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蛍光灯の平坦な明かりが大嫌いだし、杠高生が屯していそうな店は端からお断りだといって、鶴見さんはわざわざ踏切の向こう側の喫茶店を提案してきた。初めての場所ではやたら緊張してしまいがちな悪癖があるから少し迷ったが、相手の機嫌を損ねて取材が成立しなかったら元も子もない。私はやむなく要求を呑んだ。
指定された店はビルの半地下にあった。なにやら細かな装飾が施された木製のドアといい、真鍮製らしい看板といい、喫茶店というよりバーに近い雰囲気である。ひとりでは入る勇気が起こらなかったので、約束の時刻まで二十分近く、私は階段を下りずに待っていた。
現れた鶴見さんはライダースジャケットに細身のジーンズという格好だった。私の姿を見とめるなり、少し怪訝そうに、「明るい場所じゃなきゃ駄目って、どういうつもり?」
「読んでほしいものがあるんです、すみません。公園の外灯の下じゃ大変かなと思って」
「ああ、そう」納得してくれたのだろう、彼女の表情は少しだけ和らいだ。「コメントすればいいのか。さすがに原稿用紙何百枚って長さだったら付き合えないけど」
「読むこと自体なら何分かで済みます」
ドアの先に広がっていたのは、想像よりずっと小規模な空間だった。アンティーク調のテーブルと椅子のセットがいくつか、ペンダントランプの放つ暖色の光に柔らかく照らし出されている。ゆったりとしたジャズ風のインストゥルメンタルにアレンジされた音楽には聞き覚えがあったが、誰のものかは思い出せなかった。
店員が来た。鶴見さんは珈琲豆をいちばん粗く挽いてほしいと注文していた。なにがどう変わるのかも分からなかったのだが、私は半ば反射的に、「同じもので」
味に関してもそんな調子だったので、取り立てて描写をするのはやめておく。ただ香りは豊かだった――と思う。部室に常備してある格安のインスタント品しか、ふだん私は飲まないのだ。
「お呼び立てしておいて申し訳ないんですけど、小説はまだ完成していません。タイトルも決まってないです」
「あれ、そうなんだ。楽しみにしてたのに」優雅に両手の指先を合わせながら、鶴見さんが皮肉を言った。「だったらなにを読めって?」
「新聞記事です。うちの生徒会に、膨大なスクラップを保管している人がいます。頼み込んで探してもらいました。対象は過去五年間の、ダンスに纏わるものすべてです。鶴見さん、杠高ダンス部現部長の、尾道若葉さんをご存じですよね」
「よく知ってる」
「スクラップを借りてきたので、念のため確認していただけませんか。万が一、同姓同名の別人だったら困りますから」
鞄から茶封筒を取り出し、向かいの鶴見さんに差し出した。今日まで何度となく読み返してきたおかげで、記事の概要はほとんど暗記してしまっていた。
本年度のペアダンス部門最優秀賞に輝いたのは、杠葉第二中学在学中の尾道若葉さんと鶴見礼さん。「再生」と題されたパフォーマンスは、ふたりの実体験が反映されたオリジナリティ溢れる脚本が、特に高く評価された。「幼い頃は身体が弱くて、歩くことすら儘ならなかったんです。リハビリが進まず、もう自分は立ち上がれないんだと諦めかけたとき、手を伸ばしてくれたのが彼女でした」と語ったのは鶴見さん。尾道さんも「とにかく手を掴みたくて無我夢中でした」と当時を振り返る。ゲスト審査員でミュージカル俳優の小野塚陶子さんは「支える者と支えられる者の関係に留まらず、ともに羽ばたくことを決意したふたりの友情に、強く胸打たれました」と激賞した。今後の活動について鶴見さんは「現状に満足せず、さらに高い場所を目指して飛びつづけたいです」と意気込みを見せる。硬い絆で結ばれたふたりの、次なる飛翔が楽しみだ。
「――確かに、私と若葉だね」記事から顔を上げて、鶴見さんは認めた。「だとして、あなたはなにを知りたいの? 若葉に命令されて私を呼び出したの?」
「命令されたわけじゃありません。文芸部にある依頼があったんです。その対応策を練るために、尾道さんに関する情報収集が必要になった。調べていたら、あなたとの関係が浮上してきた。ご存じないと思いますけど、文芸部って杠高内ではむしろ、そういう活動で有名なんです。依頼人に持ち込まれた問題を解決する。駆けずり回ってあれこれ調べる仕事は、たいがい私に回ってきます」
鶴見さんは片方の眉を吊り上げた。「それはお疲れさま。つまりあなたが書くのはヒューマンドラマでもスポーツものでも無いわけね」
「狭義的なジャンルでいえば、確かにそうかもしれません。もっとも私、なに小説を書くっていうジャンル意識が希薄なんです。それはそれとして、お尋ねしますけど鶴見さん、学校は漣女ですよね? 私服通学なのはあそこくらいですから」
漣女こと漣女子高校は、県内でもっとも歴史が古く、かつ偏差値の高い女子高である。我らが杠葉高校も進学実績こそそれなりだが、漣女子高校に比べると格はだいぶ落ちる。
「うん、いちおうね。ただドロップアウト気味だよ、私は。杠高のスクラップ魔って、楠原律でしょう? 中学のとき一緒だったから分かる。単純な学力でいったら、私はあいつにとても敵わない」
頷いた。学校祭を前に、生徒会の仕事が真に多忙を極めるなか、資料探しに付き合ってくれたのである。文芸部は彼女に深い恩がある――生徒会を過剰に敵視する琉夏さんは決して認めようとしないけれど。
「楠原さんなら漣女の合格ラインには到達していたと思います。入学以来、学年トップ五から外れたことのない成績優秀者ですから。でも受験時、彼女は違う選択をした。楠原さんには楠原さんの物語があったんです。私がいま知りたいのは、あなたと尾道さんの物語です。同じ高校に進んでペアを継続したいという思いも、きっとあったんだと想像しています。でも、そうはならなかった」
鶴見さんは笑い交じりに息を吐き出して、「マラソン大会で一緒に走ろうって約束した友達を抜き去ったら、許しがたい裏切りになると感じるタイプ?」
「マラソン大会なんて苦しいだけ、ただこの瞬間が早く過去になってくれないかな、とすべてを憎みながら走るタイプです。出なくて済むなら出たくありません。周囲を気にする余裕なんか、もちろんありません」
「そうなんだ。記事にあるとおり、私は病弱だったから、長距離走ってやった記憶がない。最初から自分が関われる可能性がない物事を、羨んだり憎んだりしたって仕方がないって、当時は思ってたな。小学校時代に私を取り囲んでたのは、はっきり言ってそういう、どうでもいいものの塊だった」
私は言葉を探した。「すみませんでした。無神経でしたね」
「だから、どうでもよかったんだって。真面目にやってる人たちには申し訳ないけど。まともに立てない、補助なしで歩けない、病室のあっちの壁からこっちの壁まで移動するのに人の何十倍も時間がかかる。どうでもいいって認めて行き過ぎなきゃ、とっくにぶっ壊れてたと思うよ」
「回復されて、本当に良かったですね。もしできれば、当時の、そう――」思い出を、と言いかけて、私はかぶりを振り、「やっぱり鶴見さんの話したいように話してください」
彼女は照明と照明の隙間を満たしている薄闇を見上げた。
「自分は生きてるだけでこんな目に遭ってるに、他の苦労まで抱えるのは絶対御免だって信じてたから、勉強もろくにしなかった。教師がたまに面談に来たけど、取り合わなかった。学校に行きたいと感じたこともなかった。小学校って、周りと違う奴は受け入れてもらえないじゃない? 私なんかあらゆる意味で浮きまくりだったの、分かるでしょ。だからいつも保健室か図書館に居て、名作文学のさ、子供向けにリライトされてる全集があるでしょう、ひとりであれを読んでたね」
ぴんと来た。「『オズの魔法使い』?」
「『私は心を取ります。脳味噌では幸せになれません。幸せこそ、この世界でもっとも重要なものですよ』」
と鶴見さんはブリキの木こりの科白を諳んじた。それから唇の端を幽かに湾曲させて、どこか虚ろな感じの笑みを覗かせると、
「私の場合、ドロシーが訪れてすぐ動けるようになったわけじゃない。錆びた関節に油を差すのに、五年ぐらいはかかったのかな。そのあいだ私は脳味噌でだけ、この子は優しいんだな、ずっとリハビリに付き合ってくれてるんだからって考えてた。あの頃の私たちは間違いなく友達――いや、それ以上の存在だったよ。だけどドロシーと木こりとでは結局、住む世界が違ったわけでしょう?」
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