本放送4話『刃渡り3インチ半の三行半』

『刃渡り三インチ半の三行半』事件編

 レコードの溝に眠るジャズの調べを、無骨な鉄針が呼び起こし、薄暗い居間にやわらかな音が広がる。部屋の端にある一人用のカウチに半ば寝そべるように、ユリエ・プルトニーは一人ウイスキーを舐めていた。

 銘柄は〈トサント18年〉──麦のみならず、原料に米も含まれているという、柑橘のようなさわやかさと黒糖の重厚さを両立させたものだ。


 グラスをゆっくりと傾けながら、彼女は婚約者の帰宅を待っていた。秋も深まりつつあり、夜はよく冷える。

 そんな時こそ、酒精の濃い蒸留酒が体を温めてくれる。ふと思い立ち、彼女はマグレヂオ[訳註1]を起動した。体から少しだけ魔力が吸われ、ノイズとともに男の声が聞こえる。


[──トロイ公共放送、夕方五時のニュースです。まずは速報からお知らせいたします。帝都市警からの発表によると、ブルボン区オールド・クロウ通りにおいて強盗が発生し、容疑者は現在も逃走を続けている模様です。なお、容疑者は頭部から出血しており──]


 物騒な話もあるものだ。ブルボン区といえば彼女の居るアパートメントがある地区であり、オールド・クロウ通りもたった二ブロック先だ。

 ユリエはカウチに戻り、杖を取り出して軽く振った。湿度の高い空気から水分が凝縮し、氷となってロックグラスに落ちる。


「トサント18年をロックか。いい趣味だね」


「きゃっ──」


「驚かせてごめんよ、ユリエ」


「ポールさん……」


 舶来生地のスーツを着た男が、彼女の眼前に立っていた。薄暗い居間の中でも、彼の身なりの良さは際立っている。

 男の体に隠された曲線を奥ゆかしく際立たせるような着こなしは、彼の若年にそぐわぬ色気を醸し出している。

 袖口からは螺鈿のカフスが顔を覗かせていて、一見地味な藍色のネクタイはその実六色の絹糸で織られているものだ。


「それ、一口もらっていい?」


「ええ、どうぞ。もちろん」


「氷を入れると、18年ものの重さがスッと消えて口当たりが軽くなる──俺は好きだ」


 ポール・マーティンは、ユリエの婚約者である。彼はロックグラスを傾けて一口飲むと、満足げに頷く。


「ポールさん、今回はどこへ行っていたの?」


「フルムバーグでネジの買い付けさ。二月後には新開発されたっていう蒸留機を見にアカディアまで行く」


「大変ね。二人の時間が少なくて、わたし悲しいわ。寂しくって──」


「今夜だけはそんな思いさせないさ。それにユリエ、わかってくれ。これは──」


 ユリエは手を思いっきり伸ばして、ポールの唇に人差し指を当てた。彼は「お」と驚きの声を上げつつ、その細い指に口付けを落とす。


「ガリアで起きた市民革命に続いて、ここリクランドで起こっているのは産業の革命──今は科学の夜明けなんでしょ? そしてアナタは世界を繋ぐ、優秀な営業マン」


「その通り、君は僕のことをよくわかっている」


「だって、何度も言われたもの。その可愛いお口から」


 二人の唇が軽く触れ合った。暗闇のせいか、ポールのブラウン・アイがやけに輝いているように見える。頬が赤く染まっているのは、きっと強い酒のせいだ。


「君こそ、病院の仕事はどうなんだい」


「季節の変わり目だから、最近患者が多くってね。今日はようやく取れた休みなのよ」


「お互いさまだな」


 アップテンポなジャズに、窓を叩く雨粒の音が混じる。ニュートロイの秋は気まぐれだ。空の底まで見通せそうなほどに晴れたかと思いきや、次の瞬間には大雨が降っていたりする。


 それ以外には、二人の心音しか聞こえなかった。


 騒々しさの中に残る静けさ──東洋におけるゼンとはこのようなものを言うのであろうか。

 ユリエはポールを抱きしめながら、カウチに優しくもたれかかった。火照った体が重なって、下着の内側が汗ばみつつある。


「ねえ──」


 耳元で囁きながら、ポールの首筋を撫でる。彼女の腕の中でやや筋肉質な肉体が少し震えた。


「私の、両親のことなんだけど……」


「ついに会わせてくれるのかい」


「ううん。まだ具合が悪くって……入院代が嵩むものだから」


 ポールの体を支配していた熱がすっと冷え、彼はユリエから離れた。やや乱れたジャケットを整い直し、新しいロックグラスにウイスキーを注ぐ。


「……お金かい」


「そうよ。毎回借りるのもよくないから、今度はまとめて借りたいの。一年分の、150ポンド[訳註2]を」


「借用書は──」


「もちろん作るし、今回ももちろん返すわ。利子はちょっと──勘弁してほしいのだけれど」


 酒精が作る偽りの熱さとともに、ポールはウイスキーを飲み下した。彼の頭の中で、わずかな違和感が走る。


「……君のご両親は確か、ハイランド病院に入院していたな?」


「ええ、そうよ」


「そこなら馴染みだ。医者に状況を聞いてもいいか」


「えっと」


 ポールは蓄音機とマグレヂオを停めた。厭な静けさの中、ただ雨音だけが自然のリズムを奏でている。


「両親ともに面会謝絶で──」


「心配ない。馴染みと言ったろ? あそこの病院の医療機器は、全部僕が営業したものだ。それとも、何か隠したいことでもあるのか」


 頭の中で芽生えた違和感は成長し、やがて懐疑の花を咲かせる。それが言葉として結実する前に、彼の後頭部を衝撃が襲った。それは一輪のバラが刺さった花瓶だった。白い陶器の破片とともに、ポールは木張りの床に倒れ伏せた。


「ユリエ……どうして──」


「勘弁してくれれば、それで良かったのに」


「そういう、ことか」


 確信めいたつぶやきとともに、ポールの意識は薄暗がりに溶け去った。後頭部から流れ出る血が床に染み込まぬうちに、ユリエは服を剥ぎ取った死体を巨大な旅行カバンに詰め込んだ。そしてすぐ脇のテーブルに置いてある電話をとり、ダイヤルを回す。


「もしもしィ? デヴィッド君? 大変なことになったの──」




[訳註1]: マグレヂオ

リクランド連邦帝国において普及している、魔電混合式の「ラジオ」。単に「レヂオ」と呼ばれることもある。当時は国営の二局のみが存在しており、即時性の高いニュースや天気予報、時にエンターテインメント番組を放送している。

[訳註2]: ポンド

簡単のため、読者諸氏が馴染み深く、さらに作中の雰囲気に合う単位を使用して訳出した。




 微睡を切り裂くベルの音で、デヴィッド・マーティンは飛び起きた。机の上に転がっているガラスの実験器具や歯車を落とさぬように気をつけながら、彼は半ば転がるように壁際へ駆け寄り、受話器を耳に当てる。


[もしもしィ? デヴィッド君? 大変なことになったの]


「な、何があったんですか!」


 その艶めいた熱っぽい声に、デヴィッドは否応なく覚醒していく。壁の時計を見ると、ちょうど日付が変わった頃だとわかる。


[その、部屋に強盗が入ってきて……]


「強盗が!? ユリエさんは大丈夫だったんですか!」


[わたしは大丈夫。でも強盗が……花瓶ぶつけたら死んじゃって。とにかく来て欲しいの]


「わっ、わかりました! 今すぐ行きます!」


 通話機を置くや否や、デヴィッドはナイトガウンを脱ぎ捨てて、その辺に放ってあったジャケットとズボンを掴んだ。

 最近丸くなってきた体を少しでも誤魔化そうと、彼は腰のベルトを強く締める。やや息苦しさを感じ始めたところで、

 彼は半ば飛び出るようにして外へと向かった。雨の匂いがまとわりつく中、彼は懸命に走った。


 デヴィッドの研究室兼自宅から、ユリエとポールの自宅まで、走って15分というところだろうか。

 息を切らしたデヴィッドを迎え入れたのは、文句ありげにむくれ顔を浮かべているユリエだった。


 彼女の白い肌は、誰が見てもわかるくらいに紅潮している。ふらついたユリエを支えようと近づいたデヴィッドは、饐えたアルコールの香りに咽せそうになった。


「ああ、酒はねえ、正気じゃやってらんないからぁ」


「それどころじゃないですよユリエさん、大丈夫なんですか」


「だからわたしは大丈夫なんだってぇ。わかってるでしょ? 元気に酔っ払ってんだから! ハッハッハ!」


 様子がおかしい。彼女は異常に興奮している。戸惑うデヴィッドの袖を、ユリエは小さく摘んだ。それに導かれるまま、二人は部屋の中へ入っていく。


 暗色かつ現代風の角張った内装で調えられたその部屋の中心には、小さく血痕が散っていた。


「これって、どういうことなんですか」


「だからぁ、言ったでしょぉ? 強盗殺しちゃったのよ。死体はそん中」


「ええっ! まずいじゃないですか! 早く警察に言わないと」


 ふふ、と彼女は小さく笑ったまま、一気に体の力を抜いて、カウチに座り込んだ。


 そのだらんと垂れた頭が再び上げられる──先ほどまで酔っていたのがまるで嘘みたいな鋭い視線に、デヴィッドは固唾を飲んだ。


「そんなことできないじゃない? だってこれ殺人なのよ?」


「そ、それもそうですね。じゃあ──埋めるかしないと」


「手伝ってくれるかしら」


「……わかりましたよ! やればいいんでしょ!」


 心を決めた後は、意外と楽になる。デヴィッドは飛び回っている心臓を落ち着かせようと、腹から息を吸って、吐いた。楽になれば、状況がわかる。


「それ、兄さんの服ですよね」


「ええそうよ」


「兄さんどこに行ったんですか」


「すごい熱出しちゃって、病院に。季節の変わり目かしら」


「そんなことって──」


「ねえ、ポールさんは再来月からアカディアに行かなきゃいけないの」


「アカディア!? それなら船は今夜[訳註3]じゃないですか!」


「だからあなたが代わりに行ってくれって、あのひとが。だって、そっくりだもの」


 はい、と半ば押し付けられるように、デヴィッドは兄の服を受け取った。そのまま背中を押されて浴室へ追い立てられる。二進も三進も行かない。ならば腹を決めるしかない。彼はキツく締めたベルトを解いて、一息ついた。



 一人になったリビングで、ユリエは厨房から肉を削ぐための薄く鋭いナイフを手に取り、それを服の裏に隠し持った。



[訳註3]: 船は今夜

リクランド連邦帝国からアトラル海を挟んだはるか向こう、新大陸にて興った移民の国家・アカディア連合までの航海は、当時においてはちょうど二ヶ月とされていた。




 肩幅はちょうどいいが、腰回りがきつい。間違ってもボタンを弾けさせたりしないように、デヴィッドはやはりベルトをキツく締めた。

 やや窮屈であるが、様にはなっているだろう。浴室から出た彼は、ユリエの満足そうな笑顔に迎えられた。夜用のドレスに着替えた彼女の周りには、無造作に脱ぎ捨てられた服が転がっている。


「似合ってるじゃないの」


「あ、ありがとうございます……」


「じゃ、荷物はこれね」


 死体の詰まったトランク、日用品を入れている中くらいの旅行鞄、仕事道具の詰まっている手提げ鞄。念力術と両手を駆使しながら、デヴィッドは三つの鞄を巧みに運んでいく。


 昼の喧騒と轟音がまるで嘘だったかのように、夜のニュートロイは静まっている。煤煙を吐き出す工場は死んだかのように眠っているし、路上にも人はいない。そんな中、辛うじて捕まえた馬車に乗り、二人は港へと向かった。


「毎回見ても立派なものですね。大きい川が丸ごと港になってるなんて」


「ポールさんが言うには、このネイド川こそがリクランドの大動脈だそうよ」


 港とはネイド川そのものだ。全てが止まっているニュートロイの中で、この川だけが動いているかのようであった。

 荷物を運ぶギャング[訳註4]たちに混じりながら、どこかへ旅立とうとしている様子の紳士淑女がゆっくりと歩いている。


「チケットは小さい鞄に入ってるわ。商談頑張ってね、ポールさん」


「えっ、ああ……頑張る、よ」


 緊張しているデヴィッドの心をほぐすために、ユリエは軽く笑いかけた。そして彼の耳元に口を寄せ、「外海に出たら、死体のトランクは捨ててちょうだい」と囁く。


 近づいたまま、彼女はナイフの柄を強く握りしめ、デヴィッドの腰を深々と刺した。それは即座の出血に繋がることはない。彼はベルトをきつく締めており、それで圧迫されているからだ。

 だが、医学の知識があるユリエは、そのナイフが彼の腹部大動脈を傷つけたことを知っている。


「じゃあ、行ってらっしゃい」


「ああ、行ってきます──」


 極細のナイフゆえに、ほぼ痛みがない。デヴィッドはせいぜい少し痒みを感じたくらいだろう。掘り起こした土を念力術で元に戻すついでに、刺突で傷ついたデヴィッドのベルトとスラックスに修繕術をかける。


 デヴィッドはユリエに背を向け、そのまま歩き去った。その先には新大陸へ向かう〈エンプレス・エルジェベス〉が静かに浮かんでいた。




[訳註4]: ギャング

元はドイツ語やオランダ語で「通路」を意味する言葉。それがイギリスに伝わり、ヴィクトリア朝においては日雇いの港湾労働者を意味している。




 夜が明ける。昨夜の興奮も冷め切らぬまま、兄の服を着たデヴィッドは、一等船室のベッドに座ったまま、一睡もできなかった自分自身に気づいた。


 寝不足の時は視界が二重になっている。船の発動機の振動も、波の音も、それによる揺れも、まるで遥か遠くから吶々と響いているかのようであった。


 そうだ、トランクを捨てなければならない。デヴィッドは疲れた体に鞭をうち、重いトランクに念力術をかける。


 しかし、それが浮き上がることはなかった。魔力切れか、単純に疲れていて術式を練ることができていないのか。デヴィッドは諦めと共にそのトランクを持ち上げた。


 念力術が中途半端に効いていて、思ったよりも簡単に持ち上がる。舷窓は真っ白に染まっており、霧が出ているものと思われる。


 誰かに見られてはいけない。全ての出入り口で彼は人目の有無を確認しながら、デッキの上に出る。すでに数時間が経過している。

 この船はすでにアトラル海の上を行っているはずだ。霧の向こう、おそらく底の見えぬ黒さであろう海へ向けて、デヴィッドはトランクを投げ捨てる。兄の死体が詰まっているトランクを。



 どっと疲れが襲ってきた。彼は足早に一頭線室に戻る。シャワーでも浴びようとベルトをほどき、服を脱いだ。


 じわり、と腰の後ろから生ぬるい液体が垂れる。おかしい、まだシャワー室に入ってすらいない。


 それは鮮紅の液体であった。鉄臭い液体であった。なぜ、どうして、と考える前に、彼は疲れも相まってその場に倒れ伏せてしまった。


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