第40話 寮の非常階段、星を見上げた夜

 階段の鉄扉が、静かに閉まる音。夜の校舎は、どこまでも静かだ。寮の非常階段は、外気に近いからか、ひんやりした風が肌をなでていく。金属の手すりに指を添えると、昼間の熱がすっかり消えていた。


 上を見上げれば、寮の屋根越しに、星がぽつぽつと浮かんでいる。あいかわらず、こういう時は呼吸が浅くなる。寮の廊下からこぼれる蛍光灯の光も、ここまで届かない。


 「……兄ちゃん、いた」


 足音と、囁き声。雫が、薄手のカーディガンを羽織って階段に現れる。髪が夜気に揺れて、石鹸の匂いが一瞬だけ流れた。雫の視線が俺にぶつかり、ほんの少しだけ間が生まれる。


 「外、寒くない?」


 「ちょっとだけな」


 雫は俺の隣に座る。鉄の段差が冷たい。俺の肩に、雫の小さな肩がそっと触れた。心臓が跳ねる。雫は何も言わず、星を見上げている。


 「ねえ」


 「ん」


 「今日、眠れないの?」


 「……なんとなく」


 雫はカーディガンの袖をぎゅっと握る。指先が、俺の手の甲の上を一瞬だけかすめた。何か言いかけて、やめたような息遣い。静かな夜に、互いの呼吸だけが重なる。


 「星、きれいだね」


 「……毎日見てるわけじゃないけど」


 雫が小さく笑う。その横顔を、横目で盗み見る。夜の空気に、髪がふわりと揺れる。石鹸の甘い香りと、どこか切ない冷たさが混じりあう。


 「兄ちゃん、今日さ……」


 雫の声が、いつもより低く、少しだけ震えていた。


 「何」


 「ううん、なんでもない」


 そう言いかけて、雫は俺の手の甲に手を重ねる。すぐに離すわけでもなく、二人分の体温が、鉄の冷たさの上でゆっくりと混じる。夜風が、カーディガンの裾を揺らす。


 「……」


 指先を動かせば、雫の手が離れてしまいそうで、何もできない。雫の指が、ほんの少しだけ震えた。俺も、力が入らない。


 「兄ちゃん、こうやって、たまには……外で星見るのもいいね」


 「……そうだな」


 俺の声も、妙に掠れていた。


 ◇


 階段の下から、軽い足音が響く。扉の向こう、莉音の声が微かに滲む。


 「……あれ、陽翔? 雫も?」


 莉音が、ゆるい部屋着にパーカーを羽織って現れる。髪をまとめずに、そのまま肩に落としている。汗とシャンプーが混じった香りが、夜風にまぎれて漂う。


 「なにしてんの、二人でこんなとこで」


 「別に」


 「星、見てただけ」


 莉音は俺の隣、雫の反対側に腰を下ろす。俺を挟んで、両側から体温が伝わる。莉音が膝を抱えて、俺の太ももにふわりと触れる。莉音の膝小僧が温かい。雫の指先は、まだ俺の手の上に残っている。


 「星、きれいだねー。あ、あれ、オリオン座?」


 「もう春だから……違うだろ」


 「じゃあ、あれは?」


 莉音が俺の肩に頭を乗せてくる。髪が頬に触れる。心臓がじわじわ熱を持つ。莉音の呼吸が、耳のすぐ横で滲む。


 「……わかんない。陽翔、教えて」


 「俺も詳しくない」


 「うそー、絶対知ってると思ったのに」


 莉音の声がふわりと笑いに変わる。夜の静けさが、三人の間に薄く溶けていく。


 雫の手が、ゆっくりと俺の手から離れていく。指先が、最後に俺の小指にだけ絡まって、そっと解かれる。離したくない衝動が、喉の奥でつかえる。


 「……」


 莉音が、俺の膝にそっと手を重ねた。無邪気なのか、狙っているのか。莉音の手のひらは、ほんのり汗ばんでいる。夜風がパーカーの隙間から入り込んで、莉音の体温を引き寄せる。


 「陽翔、なんか、寮の夜って落ち着くよね」


 「そうか?」


 「うん。こうやって星見てると……みんなで夏合宿とか来てるみたいな感じ」


 莉音の声は、どこか遠くを見ているような響きだった。


 ◇


 階段の上から、軽やかな足音。真雪が、制服の上にカーディガンを羽織って立っていた。手には、何か温かい缶ジュース。


 「……ここ、いたのね。寮の廊下、静かだったから」


 真雪は無表情で近づき、俺の正面に腰を下ろす。缶ジュースを俺に差し出した。ほんのり熱い。指先が、缶越しに真雪の指と触れる。微かに甘い香り――カフェオレだ。


 「冷える。飲んで」


 「サンキュ」


 真雪の膝が、俺の足に重なる。真雪は何も言わず、星を見上げる。


 「今日は、星がよく見える」


 「……うん」


 真雪の表情は、暗がりの中で柔らかく滲んでいた。膝が重なる感触に、鼓動がわずかに跳ねる。


 莉音が、俺の肩から少しだけ離れた。その代わり、雫の指先がまた俺の手首に触れる。三人分の距離と体温が、夜の階段に静かに溶けていく。


 ◇


 沈黙。誰も言葉を発さない。星の光と、遠くの車の走る音だけが、夜の空間を埋めていた。


 その沈黙を破るように、階段の扉がまた静かに開く。下から、伊吹先輩の声。


 「……あれ、みんな集まってんじゃん」


 伊吹先輩は、スポーツウェアのまま、ペットボトルを片手に現れる。髪が少し乱れていて、汗の匂いが夜風と混じる。


 「星、見てんの?」


 「まあな」


 伊吹先輩は、俺の隣に座る。肩が触れる。伊吹先輩の体温は、莉音や雫とは違って熱い。俺の肩を軽く叩き、冗談みたいに小声で囁く。


 「寮の夜は、こうでなくちゃな」


 声が、耳のすぐ近くで滲む。汗ばんだ腕が俺の腕に触れる。離したくない――そんな衝動が、胸の奥で蠢く。


 ◇


 最後に、階段の下から小さな足音。ほのかが、そっと顔を覗かせた。


 「……あ、皆さん、こんなところに」


 ほのかは、眠たげな目で、パジャマ姿のまま階段を上がってくる。両手で毛布を抱きしめて。


 「星、見てるんですか?」


 「うん、ほのかも来いよ」


 ほのかは、遠慮がちに俺の隣、伊吹先輩の反対側に腰を下ろす。毛布の端が俺の脚にふわりと触れる。ほのかの体温が、毛布越しにじんわり伝わる。


 ほのかは、遠慮がちに俺の袖をちょんと引く。


 「……夜空、きれいですね」


 「そうだな」


 ほのかの声は、いつもより甘く、少しだけ掠れている。毛布の端が、俺の手の甲に重なった。ほのかの指が、そっと俺の指先に触れて、すぐに離れる。その瞬間、指先の感触が、妙に残る。


 「……」


 夜空の下、六人。それぞれが微かに触れ合いながら、星を見上げている。誰も、言葉を足さない。


 星の光は、手の届かない場所で、ゆっくりと瞬いていた。


 ……このまま、時間が止まればいいのに。そんな考えが、ふいに頭をよぎる。


 でも、誰も口にはしない。


 ただ、誰かの指先が、夜風で冷えた俺の手に、またそっと重なった。


 その温度だけが、今夜のすべてだった。

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