第17話 部室で二人きり、椅子が近すぎる
ドアを閉めると、廊下のざわめきが遠ざかった。午後三時、部室の空気は静まり返っている。窓越しに差し込む陽射しが、机の端に斑模様を落としていた。埃っぽさと、微かに油性ペンの匂いが混じる。シャツの袖が汗ばみ、背中に椅子の背もたれがしっとりと貼り付いた。
俺と真雪、二人きり。部室の中央、四人掛けの机をはさんで向かい合う。彼女がノートを開き、ペンを握った指先が小さく震えている。窓の向こうで吹く風が、時おりカーテンの裾を揺らす。その動きに合わせて、真雪の前髪がふわりと持ち上がった。
「……天野くん、今日って、他の人は?」
真雪は視線をノートに落としたまま、息を飲み込んだみたいに声を出した。
「凛先輩は部活ミーティング、莉音は図書委員。雫は……たぶん図書室」
「……そっか」
返事の間。鉛筆が机の上で転がる音だけが響く。
真雪の制服のネクタイは、僅かに曲がっている。彼女はそれに気づかず、ひたすらノートに視線を落としている。机越しの距離は、普段より短い。二脚の椅子の脚が、テーブルの下でほとんど重なっている。……いや、俺が詰めすぎたのか。それとも、彼女が寄ってきたのか。
「天野くん」
「……ん?」
「……今日、風紀委員の報告書、手伝ってくれて、ありがとう」
「いや、別に。暇だったし」
「……でも、助かったから」
言葉は小さく、けれど芯がある。真雪は不器用に口角を上げる。けれど、すぐに俯いてしまう。ノートの端を指でなぞる仕草。冷房の風が、彼女の横顔を白く撫でていく。
「ちょっと、だけ……相談が、あって」
「……何?」
緊張の波が、机を伝ってこちらまで滲む。俺の手のひらがじんわり汗ばむ。
「最近……委員会、上手くいかなくて」
真雪の呼吸が浅くなる。ペンが小刻みに揺れ、ノートに淡い黒い線が増えていく。
「……みんな、私が無表情だから、何考えてるかわからないって。注意しても、怖いとか、冷たいとか……」
「……」
「私、本当は、うまく話したいんだけど。言葉が、出てこなくて」
そのとき、椅子の脚が、コツン、と俺の膝に当たった。近い。いや、さっきよりも明らかに。机の下で、真雪の膝が、俺の膝の横にぴたりと触れた。押し返すこともできず、ただ静かに、熱が伝わる。
「俺は別に、真雪のこと、怖いと思ったことないけど」
口に出してから、頬が熱くなる。真雪が驚いたように顔を上げる。黒髪が頬にかかり、瞳が微かに揺れていた。
「……え?」
「むしろ、真面目で、助かってる。みんなが何言おうと、俺はそう思うから」
息が詰まる間。真雪は、ほんの少しだけ、目を細めた。
「……ありがとう」
彼女の声は、夏の終わりの蝉の声みたいに、かすかで、でも消えなかった。
◇◇◇
報告書を書き進める時間。ペンの走る音と、時計の針が刻むリズムだけが、部室の空気を埋める。二人の肩が、たまに触れそうになるたび、どちらからともなく身体を引く。でも、椅子の脚だけは、ずっとぶつかったまま。
「天野くん」
「ん」
「……こういうとき、どうやって、みんなと話せばいいの?」
「どうって……」
言葉が喉で転がる。俺は自分の手を見下ろす。指先が、ペンのインクで薄く黒ずんでいた。
「無理に明るくしなくていいんじゃない? 真雪は、真雪のままで」
「でも……」
「無理して笑うと、逆に怖いぞ」
冗談めかして言うと、真雪の肩が小さく震える。けれど、すぐにまた静かになった。
「……天野くんは、疲れない?」
「何が」
「私と、こうしてても」
「全然。むしろ、落ち着く」
俺の声が、部室の壁に吸い込まれて消える。真雪は唇を噛んで、ちいさく息を吐いた。
「……そっか」
その一言に、俺の心臓が跳ねる。静かなのに、やけに胸が騒がしい。
◇◇◇
時計の針が四時を指した。外のグラウンドからは陸上部のかけ声が遠く聞こえる。部室にはまだ、俺と真雪だけ。二人分の影が、机に重なっている。
「……終わった」
真雪がそっとペンを置く。安堵の息が、俺の指先まで伝わる気がした。
「助かった」
「いえ……」
真雪は視線をさまよわせ、やがて俺の方をちらりと見る。
「天野くん」
「なに」
「その……」
言葉が途切れる。彼女は制服の袖をぎゅっと握った。
「また、手伝ってくれる?」
「……いいよ」
「そ、そう……ありがとう」
間。俺はふと、真雪の髪の香りに気づいた。石鹸と、ほんのり甘い何かが混じる匂い。気付くと、鼻先がかすかに熱くなっていた。
「……ねえ」
「ん?」
「私、天野くんといると、少しだけ……」
そこまで言って、彼女は口をつぐんだ。机の上で、真雪の指先が震えている。
「……なんでもない」
「そっか」
沈黙。窓の外の風が、またカーテンを揺らした。二人の椅子の脚が、もう一度、コツンと音を立ててぶつかる。
真雪は静かに立ち上がり、ノートを抱えてドアの方へ歩き出す。その背中を、陽射しが淡く縁取っていた。
机の上に、彼女が忘れた消しゴム。白くて小さな、それだけが、部室にぽつんと残っている。
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