義妹が起こしにくる朝から始まる、ちょっと近すぎるハーレム生活。
ヒイラギウタ
第1話 義妹はベランダから降ってきた
耳の奥に、風の音がひっかかった。
網戸越しに流れ込む夜の風が、首筋をかすめていく。まだ寝苦しさの残る八月の終わり。部屋の温度はエアコンよりも、外気のほうが涼しくなっているくらいだ。
俺はベッドに片肘をつき、スマホを持ったままぼんやりと天井を見ていた。
画面には、莉音からの未読メッセージが三つ。全部「暇?」「寝た?」「既読つけろ」。
返信する気力はない。通知音も切った。代わりに、耳の裏で自分の鼓動がかすかに跳ねる。
……ドン。
何かが落ちた音がした。
網戸の向こう、ベランダ。
俺はまばたきを一つしてから、のそりと起き上がった。カーテンをそっと開けると、月明かりの中に見慣れたシルエットがあった。
「……雫?」
「っ……よ、よいしょ……」
義妹・天野雫が、うちの二階ベランダにしがみついていた。
制服のスカートが風に揺れ、白い脚が見え隠れする。青いネクタイの中学生ブレザー。手にはなぜか、文庫本とぬいぐるみ。
「お前なにやってんの……落ちるぞ」
「わ、わかってる、でも今降りたら、ママのあたまに直撃するっ」
「……は?」
俺がベランダのガラス戸を開けると、雫が焦った顔で身を乗り出してきた。
「ちょ、ちょっと引っ張って。無理、もう腕ぷるぷる」
「いや、まず説明……」
「あとでいいから! 兄ちゃんの部屋に避難!」
仕方なく雫の手を取った。冷たくて細い手。引き上げると、そのまま勢いで俺の胸に飛び込んできた。
「うわっ」
「セーフ……っ」
雫は俺のTシャツに顔を押しつけ、そのままへたり込んだ。
「……で、なんで俺んとこに降ってきた?」
「ママとパパが帰国してると思ってリビング覗いたら……ラブラブしてた」
「……は?」
「いや、もう、見たくなかった……」
雫は顔を覆って震えた。どうやら、再婚した両親が一時帰国していたらしい。
とはいえ、真夜中にベランダから忍び込むのは、いろいろ間違ってる。
「お前、階段使えよ……」
「だって、行ったらまた見ちゃうかもって……」
「いやだからって……」
雫が顔を上げた。目元が赤い。けど泣いてるわけじゃない。
「……兄ちゃん、寝てた?」
「寝てはいない。スマホ見てただけ」
「ふうん……莉音さん?」
「なんで知ってんだよ」
「通知音、似てる。兄ちゃんのスマホ、ずっと聞いてるし」
言葉の温度が一段下がった気がした。
雫は俺のベッドの端に腰を下ろし、ぬいぐるみを膝に置いた。文庫本のしおりは五分の四あたりに挟まっている。
「……てかさ、兄ちゃん」
「ん」
「今日、学校でちょっとあって」
「いじめ?」
「ちがう。ちょっと、先生に呼び出されて。進路の話」
また空気が変わった。
風がピタリと止んだみたいに。俺の喉の奥に、さっきの風とは違う湿度がまとわりつく。
「なあ、兄ちゃんって……将来、何になりたいの?」
「……それ、俺に聞く?」
「うん。兄ちゃん、何も言わないから」
視線が絡んで、しばらく沈黙が落ちた。
雫の目は、何かを試すように真っ直ぐだった。俺は目線を逸らし、窓の外を見た。月が雲に隠れていた。
「……別に、なりたいもんとかないな」
「そっか」
「でも、お前は?」
「……小説家」
一拍、間があった。
「真面目かよ」と言いかけて、飲み込んだ。雫の指先がぬいぐるみの耳をきゅっと握りしめていた。
「……実は、賞に出したやつが一次通った」
「マジで?」
「うん。でも、二次で落ちた」
「そっか」
鼓動がまた、耳の裏で弾けた。雫の言葉は静かすぎて、逆に痛かった。
「でもさ。兄ちゃんが読んでくれたあの話、また書き直して出すつもり」
「……あの、猫が探偵のやつ?」
「そう。それに、ラブコメ要素入れてみた」
「お前が……?」
「だって、兄ちゃん好きでしょ。そういうの」
雫の声に、かすかな照れと挑発が混じっていた。
俺は咳払いでごまかす。
「……雫」
「なに?」
「お前、部屋戻れ。俺、寝たい」
「えー、やだ」
「……莉音からまたメッセージ来てるし」
「っ、それは……」
雫が俺のスマホをじっと見て、唇を尖らせた。
次の瞬間、俺のベッドにごろんと寝転がる。
「今夜はここで寝る。兄ちゃんの部屋、涼しいし」
「いやいやいや、色々無理だろ」
「男女の境界線って、どこからって話でしょ?」
「……お前、中三だよな?」
「うん。あと半年で高校生」
言いよどみたくなる俺の視線を受けながら、雫は俺の枕を抱いて目を閉じた。
一語だけの短い段落。
「おやすみ、兄ちゃん」
俺はしばらく立ち尽くした。
夜風が、少しだけ冷たくなっていた。
◇◇◇
翌朝。
起きたら、雫はいなかった。代わりに、枕元に文庫本が置かれていた。
しおりが挟まれていたページに、小さなメモ用紙。
《兄ちゃんの部屋、ちょっと安心する》
その横に、猫の絵。ヘタクソな探偵帽子。
俺は本を閉じ、無言でベランダを眺める。
窓の外では、蝉が一匹、鳴き始めた。
――義妹は、時々、降ってくる。
(第1話・了)
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