正気を取り戻した。
そうだ。この少年は人畜無害そうな顔をしていながら、悪魔と契約するという禁忌を犯した危険人物なのだ。
人の心を読み取るような能力を所持していたとしても、何らおかしくはない。
「先輩がどこの悪魔と契約しているのかは知りませんが、僕と契約しなおすことをおススメしますよ。理由はお分かりになりますよね?」
「……いや、分からない。何故だ?」
素直に首を振った彼女に対し、地藤はどこか小馬鹿にしたような笑みを浮かべて首を振った。
「やれやれ、先輩にはあれだけ見せたのにもう忘れちゃったんですか?」
「勿体ぶるな! 殺されたいのか貴様ッ!」
「殺してもらっても構いませんよ。どうせ生き返りますから」
「あっ」
彼女の脳裏に一昨日の夜の光景が浮かび上がる。
自身の剣で頭を貫いた地藤優斗は確かに絶命し――その後、生き返ったのだ。
吸血鬼でも絶命を免れない致命傷を負っても平然と生き返る。
“死”そのものを否定し、殺されても生き返る。
それ即ち――
「わ、私の弟も生き返らせることができるのか⁉」
地藤との間にある机に乗り上げ、彼の襟首を掴む勢いで霧島が尋ねる。
その赤い瞳には狂おしいほどの渇望が渦巻いており、彼女がその願いに掛ける思いの強さが伝わってくる。
「まぁ、落ち着いてください。僕は貴女の願いを読み取っただけで、詳細はまだ分かっていないんです。弟さんがどんな人で、どこでどういう風に死んだか。あとは、細かい情報が幾つか必要になります」
興奮し、今すぐにでも暴れ出しそうな霧島レイを落ち着かせるようにゆったりとした口調で必要事項を述べる地藤。
彼の落ち着いた語り口で少し落ち着いたのか、身を乗り出していた霧島レイは後退し、机の上から降りた。
「お前が言う条件をクリアすれば、私の弟は生き返るんだな……?」
「随分と必死ですね。そんなに仲が良かったんですか?」
「話を逸らすな! 私の問いに答えろ!」
答えなければ首を斬り飛ばす。抜き身の刃のような赤い瞳がそう告げていた。
常人であれば恐れのあまり、硬直して口を開くことすら出来ないであろう重圧をしかし、地藤は余裕を持って受け流した。
「僕は言いましたよね。――貴女の望みは叶う、と」
「……そうか」
地藤の返答を受けた霧島レイは視線を落とし、深く考え込むように椅子へ座り込んだ。
「悲願の為ともなれば簡単に決断することは難しいでしょうが、僕はこれが最善であると考えます。お互いの……そして、関係者全員にとってね」
「なぜそう断言できる?」
「僕は貴女が今契約している悪魔と違って、生贄なんて必要としないからですよ」
「――――」
再び霧島レイの表情が固まる。限界まで大きな赤い瞳を見開いていた彼女だが、やがて諦めたように深いため息をついた。
「……お前には全てお見通し、というわけか」
「先輩の性格からして、そういうのはお嫌いでしょう? その点、僕ならもっと上手くやれます。僕が思う最善で、貴女の願いを叶えることが出来る」
動揺している彼女の隙をつくように、甘い言葉で囁く。
まるで、悪辣な悪魔のように。
「……本当に、犠牲は必要ないのだな? 犠牲を出すことなく、私の弟――」
「何度も言わせないでくださいよ。僕は言っているじゃないですか。貴女の願いは叶う、と」
「しかし――」
「別に、いいんですよ? 先輩が今の悪魔との契約に従ってこの街の罪なき人々を全員生贄にして弟さんを復活させても、それが貴方の望みなのであれば僕は何も言いません」
「ッ! そ、それは――」
霧島レイは苦悩に満ちた表情で俯いた。
ただでさえ、仏頂面な彼女の表情をいつも以上に固くしている要因である、現在の悪魔との契約内容。
その全ての罪を背負うことを決め、覚悟していたはずなのに――いざ、その罪深さを直視すると揺らいでしまう。
こうして、遥かに条件が良さそうな契約を持ちかけられてしまうと、猶更に。
しかし、逆に言えばこの条件は霧島レイにとって都合がよすぎた。
既に冷静さを失いつつあるが、それでも彼女はこれまでの苦渋に満ちた人生経験で良く分かっていた。
自分に都合がいい奇跡など決して起きないことを。
「先輩が今、何を考えているか当てて差し上げましょうか」
葛藤する霧島レイの内面をそのまま読み取ったかのように、地藤優斗は余裕に満ちた態度で告げる。
「自分にとって都合がよすぎる。ひょっとしてこれは詐欺、ではないか? そんなところじゃないですか?」
「ッ!」
「どうやら図星のようですね」
分かりやすいですね、なんて呆れたような笑みを浮かべながら戦慄している霧島レイに地藤は語る。
「もうお忘れになっているかもしれませんが、これは“契約”なんですよ? 僕だって貴女にやって欲しいことがあるから、こうやって条件を提示しているんです」
「私に、やって欲しいこと……?」
自分のことでいっぱいいっぱいだった霧島レイだが、提示された地藤からの条件を思い出した。
「……そういえば、お前の望みはお前に従うこと、そして仲間たちに手を出さないことだったか」
「えぇ。あっ、もう一つ付け加えてもらっていいですか? 絶対に僕たちのことを教会に通報しないでください」
地藤の表情は真剣であり――そして、そこには微かに焦燥感のようなものが見られた。
それもそのはず。
霧島レイは教会所属のエクソシストである。
教会といえばエクソシストの中で最大派閥を誇る巨大組織であり、圧倒的な戦闘力を保持している。
如何に地藤の仲間たちが強力とはいえ、教会に通報されて上位のエクソシストたちに大軍で攻め入られれば流石に成すすべはないだろう。
「……なるほど。お前は何としても私の口を封じたいわけだ」
「えぇ。僕も含め、うちの仲間たちは皆、愉快な事情を抱えていますから……」
悪魔と契約した人間を見逃すばかりか、恋人関係を続けるエクソシスト。
四騎士が一人、死王女をその身に宿したホムンクルスの少女。
そして、世界をひっくり返す潜在能力を秘めた最強のエクソシスト候補。
――自分の仲間にこういうのもなんだが、「ヤベェ奴らだな」と地藤は改めて思った。
こんな癖強&激ヤバな連中のことが万が一にでも教会にバレたとしたら……それこそ、“戦争”になるに違いない。
不要な争いを何としても避けたい地藤からすれば、霧島レイの口は何としても塞ぎたいのだ。
それこそ、殺してでも――
「随分と、仲間が大事なのだな」
「えぇ、大事ですよ」
迷う素振りすら見せず地藤は即答した。
最も、彼が本当の意味で大事にしているのは一人の少女だけなのだが。
「やはり、おかしな奴だな、お前は。悪魔と契約するような人でなしでありながら、友を大事にするとは……」
「悪魔と契約する人間が皆、悪人と言うわけではありませんよ。やむを得ない事情を抱えた人だっています」
「フッ、それもそうか……」
別に己のことを“善人”などと勘違いしたわけではないが、それでも霧島レイは地藤の語り口に共感していた。
悪魔は狡猾で、人が苦しんでいるところに手を差し伸べることをよく知っていたから。
「……もう一つの条件として、今の契約を破棄することとあったな。だが、悪いが――」
「えぇ、もちろん知っていますよ。契約は重複することはなく、先に結ばれた契約の効果が遵守されるんですよね?」
「そうだ。だからこそ、仮にお前と契約を結んだとしても、自動的に今の契約が破棄されるわけではない」
「だけど、契約を破棄するように努力することは出来ますよね?」
「というと……?」
「要するに、今の契約を破棄せざるを得ないような状況にすればいいということです」
「?」
「まぁ、そこら辺のことはこちらで考えていますから、先輩は僕に従ってもらえばそれで構いません。それよりも大事なのは先輩がどちらを選ぶか、です」
「……」
霧島レイは静かに目を閉じた。
その瞬間、脳裏に思い浮かぶ幼い少年の笑顔。
失われたその笑顔が取り戻せるのであれば。
人道に、世界のルールに反したこの願いが叶うのであれば、何でもすると誓った。
文字通り、全てを捧げると決意していた。
だが、それでも――霧島レイの心は悲鳴を上げ続けていたのだ。
己の願望の為に多くの人々を犠牲にしなければならないことに。
しかし、彼女は顔を上げて地藤を見つめる。
その瞳に浮かぶのは、縋るような希望の光。
「吸血鬼の端くれとして分かる。お前はあの時、確かに生き返った。その力は本物だ。その力さえあれば――」
「先輩の望みを叶えられる、と」
「……今一度尋ねる。お前は、私の弟を蘇らせることが出来るのか?」
「そういえば、僕の能力についてちゃんと説明していませんでしたね」
疑いの目を向けてくる霧島レイに対し、地藤は飄々とした態度で懐から主武装である剣の柄を取り出した。
「僕の能力の名前は“
地藤は柄のスイッチを押し、刀身を出現させた。
「この剣は先輩が言っていたようにエクソシストの武器であり、本来であればエクソシストの霊力がなければこうして刀身を起動させることもできません。だけど――」
「お前はその“
「ご名答。僕が不死なのもおおよそ同じ原理です」
「なるほど。……では、お前が私の弟の死を偽装できる材料を見つければ」
「世界を騙すことが出来るというわけです」
刀身を柄に仕舞い、地藤は微笑んだ。
「さて、僕の力の詳細も説明したわけですし、いよいよ決断の時ですよ、先輩」
「……」
「さぁ、聞かせてください、霧島レイさん。貴女は、どちらを選ぶのです?」
地藤優斗は悠々とした態度で決断を迫る。
霧島レイは目を閉じ、心の奥底に沈む記憶と向き合う。
陽だまりのような笑顔。
血に濡れた赤い夜。
生贄にしなければならない人々の笑顔。
悪辣な悪魔。
死を否定する少年。
世界はいつも不条理で、確たる正解を教えてはくれない。
彼女の願いを叶えると言っている少年だって、嘘つきかもしれない。
――だが、同時に理解していた。
これは、望外のチャンスだということも。
「私は――」
閉じていた目を開く。
霧島レイは地藤優斗の目を真っすぐに見つめ、答えを口にした。
「――お前と契約する」
地藤優斗は唇を吊り上げて笑った。
それは実に、悪魔的な笑みだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます