第6話 屋上でカップ麺を半分こした午後
春の終わり、風が教室の窓を叩いていた。
午後の授業が終わった直後の教室は、乾いた空気とプリントの紙音だけが残っている。誰かが椅子を引く音に混じって、俺の腹が小さく鳴った。
昼を抜いたのは、財布の中身と気分のせい。
それでも、何かを食べたかった。食欲というより、空っぽの時間に何かを詰め込みたかった。
屋上の鍵は、なぜか俺のポケットにある。風紀委員の村瀬が「開けっぱなしは風紀的にNG」と言って、毎月交代で預かるルールになった。その当番が今月は俺で、つまり――
屋上に行く理由が、あった。
重たいドアを押し開けると、光が跳ね返って目が細くなる。午後三時の太陽は、まだ夏の気配を持っていない。冷たい鉄柵とコンクリの床に、風が走り抜けていく音だけがする。
その真ん中に、人影がひとつ。
村瀬真雪は、ベンチに腰をかけていた。制服のブレザーを脱いで、シャツの袖を肘までまくっている。スカートの裾が風で揺れ、彼女の髪が陽に透けていた。
「……おまえ、どうしてここに」
「鍵、持ってるのはあなたでしょ」
視線だけで答えるような声だった。真雪は俺を見ず、手元のカップ麺に湯を注いでいた。湯気が立ちのぼり、だしの匂いが風に溶ける。塩気と、わずかに化学調味料の香り。
「職権乱用じゃん」
「あなたが来る確率、計算した」
「で?」
「……五十八パーセント」
その言い方が、妙に腹に来る。俺は隣のベンチに腰を下ろした。コンクリの床から冷気が尻に抜けて、背中に汗がにじむ。
真雪は、カップをこちらに差し出した。
「半分こ。箸は……ないけど」
「え、俺が直接?」
「……風紀委員的には推奨しない。でも、あなたならいい」
軽く咳払いして、彼女は視線をそらす。その頬が、春の日差しより一段濃く染まっていた。
俺はカップを受け取り、縁に口をつける。熱い。舌先が一瞬しびれた。でも、悪くなかった。
「……うまい」
「でしょ。新作」
「おまえ、カップ麺の新作追ってるの?」
頷く真雪の髪が、風にふわりと揺れた。柔らかそうな黒髪。毛先が光を弾いて、俺の視界に残像を作る。
「意外」
「委員会のあと、よく食べる。会議、長いから」
「そんな真雪さんも、カップ麺仲間だったとは」
「……それ、なんかイヤ。語感がダサい」
真雪が少しだけ笑った。笑ったというより、口元の線が緩んだ。彼女の表情の変化は、微差でしかない。でも、その“微差”がやけに記憶に残る。
風がまた吹く。俺たちの間の空気が、少しだけ近づいた気がした。
「ねえ、天野くん」
「ん」
「……その、朝から元気なかった。何か、あった?」
ふいの問いに、箸の代わりに使っていたフォークが手から滑り落ちる。カップの中で、麺が音を立てた。
「……見てた?」
「風紀委員は、見て見ぬふりができない」
「それ、便利な立場だな」
「でも、あなたの顔……今日は、特に」
真雪の声が、風にかき消されそうになる。でも、それでも届く。彼女の目が、真正面から俺を見ていた。
「妹さん?」
「……うん、ちょっとな」
嘘じゃない。でも、全部じゃない。
生活費。通知書。バイト。あの夜の温度。
言葉にしようとしても、うまく形にならなかった。
「我慢しすぎ」
唐突に、真雪が言った。
「あなた、たぶん。誰にも、甘えてない」
「……甘えていい相手がいない」
「いる」
「誰が?」
「……わたし」
その一言で、風が止まったような気がした。
真雪は俯いていた。膝の上に置いた両手が、指先をかすかに震わせている。
「……あのね、うまく言えないけど。わたし、あなたのそういうとこ、放っておけない。だから……」
言葉が、途切れる。一瞬の沈黙が、やけに長く感じられた。
カップ麺の湯気が、まだふわりと上がっていた。
俺は、もう一口すすった。次の言葉を探すふりをして。
「……じゃあさ」
静かに言う。
「次からは、カップ麺じゃなくて、パン半分こにしない?」
「……え?」
「箸いらないし、あったかいのはおまえの手だけで十分だから」
真雪の耳が、風よりも早く赤くなった。
そのまま、彼女は顔を隠すようにうつむいた。制服の袖が、頬に触れていた。
空は、ゆっくりと夏に向かっていた。
俺たちの足元には、カップ麺の空容器がひとつ。風がそれを転がす。
その軽い音に、真雪がそっと立ち上がった。
「……次は、カレーパンがいい」
「了解。風紀委員、味の好みは厳しいな」
「当たり前。食も、恋も、風紀は正しく」
「後半、聞き捨てならない単語が混じってたけど」
真雪は振り返らなかった。ただ、風の中でその髪が揺れていた。
それが、今日のすべてだった。
カップ麺の器を重ねてゴミ箱に向かいながら、俺はポケットの中の鍵を握る。
鉄の感触が、少しだけあたたかかった。
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