『刃渡り三インチ半の三行半』解決編

 消化の良い流動食をいくらか食べたところで、デヴィッド・マーティンの顔色も少し良くなってきたようだ。医者と看護婦が揃ってつきっきりになる必要もなくなり、ユリエも一息つけるようになった。


 だが、彼女の傍には常にトワレがいる。ユリエが何か一つでも怪しい動きをすれば、その場で捕まえる勢いだ。


「デヴィッドさまのご容態はいかがですか?」


「そうね……回復魔術による急性栄養失調、頭部強打による意識混濁──芳しくはないわ。このまま目覚めてくれるとありがたいのだけれど。

 それと傷口は極めて鋭く薄い刃物で刺されているようね。そういうもので刺すと、傷口が癒着しちゃうことがあるの」


「傷口については同意です。うちの格闘教官もそう仰ってましたわ。──このまま目覚めていただけたら、彼の証言で事件は解決ですのに」


「事件? 彼と何の関係があるのかしら」


「うふふ、そうですわね?」


 トワレは下から覗き込むようにユリエの顔を見上げた。見目秀麗な二人がにこやかに笑い合っている様はよく絵になろう。しかし、両者の目の間には激しい火花が散っているのだ。


「昨夜は確か、大雨が降りましたわね。そこで一つどうしても妙に思ったのですが──」


「何かしら」


「ユリエさまのお部屋には、雨の跡がございませんでしたね? 泥棒は雨に濡れているはずですのに、それがやけに引っかかったものですから」


 ユリエはこの場から離れることができない。デヴィッド・マーティンをつきっきりで看護する必要はないとはいえ、彼のそばで待機しておくように医者に命じられている。トワレがどこかに行かない限り、ユリエに安穏は訪れない。


「……雨が降ってない時に来たのよ。私の部屋に」


「ですがわたくしの相棒は捕物の最中に雨で足を滑らせたのですよ。この意味がお分かりでいらっしゃる?」


「きっと、濡れるのが嫌だったのね。私の家に入る前に、自分の体を乾かしたのよ」


「随分と礼儀正しい強盗でいらっしゃいますのね。普通そんなことしないと思うのだけれど」


「じゃあ、それを証明してくださるかしら。若い探偵さん」


 吐息に笑いを含ませながら、トワレは「困りましたわね。証拠がありませんわ」と言った。


「では、わたくしは相棒の様子を見てきますわ。それではごきげんよう」


 トワレの膝を軽く曲げた礼を、ユリエはただ単に無視した。扉を開けて出て行こうとする彼女の背中に、何か気味の悪いものを感じざるを得ない。


「トワレさん」


「なんですの?」


 トワレはあくまでも微笑みを浮かべている。その若さに似合わぬ、懸命に生きる古木じみた老獪な優雅さすら感じられる微笑みだ。


「あなた、よくチグハグな人って言われない?」


「お褒め言葉として受け取っておきますわ」


「見習いというのも、嘘なんでしょう」


「実はわたくし、警部補ですのよ」


 その即答が、真か嘘か。ユリエに知る術はない。「では、改めてごきげんよう」とトワレの背中がドアの向こうに消えるその直前、ユリエは「少しお待ちになって」と彼女を呼び止める。


「デヴィッドさんの看護は他のナースに任せるわ。私もあなたの相棒と少しお話がしたくって」


「構いませんわ。ではご一緒しましょう」


 デヴィッドの病室から少し歩けば、浪助の205号室だ。トワレは「入りますわよ」と言って扉を開け、病床の脇に立つ。布団を首のあたりまで被っている浪助は、先ほどまでと一転して安らかな寝顔を浮かべている。


「見てくださいまし。結構可愛いでしょう、彼」


「……東洋の人の顔はわからないわ。彼の名前はなんと言いましたっけ。カザミドリ・ツナミ?」


「カスミ・ナミスケですわ。彼の名前が発音しにくいという点においては、わたくしも同意します」


 人の気配に気づいたのか、浪助はカッと目を見開いた。彼はトワレの腕を強く握り、「お嬢……」と呟く。


「どうしたの、ナミスケくん。体は大丈夫?」


「それがしは、大丈夫……にござる。だが、あの──ニン、ジャ……!」


「ニンジャ?」


 ニンジャ──ユリエにその東洋の言葉が理解できるはずもなかった。


「ニンジャ!」


 浪助はそう叫びながら、布団の中から身を翻す。その少年は黒く平たい布地の着物を身に纏っている。


「トワレさん、ニンジャって実在するのかしら[訳註8]」


「目の前におりますでしょう。いつもこんな変な服を着ていて、ここじゃしのぶにも潜むにも一苦労しそうなものなのですが、案外そうでもないらしくって」


「ニンジャ……これが」


 病み上がりながら、凄まじい身体能力を感じさせる。一気に動いたことが祟ったのか、浪助は気を失って倒れていく。その体をトワレが支えた。彼女は再び眠りに落ちた浪助をベッドに乗せる。


「見るのは初めてですか?」


「ええ、一度見たら忘れないでしょ? こんな変な服を着てたら」


 夕刻、鮮やかな赤の日差しが、窓の外の霧を赤く照らしていた。トワレは腕時計を見た。現在時刻は午後五時半、再び休憩を取るにはちょうどいいくらいの時間だ。


「ユリエさま、夕食をご一緒しませんこと?」


「いえ、少し一人になりたいわ」


 さすがにに鬱陶しくなってきたのだろう、とトワレは彼女の内心を推察する。ここで粘着し続けても仕方がなかろう。彼女はユリエから少し離れて、扉の前に立った。


「では、この近くで美味しいところを教えてくださる?」


「近くに安くて美味しいパブがあるわ」


「あら、ではそちらに伺ってみますわ。それではごきげんよう」


「はい、ごきげんよう」


 ユリエの投げやりな返事を待って、彼女は浪助の病室を後にした。




[訳註8]: ニンジャって実在するのかしら

作中の時代において、軍人あるいは警官など一部の公職についている者以外は、忍者を物語上の存在だと認識している。なお、現代においてもリクランド人のうちおよそ30%は忍者の実在を信じていない。




 ユリエがひとり食堂でパンとスープをつまんでいると、トワレが息を切らして駆け寄ってきた。席のそばで大きく深呼吸したあと、トワレは「デヴィッド・マーティンさまが目を覚ましました」と言った。


 思わず音を立てて立ち上がってしまう。ユリエのそばに座っていた病院の職員が、怪訝そうな視線を彼女に向けた。


「どうされましたか? そんなにお慌てになって。顔色もそれほど良くないようですわね。この件が終わったらお医者さんにかかった方がよろしいのでなくって?」


「もう十分よ。トワレさん。デヴィッドの確認は私ひとりでやるわ。あなたはもう帰ってちょうだい」


「しかしですね、わたくしは困ったことに刑事見習いでして、この件を完璧に調査してレポートを上げるまで帰ってくるなと仰せつかっております。

 このまま帰れないと病院を彷徨う幽霊になってしまうかもしれませんわね。もしかしたら、デヴィッドさまが何か重要な証言をしてくださるかも」


 トワレがまだ喋り終わらないうちに、ユリエは食器を片付けてデヴィッドの病室へ向けて歩き出す。すでに仮面が剥がされているのも構わないと言わんばかりに彼女は大股に歩いていた。

 歩幅が相当に違うはずのトワレは、しかし息一つ切らさずに彼女の横を歩き続けている。


 ややあって、二人は担架を引いている医者と看護婦の集団とすれ違う。トワレは「きっとこれですわ」とユリエの袖を引っ張って、その一団に加わった。

 小柄なトワレは白服の間をすり抜けて、その担架の頭の方まで向かう。そうして彼女は少し布団をずらした。


 現れたのは中年のリクランド人ではなく、小柄な黒装束の東洋人であった。その少年は相変わらず「ニンジャを……捕えろ……!」とうめいている。


 ユリエの全身から力が抜けて、まるで一息に数年分老いたかのような疲労が彼女を襲った。


「あら、早とちりしちゃいましたわ」


「……もしかしてわざとやってらっしゃる?」


「とんでもございませんわ」


 ユリエは自分の腹の底で、苛立ちの釜が沸々と煮えてきていることに気づいた。この少女に振り回されてはいけない。会話の主導権を握らねばならない。

 そう思えば思うほど、ユリエの思考は終わらぬ螺旋の中に沈んでいく。


「デヴィッドさまの病室は、こっちだったかしら?」


「いえ、逆よ」


「あらまたですわね。わたくしったら、いけませんわ」


 あまりにもわざとらしい遅延行為だった。今すぐ杖を抜いてトワレに開心術をかけてやりたかった。

 だが、トワレには一片の隙さえも見当たらない。この少女は何者だ。苛立ちの炎は鎮まり、むしろ汚泥じみた薄気味悪さが心の中に広がり始める。


「ここですわね、病室は」


 ユリエは部屋番号と名札を三度確認した。それらが両方とも正しいとわかっていても、彼女はそうせざるを得なかった。二人は病室に入る。


 デヴィッドは寝ているようであった。顔にも血の気がかなり戻り、死に抗うような劇しい眠りではなく、彼は安らかに寝息を立てている。

 ベッドサイドの小机にはバインダーでまとめられたカルテが置かれていた。誰かが忘れ物でもしたのだろうか。


「起こすのも悪いですわね」


「出ましょう。この部屋から」


「いえ、せっかくですからいくつか確認をしておきましょう」


 トワレはあくまでも小声でそう言った。


「こちらから順を追って説明しますわ。わたくしは生憎高熱を出して寝込んでおりましたが、浪助が昨日の捕物に参加していますわ」


「それは聞いたわ。それがどうかしたのかしら」


「昨日の捕物──レヂオでは強盗というふうに報道をしましたが、そんなチンケなものではありませんでしたの」


「それは初耳ね」


 圧した声では、震えを抑えられない。トワレがそれに気づかないことを祈るしかない──ユリエはせめて表情だけでも平静を保とうとする。


「詳しくは言えませんが、忍者たるカスミ・ナミスケの身体能力を以ても追いつけず、あまつさえ反撃を喰らうような相手でした。

 思い返してくださいまし。病み上がりであっても、ナミスケくんは身を翻して見せましたのよ」


「あれは少しびっくりしたわ。でも、それとこれがどう関係するのかがわからないわね」


「まだお分かりになりませんか? 昨日何を追っていたかは、ナミスケくんがあなたと最初にお会いした時に、すでに言っていたのです」


 ニンジャ──昨夜の霞浪助は、他の忍者を追っていたのだ。リクランド帝国の臣民の大半とって、忍者は絵物語の中の存在だ。


 もし実在したとしても、それがニュートロイにいるわけなどない。大多数の市民と同じくユリエも等しく抱いていた先入観が、大口を開けて牙を剥いている。


「いくら暗いとはいえど、流石に忍者の格好までは見落としませんわ」


「貴女、最初から私のことを疑っていたわけね……」


「もちろんですわ。プロですもの。今嘘をつくのも無駄ですわよ。まずは貴女を詐欺罪の容疑で逮捕します。取り調べている最中にその証拠と一緒に、貴女の嘘を暴きます」


 もはやこれまでだ。ユリエは己に対する失望をため息に混ぜて吐き出し、懐から杖を取り出した。


 獄中でむざむざ死ぬくらいなら、今誇り高き死を選んでやろう。彼女は杖先を自分の首に突きつけた。


 だが、それだけだった。


 部屋の中の影が蠢き、ベッドで眠っているデヴィッドにまとわりつく。一瞬のちにそれは確たる姿をとる。例の黒装束の少年であった。


 彼はユリエに掌底を当てて杖を吹き飛ばす。その衝撃に体を曲げた彼女を地面に押し倒し、素早く手足に縄をかける。


「ニンポ・ミ・ガワリ・ノ・ジツ……骨折くらいなら忍者は一晩眠れば回復するのでござる」


 耳元で囁かれた異国語の響きに、ユリエは身を震わせた。彼女が倒れた衝撃で、机の上に置いてあったカルテが床に落ちる。

 かろうじて見えたその表面は、「忍」という謎めいた文字で埋め尽くされていた。


「詳しくは署で伺いますわ。わたくしも個人的にお聞きしたいことがありますの」


「……それなら今、一つだけ教えてちょうだい──貴女……何者なの?」


 彼女はユリエの眼前で屈み、左拳を地面につけた。そうして見えた親指には、いつの間にか〈盾を貫く束ねた矢〉の紋章が入った、いぶし銀の指輪が嵌められていた。


「そう、オンテンバール公の。それなら本当に、私の負けね──」


 すっかり日が落ちてしまった今、病室の窓は、帝都の真の姿を覆い隠す霧の黒一色に染まっていた。

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