外伝 それぞれの道
生きるという選択
世界が癒されたその日。
けれど、それは、すべての痛みが消えたという意味ではなかった。
ザラ――大司祭と呼ばれ、
体に刻まれた、戒めのような朽ちた肌も、闘いによって受けた傷も癒えていた。
だが、彼の身体はすでに人の域を超えていた。
闇を自らに封じ、永劫にも近い時を生きた彼の魂は、とうに限界にあったのだ。
ただ、ツバサは思う。
その最期の顔には、苦悶ではなく、どこか安らかな微笑みが浮かんでいたと。
かつて、誰よりも人と竜の共存を願った彼は――その願いが果たされたことを見届けることなく、静かに眠りについた。
***
デュミナスの残党たちは、すでに王国軍の手に落ちた。
再生の光により、彼らの武器や魔具は崩れ落ち、もはや抵抗の術もなかった。
人を襲っていた魔獣たちもまた、光に包まれ、あるものは浄化され、あるものは操られていた呪縛から解かれ、森奥深くへと還っていった。
彼らもまた、世界の歪みに巻き込まれた犠牲者だったのかもしれない。
バロスとヴァルナ――戦火の最前線に立ったその双翼もまた、捕らえられ、処刑が決まっていた。
だが、その陰で、一人立ち尽くす者がいた。
リリス。
ザラの忠実な側近にして、幾度もツバサたちの前に立ちはだかった女。
祭壇跡。
再生の儀が終わり、シンが目を覚まし、ツバサが涙を流していたその時――
ようやく祭壇に辿り着いたリリスはひとり、崩れた石の上に膝をついていた。
「……そんな……うそ、でしょ……ザラ様……」
呆然としたまま、彼の亡骸に
肩が震え、声はひび割れ、何もかもを失った者の哀しみだけが、その場に残された。
「私には……もう、生きる意味なんてない……」
その手には、もはや自らを貫く刃すらなかった。
リリスはふらつくように立ち上がり、よろよろと祭壇の縁へと歩を進める。
そのまま身を投げようと、片足を踏み出しかけた――その瞬間、
「やめてっ――!」
ツバサが駆け寄り、その腕を咄嗟に掴んだ。
勢いのまま、ふたりの体が崩れ落ちるように祭壇の石の上に倒れ込む。
リリスの身体が、ツバサの腕の中で震えていた。
「ザラは……そんなこと、絶対に望んでない!」
「……あんたに何がわかるのよっ!!」
リリスの叫びは、悲鳴に近かった。
その声には、悔しさと喪失、行き場のない怒りが混じっていた。
「……あんたは、守られてばっかりで……!
私は……私は、ザラ様のために生きるって決めたのに……それしか、なかったのに……!」
その肩が震えていた。
喉がひくつき、声は次第に掠れていく。
そのリリスを、シンが静かに見つめながら言った。
「……だったら……生きて見つけろ。
……意味なんて、後からついてくる」
まだおぼつかない足取りのシンの背を、ソウマがそっと支えている。
その姿は、どこか――かつてのザラを思わせた。
かつて、幼きリリスはただ“殺す”ために生きるよう、育てられていた。
そんな彼女を拾い上げたのが、ザラだった。
『まだ生きようと思うのなら、私について来い。
意味など、そのうち見つかる』
あの日の声が、心の奥底で反響する。
リリスは呆然と、どこか遠い過去を見つめていた。
ツバサが口を開く。
「ザラは、ずっと苦しんでた。
私……助けたいと思ってたけど、あの人は“もう十分生きた”って……“やっと終われる”って言ったの」
そっと、ツバサはリリスの頭を抱き寄せた。
「あなたも、本当は気づいてたんじゃない?
ザラが――本当は、世界を征服するつもりなんてなかったこと」
彼女の腕の中で、リリスの体がわずかに震える。
ツバサはその頭を、ぽんぽんと優しくなでた。
まるで小さな子供をあやすように、静かに、何度も。
「あなたとザラの絆が、どんなものだったのか、私にはわからない。
でも……彼はもう、誰かに自分の業を背負わせようなんて、きっと思ってなかった。
――ほら。こんなにも、穏やかな顔をしてるじゃない」
リリスはその場に崩れ落ちた。
嗚咽が、小さく、しかし確かに祈りとなってこぼれる。
「……ザラ……さま……どうか……」
それは、罰を恐れる罪人の声ではなかった。
ひとりの女が、生きることを選び直した、静かな祈りだった。
***
その頃――
ツバサたちがアルカディアへ向かって旅立ったころ。
遠く離れた村の外れ、小さな小屋の前で、一匹の獣が薪を割っていた。
ガルダ。〈獣王〉と恐れられた、デュミナス最強の戦士。
今は牙も爪もふるうことなく、ただ火を起こし、水を汲み、日々を過ごしていた。
その背中に、ひとりの少女がしがみついている。
年の頃は十歳ほど。ぼさぼさの髪を揺らしながら、けたけたと笑う。
「トラのおにーちゃん、あそぼー!」
「俺は豹だ!それに“おにーちゃん”でもねぇ……ガルルルッ!」
「きゃははっ、変な声ー!」
威嚇したつもりの唸り声も、少女にはただの遊びにしか聞こえないらしい。
逃げる素振りも見せず、彼の肩にしがみつく。
あの戦火の中、倒壊した家屋の下で泣いていた彼女を、なぜ助けたのか――ガルダにもわからなかった。
ただの気まぐれ。そう思っていた。
だが、突き放しても、追い払っても、彼女は彼のそばを離れなかった。
「……ありがとう、おにーちゃん」
血まみれの手に、そう言って笑った少女の言葉を、彼はずっと忘れられなかった。
こんな気持ちになるなんて、きっと再生の光を浴びたせいだ。
そう自分に言い聞かせながらも、ガルダはその小さな頭を、そっと撫でた。
空を見上げれば、雲ひとつない青が広がっている。
その空は、かつて彼が見た戦場の空とは、まるで違っていた。
「……ここでいい。俺はもう、戦わない」
罪は消えない。過去は償えない。
それでも――未来は、選べる。
***
人は、変われるのか。
その問いに、誰も明確な答えを持たない。
けれど、今日も風は吹き、空は澄んでいる。
命は、静かに歩き出している。
沈黙の中で、確かに――世界は再生を続けていた。
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