お手紙食べたい八木沼くん

鈍野世海

第1話

 受験を控えた高校三年生にとって、夏休みとは名ばかりだ。終業式の翌週から、任意を謳いながら大学進学志望者は半ば強制参加の夏期講習がはじまるため、ほとんどの三年生は引き続き登校する羽目になる。

 七月末から八月の頭にかけての十日間。何十人もの同級生にして競争相手が詰め込まれた箱の中で、なんの役に立つのか明確に理解できていない数式や単語をひたすらに叩きこまれていく。進路に対する不安とプレッシャーを抱えながら、運動部の明るい掛け声を遠くに聞きながら、夏のじっとりとした暑さに蒸されながら。三年生フロアに漂う陰鬱さは日ごとに増していくようだった。

 甲斐樹(かいたつき)も例外ではなく、夏期講習三日目の今日は特に散々で、窓の外の青々とした夏晴れとは裏腹に、心はどんより曇天を通り越し雷雨が降り注いでいた。

 今日の講義は午前も午後も苦手な理系科目だった。しかも午後の数学に至っては教師に指名されて数式を述べる羽目になったが、ちっとも正解に辿り着けない。間違えれば間違えるほど頭はこんがらがり、焦燥に駆られ、担当教師からは「お前は本当に受験生なのか」などといったことをそれはもうくどくど言われていた。数学教師においてはかねてから甲斐のことが気に入っていないというものあるが。

 甲斐は高校進学時に髪を明るい金色に染めていた。背丈こそは同世代の男子平均を常に数センチは越しているものの、それ以外はあまりぱっとしない見目をしている自覚がある。少しでも明るく親しみやすい人間だと思われたくて形から入った。

 校則的に染髪は自由なのだが、特に老齢の教師はそれをあまりよく思っておらず、数学教師もそのひとり。よくいびられるし、それは気分がいいものではない。しかもその間、周囲から言葉なく向けられる呆れや同情の空気もとても苦しかった。

 選択科目によって普段とは違う顔ぶれ、違う教室で夏期講習は行われるため、自身のクラスに立ち寄ることなく一日を終える生徒も少なくない。だがこの期間も自クラスの掃除当番制度は有効で、今日は甲斐の班が当番だった。

 放課後、三年四組の教室に向かうと、小賀、渋谷、大井の姿を見つける。甲斐がつるんでいるグループのメンバーであり、偶然にも今は同じ班のメンバーでもあった。彼らは一応掃除道具を手に持っているものの、窓辺の一角に集まり、駄弁っている。

 甲斐はその群れから外れ、ひとりだけ黙々と回転箒を持って床を掃いている男子の方にちらりと目を向けた。

 それから再び小賀を中心とした三人組に視線を戻し、少しの勇気をもって声を掛ければ、案の定。

「あ、甲斐じゃん。お前、数学でやらかしたんだって?」

 小賀がにんまりとした、嫌な笑顔を向けてくる。

 心の雷雨から目を逸らしながら、甲斐も笑顔を作って、頭を掻く。

「いやー、マジで今日苦手な範囲でさ」

「エビ先にすげえ虐められたらしいじゃん?」

「かわいそーに」

 渋谷と大井もにやにやとした愉快そうな笑みを浮かべて乗っかってくる。

「まぁ、もともとエビ先に目つけられてるもんなぁ、甲斐は」

「いやいや俺だけじゃないでしょ?」

「あいつヤだから数学取らなかったもん、俺」

「分かるー、ローガイだかんね」

「お前さぁ、目ぇつけられてるし、出来もしねぇのに、なんで数学取ったの? もしかして……マゾ?」

 小賀が薪をくべ、渋谷と大井がそれに乗っかり囃し立てる。いつも通り。甲斐も調子を合わせてへらへらしつつ「受験対策だっつーの」と正直を答えた。

 三年になってはじめて彼らと同じクラスになり、ひょんなきっかけで縁を持ち、このグループが形成された。

 三年四組は基本的には人畜無害な生徒で構成されており明確なクラスカーストは存在しないが、それでもあえてこのクラスの王をあげるのならば、小賀だろう。彼は声が大きく、容赦がなく、逆らい難い雰囲気を持っていた。

 そんな彼を中心としたグループの居心地がいいかと言われれば答えに窮するが、安全な場所ではあった。このグループ内で嫌われない限り、権力者の傍にいる甲斐のことを誰も攻撃できない。いじめられたり、はぶられたり、孤独になることはない。この程度の弄りは茶飯事、諂うことにも慣れている。心の曇天もかすり傷も大したことではない、大したことではないのだ。

 やがて甲斐を弄ることに飽きた小賀は、今度は愚痴をこぼしはじめた。引退後に部活に顔を出したら後輩が生意気だっただの、親が進路に対して煩いだの、あの教師が気色悪いだの。その声音や言葉遣いはいつも以上に荒い気がする。彼もまた夏期講習の陰鬱に冒されたひとりなのかもしれない。

 甲斐も一応掃除道具を取り出してはきたものの、そのご機嫌取りをしなくてはいけなかった。つまり、五人一組で構成される掃除当番の班の中で、真面目に掃除をしているのはただひとり。八木沼泪(やぎぬまるい)だけだった。

 愚痴に夢中な小賀の目を盗んで、甲斐はたびたび群れの外れに目を向ける。

 八木沼はいつの間にかちりとりも用意して、ひとりでほこりを掃いては回収し、それをゴミ箱に入れる動作を繰り返していた。

 動きに合わせてさらりと揺れる、癖のない純粋な黒髪。多くの生徒がしれっと破る校則通りに第一ボタンだけが開けられた夏服の白シャツは、わずかに汗ばんでいた。

 掃除当番に対する姿勢も、身なりも、今この場にいる誰よりも清く正しい。

 なのに、それを行っているのがひとりであるがゆえに、異質に映る。

 ひとり。この班に限らず、クラスの中でも八木沼はいつもひとりだった。だが、彼の立ち居振る舞いには哀れっぽさはなく、いつだって凛然としている。

 もう何度目か、ちりとりの上の埃をゴミ箱の中へと払い終えた八木沼が腰を上げる。あいかわらずのまっすぐとした背筋に、綺麗な横顔——。

 それをつい、じっと見つめてしまっていたからから。ふとこちらを見た八木沼と視線が絡んでしまった。

 少し長い前髪の向こうで、切れ長の瞳が細む——睨まれる。

 甲斐は咄嗟に目を逸らし、ひそかに深呼吸し、よだつ身の毛を宥めた。

 ——やばい、八木沼さんと、目、合っちゃった……。

 甲斐は彼のことを心の中で八木沼さんと呼んでいた。理由は、怖いから。

 彼の少し長い黒髪の下でちらつく三白眼気味の瞳。それが鋭く細められたときの、透徹とした漆黒の黒目に捉えられると、いやおうなく心臓がきゅっと縮まる。美人の真顔は怖い、と言うのに近いかもしれない。話題に上がらないのが不思議なくらいに、多少前髪が長くても分かるほどに、八木沼は端正な顔立ちをしていて、それは彼の睨みに非常に迫力を齎していた。そして、恐怖と同時にいたたまれなさも覚える。自分の浅ましさや汚い部分すべてを見透かされている気分になる。

 不思議なのは、八木沼は目が合った相手を誰彼構わず睨みつける性質ではないらしいのに、甲斐だけは目が合うと毎回必ず睨まれること。今の状況であれば「ちゃんと掃除をしろ」という意かもしれないけれど。

 八木沼とも三年ではじめて同じクラスになったが、かかわりはほとんどない。選択科目の国語表現で隣席だから、事務的な会話を数回交わした程度。というか、甲斐に限らず八木沼がクラスの誰かと積極的にコミュニケーションをとっているところを見たことはない。八木沼はいつだってひとりで、休み時間には机に突っ伏している。

 ——嫌われるようなこと、した覚えはないんだけどなぁ……。

 人に嫌われるというのは、それが例え縁の薄い相手であっても、苦しい。どうして八木沼が自分を睨んでくるのかその真相を知りたいし、謝って済むことなら蟠りを解きたいと思う。だが、あの怖い睨みを前にして直接尋ねる勇気もなかった。

 それに今は、睨むだけで言葉で詰ってくることはない八木沼より、王様の機嫌を取りの方が甲斐にとっては大事だった。八木沼には次の席替えまで我慢してもらうしかない。

 八木沼のことが気になりつつも、小賀の方に再び意識を戻そうとしたとき。教室にひとりの女子が入室してきた。

 くりっとした大きく愛らしい瞳の眦は眉に合わせてわずかに下がっている。ふんわりとした栗色の髪を、水色のリボンでハーフアップに結んでいる。クラスメイトの橘(たちばな)だった。

 甲斐の心臓はどきりとし、全身が淡く熱を持つ。

 小賀も彼女の方を向くと、だらだらと続けていた愚痴を中断させ、わずかに目を見開いた。

「友梨佳(ゆりか)、なに持ってんの」

 面白いおもちゃを見つけた子どものように歪み煌めいたその視線は、橘の手元に注がれている。

 華奢な白い手に握られているのは、一枚の封筒。

「ロッカーに入ってたの」

 わずかに眉を下げた橘が、鈴を転がすような声で応える。

「え、なに、ラブレター?」

「やば、分厚くね?」

 大井と渋谷が怪訝に言ったとき、いつの間にか立ち上がった小賀が橘の手から封筒を抜き取る——あ。

「ちょっと、恭平」

「前にもこんな感じのやばいラブレター受け取ったって言ってなかったっけ?」

「やばいラブレターとは言ってない」

 淡い水色の、シンプルながら上品な封筒。裏返せば太陽のモチーフが浮かぶ薄紫の封蝋が施されている。宛名も、送り主の名前も、記されていない。

「匿名大束ラブレターとか、やばいだろ。やばい、っつーか、キモい」

「返して」と橘が制止の声を上げるも、小賀は容赦なく封蝋に手をかけた。

 中から出てきたのは、十は超えるだろう枚数の便箋。水彩チックな朝顔のイラストが控えめに縁を囲っている。

「……恭平、勝手に見ないでよ」

 橘はため息とともに呆れたように肩を竦める。

 小賀に対してこんにも露骨な態度をとれるのは、幼馴染である彼女だけだろう。

 先の学祭で開催されたミスコンで入賞するほどに優れた見目をしており、勉学の成績もよく、明るく人当たりもいい。このクラスにカーストがあれば、小賀とは異なる方向で彼女は上層に君臨するに違いない。

「なぁ、小賀。中、なんて書いてあんの」

「激やばストーカーポエム」

 小賀が傾けた便箋に、大井と渋谷が身を乗り出す。

「うわ、やば」

「モテる人ってのも大変だね……あれ、前にも受け取ったって言ってなかった?」

 首を傾げる大井に対して、橘より先に小賀が答える。

「三年になってから一か月に一回くらい届くんだと」

「やば。通報案件じゃない?」

「この学校にそんなヤバいやついんの?」

「教師だったりして」

「うわ」

「てかさ……この紙、なんか、いいにおいしね?」

 すんすんと鼻を鳴らす渋谷に「犬かよ」と笑いながら、小賀と大井も便箋を手で煽ったり鼻を寄せたりしてにおいを嗅ごうとする。

「本当だ」

「なんのにおい? これ」

「なんでもいいけどさぁ。きしょい手紙からいいにおいすんの、すげえきしょくね?」

「たしかに」

 三人がけらけらと笑う。甲斐も同調の笑顔を作る。心の中で呟く。

 ——朝顔のにおいだよ。

 正確には、朝顔をイメージして作られた文香。白檀をベースにしたそれは夏の季節の相応しい、さわやかな香りがする。

「捨てた方がいいよ、これ」

「捨てるのは、さすがに」

「そうやって生ぬるい態度取るから、向こうもつけあがるんだって。おい、八木沼」

 唯一真面目に掃除当番をこなし、今まさにゴミ袋の口を縛り上げたばかりの八木沼に、小賀が声を掛ける。

 淡々とした表情でこちらを向いた八木沼は返事はしなかった。だが、小賀はそれをちっとも気にすることなく言葉を続ける。

「これも一緒に捨てておいて」

 小賀は手紙を持った手を伸ばすだけでそこからは動かない。八木沼もこちらを見つめたまま動かない。その様子を見た渋谷がへらりと笑って、小賀の手から手紙を預かると八木沼の方に持っていった。

「ほら。黒ヤギさんにお手紙ですよ。なんつって」

 明らかに余計な一言に、八木沼はぎろりと渋谷を睨む。八木沼の睨みが怖いと感じるのは甲斐だけではないらしく、少し離れた位置からでも渋谷の顔からわずかに血の気が引いたのが見えた。

 だが八木沼は渋谷には何も言わず、視線をまたすぐにこちらの群れに戻した。

「本当に、捨てていいの」

 声量はさほどない、けれどやけに清澄に響く、問いかけ。

 八木沼の視線が、わずかに、甲斐の方に傾いた、気がした。

 それは珍しく睨みではなかったが、まるで捉えたもののすべてを見透かさんばかりに、まっすぐで。

 甲斐の心臓はいつも以上に縮み、跳ねる。口の中がからりと乾いて、震えそうになる指先を叱咤するようにこぶしを作って握りしめる。

「……いいんじゃない? いくらラブレターって言ったって、こんな変な手紙、持ってても怖いでしょ」

 精一杯軽薄な笑顔を作る。声が震えていないか不安になった。「ねぇ、橘さん」と言いかけそうになって、飲み込んだ。万が一にも、彼女に同調されたくなかった。

「そ。だから、一緒に捨てといて」

 小賀はそう言ってひらひらと手を振ると、橘に先までの愚痴を再生しはじめた。手紙を渡し終えた渋谷も早足でこちらの輪に戻ってくると、大井とともにいつもの調子で茶々を入れる——おそらく、甲斐の態度はおかしいと捉えられなかったのだろう。甲斐も輪に戻るように、八木沼の方に背を向けた。

「そう」

 八木沼が小さく零したその声は、きっと甲斐以外の誰の耳にも届いていなかった。それから八木沼は少ししてゴミ袋を持って教室を出て行った。

 教室のドアが閉まるのを横目に、渋谷がわざとらしく胸を抱いて身震いをする。

「さっきの八木沼マジ怖かった」

「お前がしょうもないギャグ言うからだろ」

「笑ってくれなくてもいいけど、睨むこともないじゃん?」

「ぼっちの陰キャらしい反応だろ」

 鼻で笑った小賀は「あいつを見てると湿気が増した気分になる」と、手をぱたぱたと振る。大井と渋谷は同調する中で、橘だけが「言いすぎ」と窘めため息を零しながら教室を出て行った。「橘さんはぼっちにもやさしいね」なんて大井が言うと、小賀はふんと鼻を鳴らす。

 甲斐はいつまでも経っても彼らのやりとりに参加できず、間もなくいてもたってもいられなくなった。

「……あ。俺、母さんから買い物頼まれてたの忘れてた」

「えー、この後、カラオケ行こうって話してたじゃん」

「悪い、また今度な」

 へらりと両手を合わせて、急いでリュックを背負い、甲斐は教室を出る。

 階段に出ると、少しだけ早足になる。

 校舎を出ると、さらに駆け足になった。

 周囲に人がいないことを確認しつつ、夏の日に照らされ、息を切らしながら、甲斐は学校の中庭を目指す。冷熱両方の汗がしきり滲んでいた。

 中庭を突き抜け、校舎南棟の陰になっている細い道を少し進んで曲がったところに、プレハブ小屋がある。そこがこの学校のゴミ置き場となっていた。入り組んだところにある小さな空間にぽつねんと設置されているため、基本的にはクラスの掃除当番かゴミ捨てが必要になった部活動の部員くらいしか立ち寄らないため、たいてい人気はない。

 辿り着いた甲斐は乱れた呼吸を押し殺しながら、校舎に背を預け、そっとプレハブ小屋の方を覗き込む。

 ちょうど、プレハブ小屋から八木沼が出てくるところだった。

 ゴミ置き場から校舎に戻るにはこの道しかないから、そのまま八木沼はこちらに向かってくるだろうと思い、甲斐も身を隠すべく踵を返そうと足に力を込めた。

 しかし、なぜか。八木沼はプレハブ小屋の前でふと立ち止まった。

 その手には封筒を持っていた。

 淡い水色の上品な封筒。開封済みの口には太陽のモチーフが浮かぶ薄紫の封蝋。

 ——なんで捨ててないんだ。

 甲斐は困惑しながらも、八木沼の様子をじっと窺う。八木沼はしばらく手紙を見つめていたかと思うと、やがて左右に視線を巡らせ、そっと封を開けた。

 分厚い便箋の束を取り出し、両手で朝顔柄の縁を掴む。視線を落とし、そこに記された文字を目で追っていく。

 ——もしかして、八木沼さんも手紙の内容が気になっていたのか……?

 いくら掃除に専念していたとしても同じ空間にいたのだ、小賀たちの物理的にも声が大きいやりとりは耳に入っていたに違いない。それで八木沼も、橘が受け取った——橘自身は否定していたけれど〝やばいラブレター〟の中身とやらが気になってしまったのだろうか。

 教室で小賀たちがそのラブレターをあげつらっていたとき、甲斐の全身から血の気が引き、冷たく大きな恐怖に包まれていた。だが、今、じっと他人のラブレターを読み進めている八木沼に対しては、恐怖というよりも胃のあたりがもやりとするような不快感を覚えていた。

 それはきっと、落胆だった。

 井ともひとりでいながらも凛然としている、孤高と言う言葉が似合うようなこの人も、その実スキャンダルに関心を燃やすのか。送り主が匿名といえど他人のプライバシーを侵すのか。数学で大恥を晒したときよりも沈んだ気持ちになった甲斐はひそかにため息を零す。

 と。

 びり、と音がした。

 ……びり?

 俯いていた顔を上げて再び八木沼の方を見ると、彼は便箋を小さくちぎっていた。

 桜の花弁ほどの大きさにちぎったそれを八木沼は少しの間じっと見つめる。その頬はほんのりと朱に染まっている。

 それから八木沼はわずかに上を向いて、目を閉じて、口を開けた。そしてその口の中に——ちぎった便箋をひらりと落とし入れた。

 ——は。

 甲斐は言葉を失う。

 その間にも八木沼はびり、びりと便箋をちぎっては、ひら、ひらと口の中に入れていく。

 震える睫毛。

 火照る頬。

 やわらかく閉ざされれる桃色の唇に、咀嚼して、飲み込んで、上下する喉仏。

 溜まらずというようにほうっと息を漏らした八木沼の表情は、極上の美食を味わったかのような恍惚に蕩けている。

「は……」

 胸が震えた。

 甲斐の唇から無意識に熱っぽい吐息が、低く掠れた声が漏れてしまう。

 瞬間、ぎゅんと音が聞こえそうなほどの速度で八木沼の顔がこちらを向いた。

 ——まずい。

 思うのに、八木沼はその場からうまく逃げることができなかった——腰が、抜けていた。

 ずかずかと八木沼はこちらに歩いてくる。後退った甲斐の足はもつれ、尻餅をつく。痛みに呻きながら顔を上げたときにはすでに八木沼がすぐそこに立っていて、深い影を纏った真顔で甲斐を見下ろしていた。

「見たな」

 今時どんな悪役も言わなさそうな言葉だと思った。現実逃避だ。さっき見た恍惚は夢だったのかと疑うほどに恐ろしく厳めしい表情が、鋭くなった眼差しがそこにはあった。視線だけで人を射殺せてしまいそうだ。

「え、っと」

「見たな」

「な、なにをでしょうか……」

 なけなしの誤魔化しに、八木沼の表情は微動だにしない。

「今見たこと、すべて忘れろ」

「忘れろって」

「忘れろ。いいな」

 情けなく尻餅をつく甲斐の足の間に、八木沼がどすんと足を踏み下ろした。

「さっきのこと、もし少しでも他人に話してみろ——橘にこの手紙の送り主がお前だってこと、ばらすからな」

 目を見開く甲斐に、その脅しの効果を確信したのか。八木沼はわずかに眉を顰めながらもふんと鼻を鳴らすと、甲斐の胸に手紙を押し付けると横を通り抜け、颯爽とその場から去っていた。

 遠ざかる背が見えなくなってしばらくして、甲斐の腰はようやく復活した。尻についた土を払うことも忘れながら、手元のところどころちぎられた手紙を呆然と見る。

 ——なんで。

 八木沼はこの手紙を食べていたのだろう。

 匿名であるこの手紙の作成者が甲斐であることを知っているのだろう。

 疑問が湧いて止まらないが……前者においては先の八木沼の態度から明らかに踏み込んではいけない地雷であることは明白だった。いつもの睨みどころじゃない厳めしさと鋭さをもって、露骨に脅す八木沼は怖かった——怖かった、けれど。

「忘れるのは、無理だろ……」

 ほんの少し瞼を閉じるだけ、先の光景が再生される。まるで糊でぴっとりと固定されたみたいに、便箋をちぎり食べる八木沼の姿が甲斐の脳裏に貼りついて離れない。

 帰宅して夜になっても、翌日になっても、講習中さえも。

 ふとした瞬間に思い出しては、妙に頬が熱くなったり心悸が乱れて仕方がなかった。

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