第43話 新学期、ネクタイを直してもらう朝
制服のシャツに腕を通すと、まだ新品の生地が肌にひやりと触れた。窓の外、春の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。深呼吸。空気が少しだけ甘い。昨日までよりも確実に、なにかが始まる朝だった。
リビングに降りると、雫がトーストを噛みながらソファに足を投げ出していた。髪はまだ寝癖が残っていて、うなじに柔らかな影が落ちている。テレビの音が低く流れ、バターの香りが漂っている。
「おはよう、兄ちゃん」
「……おはよう」
雫は、俺の制服姿をちらりと見てから、ふっと視線をそらした。トーストの端をちぎる指先が、やけに繊細だ。俺は冷蔵庫から牛乳を取り、グラスを満たす。グラスの縁に唇を当てた瞬間、雫が立ち上がった。
「ネクタイ、曲がってる」
「いいよ、自分でやるから」
「だめ。新学期だし」
俺の前で雫が立ち止まる。朝の光を浴びて、肌が少しだけ透ける。指先がネクタイの結び目に触れた。冷たくて、細い。喉もとで呼吸が詰まる。
「動かないで」
雫の吐息が近い。手の甲が俺の胸にかすかに当たった。そのまま、雫の顔が俺の顎の下に近づく。シャンプーの香りが、ふわりと鼻先をかすめた。
……。
雫の指が、結び目をゆっくり直す。見上げてくる瞳と、視線が交錯した。ネクタイの端を引かれ、体がわずかに前に引き寄せられる。心臓の音が、喉の奥を打つ。
「……はい、できた」
雫が手を離したあとも、ネクタイの感触だけがしばらく残った。俺は言葉を探したが、何も出てこない。
「兄ちゃん、今日はがんばって」
雫が一歩だけ下がり、唇の端に小さな笑みを浮かべる。俺は、なぜか返事が遅れた。
「……ああ」
その声が、やけに低く響いた。
◇
玄関を出ると、春の風が頬をなでた。自転車のペダルを踏みながら、背中を伸ばす。途中、莉音の家の前で足を止めると、玄関口で莉音がスニーカーの紐を結んでいた。スカートの裾から素足が覗いている。
「陽翔、おっそーい!」
「いや、まだ集合時間前」
莉音はリップクリームの香りをまとい、俺の前に立つ。朝の光で髪が揺れる。
「ねえ、今日ネクタイ似合ってるじゃん。雫ちゃん?」
「バレてる」
「そりゃあね」
莉音が俺の胸元を指で軽くつまむ。爪の先がシャツ越しに触れて、背中に微かな電流が走る。莉音はそのまま、俺の顔を見上げる。目が合った瞬間、息を呑んだ。
「新学期、なんか緊張するね」
「お前には似合わない」
「ひどーい」
莉音が肩で笑う。指を離すと、ほんの一瞬だけシャツの皺が伸びていた。
「行こ!」
莉音が自転車のハンドルを掴み、俺の手の甲に指を重ねる。距離が近い。俺は、莉音の横顔を盗み見る。
……。
春の風が二人の間を通り抜けていった。
◇
校門の前には、真雪が立っていた。新しい風紀委員の腕章。制服の袖をきちりと整え、無駄のない所作で周囲を見渡している。その隣には、見慣れない小柄な女子――後輩のほのかが、緊張した面持ちで立っていた。
「おはようございます、天野先輩」
ほのかが、少しだけ声を震わせて挨拶する。俺は会釈で返し、莉音が「かわいい」と小さく耳打ちした。
「ほのか、緊張してる?」
「……はい」
ほのかがぎゅっと制服のスカートを握る。指先が白くなっていた。真雪がその肩に手を置く。
「大丈夫、天野は怖くない」
「委員長、それ褒めてる?」
「まあ」
真雪が目を細め、ほんの小さく笑う。ほのかの肩越しに、俺と視線が重なる。何も言わぬまま、真雪の視線が胸元のネクタイに留まった。
「……曲がってない」
「雫が直した」
「ふーん」
その返しに、ほのかがきょとんとする。莉音が俺の腕に絡むように寄ってくる。その柔らかな体温が、制服越しにじんわり伝わる。
「ねえ、ホームルーム行こ」
莉音が俺の袖を引く。指先が二の腕の内側をかすめた。俺は小さく息を吸い、歩き出す。
◇
教室に入ると、席替えの名残で机の配置が少しだけ変わっていた。窓際の席に鞄を置くと、すぐに凛が隣に現れる。新しいイヤリングが揺れていた。
「おはよ、陽翔。ネクタイ、似合うね」
「凛も、なんか大人っぽい」
「え、うそ、どこが?」
凛が自分の髪を指でくるくるといじる。俺の視線がその指先に引き寄せられる。爪が淡いピンクで、春の花みたいだった。
「今日、午後ヒマ?」
「多分な」
「そっか。じゃあ、またあとで」
凛が微笑む。その視線がほんの一瞬、俺の手元に落ちる。何かを言いかけて、やめた。
……。
チャイムの音が、春の静けさを切り裂いた。
◇
放課後。下駄箱で靴を履き替えていると、伊吹先輩が階段の陰から現れた。春でもスポーツバッグを下げていて、額に汗がにじんでいる。
「天野、ネクタイ、似合ってるじゃん。大人っぽくなった?」
「雫が直しました」
「へえ、妹ちゃん器用だな」
先輩が俺の肩をぽんと叩く。手のひらが熱い。俺は言葉を探しながら、先輩の汗の匂いに気づく。なんとなく、夏が近づいている気配。
「今日、部活来る?」
「……見学だけ」
「いいじゃん」
先輩が上着を脱ぎながら、俺の腕を軽く引く。袖口が触れ合い、ほんの数秒そのまま離れない。先輩の指先が、俺の手首を包んだ。
「新学期、よろしくな」
「……はい」
先輩が去ったあと、手首に残る熱がしばらく消えなかった。
◇
帰り道、ほのかと偶然すれ違う。制服の襟を直しながら、きょろきょろと周囲を見回している。俺に気づいて駆け寄ってきた。
「あの、天野先輩……」
「どうした?」
「ネクタイ、これで合ってますか?」
ほのかが自分の襟元を指差す。俺はしゃがみこみ、ほのかのネクタイを見つめる。少しだけ結び目が緩い。
「ここ、もう少しこうするといい」
俺が指先でほのかのネクタイを整える。ほのかはじっと動かず、頬がうっすら赤い。指先が彼女の喉もとに触れた。一瞬、呼吸が止まる。ほのかが小さく息を呑んだのが、春の風に紛れて聞こえた。
「……ありがとう、ございます」
「うん」
ほのかが両手でネクタイの結び目をぎゅっと押さえる。その仕草が、やけに幼く見えた。
……。
「また、教えてください」
「……ああ」
◇
夕食後、リビングで雫が膝を抱えてソファにうずくまっている。テレビの音だけが流れていた。俺が隣に座ると、雫が少しだけ体を寄せてきた。肩が触れ合う。雫の体温が、じんわり伝わる。
「兄ちゃん、今日……どうだった?」
「特に何も」
「ふーん」
雫は、俺の胸元のネクタイを指でそっとつまむ。そのまま、離さない。指先が震えていた。
「明日も、直していい?」
「……好きにしろ」
雫が笑う。俺は何も言えなかった。
……。
夜、鏡の前でネクタイをほどく。雫が触れた跡が、なんとなく消えない。春の夜風が、窓の隙間から忍び込んでくる。
この距離が、きっと今だけのものだと――思った。
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