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 音楽が始まった途端、ひとりだけ重力から解放されたように見えた。

 決して大きいとは言えない身体が圧倒的な存在感を伴いながら宙へと舞い上がって、最高点に達すると同時に手足が折り畳まれた。そのまま前方に回転する。着地は寸分の危なげもなく、体育館の硬い床に到達した時点ですでに、尾道若葉さんは新しいポーズを形成していた。先ほどの宙返りが予備動作に過ぎなかったと知れたときにはもう、彼女はダイナミックに床を滑って位置を変えていて、その重心がふわりと上へ移動したかと思うや、今度は回し蹴りが繰り返された。電子音の反復とぴったりタイミングを合わせて、二度、三度。

 凄まじい速度で踊っているはずなのに、彼女の笑顔は私の目にはっきりと映った。表情を含めたあらゆる動きを瞬間的に、おそらくは無意識のうちに把握し、制御し、演出して、ダンスというパフォーマンスに結実させているとしか思えない。

 我らが杠葉高校のダンス部部長は凄いらしい、と事前に噂を聞いて知ってはいた。しかし正直なところ、ここまでの人とは思っていなかった。体幹、柔軟性、筋力、身軽さ、グルーヴ感……肉体に関連するすべての能力が図抜けている。

 曲が終わり、尾道さんがふっと脱力するのと同時に、私は起立して手を打ち鳴らした。さすがの琉夏さんも、座ったままとはいえ拍手をしている。普段は無気力、無関心、無感動の化身のような人物だが、いちおう批評的な基準は有しているらしい。

 少し照れくさそうな顔をした尾道さんのもとに、私は拍手を続けながら近づいていって、「ブラボー」

「ブラーヴァ」と後方から琉夏さんの声。そちらが正しい発音なのだろう、たぶん。

「ありがとう。文芸部の取材って言うから緊張しちゃった。でも喋るよりは踊るほうが得意だからと思って――どうだったかな。なにか役に立ちそう?」

「立ちます。立てられるように努力します。ダンスはいつから? 物心つくと同時に踊ってた感じですか」

 ええと、と彼女は顎に人差指を当てて、「ただ身体を動かしてたって意味ではそうだけど――踊ろうって決めて踊りはじめたのは、中学に入ってから。昔は駆けっこが好きだったの。ただ我武者羅に走るのが向いてると思ってたし、たぶん今もそう」

 このときふと、私はとあるダンサーの言葉を思い出した。「踊ってるときは一種の『無』だって表現している人がいました。尾道さんもそうなんですか?」

「考えて踊ろうとしてるけど、後から振り返ってみると『無』だったなって感じる、が近いかな。上手く言葉にできなくてもどかしいけど。ええと、ダンス部の普段の活動について話してもいい?」

「ぜひ聞かせてください。あと杠高祭への意気込みがあれば」

「後者については、精一杯楽しむ、だね。ダンス部に入ってよかったって、全員が思えるようなステージにしたい」尾道さんはここで言葉を切り、「ダンサーに怪我は大敵だから、準備運動と休養は必須。うちは水曜と日曜は基本休みなの。で、活動日のどこか一日は、参考映像を見て研究する時間に充ててる」

 実質、身体を動かすのは週に最大四日間ということか。そのぶん集中して、密度の濃い練習をしているのだろう。「曲はどうやって決めてるんですか?」

「合議制だね。みんなが踊りたい曲を、みんなで探す。観てくれる人たちにも楽しんでもらえるように、なるべく親しみやすいっていうか、自然と体が動き出しちゃうような曲を選ぶことが多いね」

 なるほど言われてみれば、先ほど使われた〈ハウ・トゥ・ダンス〉もそういうテイストだ。アウトキャストやナズに影響を受けた、気鋭のラッパーによる昨年のヒットシングルである。ロックならともかくヒップホップにはほとんど馴染みのない私でも知っているくらいだから、相当に有名と言っていいだろう。

「じゃあ、ゆったりした曲はあまり選ばない?」

 尾道さんはかぶりを振って、「別に、そんなことないよ。ゆっくりした動きって誤魔化しが利かないから、あるていど身体が動く人にとっては、速い曲よりかえって難易度が高いとは思うけどね。こう――すべての動作に自分なりの解釈を加えなきゃいけないから」

「入門者はなにを踊ればいいんでしょう」

「やっぱり好きな曲がいちばん、やる気も出て上達が早いんじゃない? せっかく文芸部ふたりで来てくれんだから、ちょっと体験して行ってほしいなあ。社交ダンスなんかどう?」

 私は壁にだらしなく背を凭せ掛けたままでいる琉夏さんを振り返り、それから尾道さんに視線を返して、「あの人、社交性あるように見えます?」

「仮に社交性がいまいちなんだとしても、ダンスを通じて培えばいいんだから、私は気にしないよ。ふたりでフォックス・トロットの基本ステップを覚えて帰ってもらう。どう?」

 私は壁際まで駆けて行って、ここまでの話を琉夏さんに伝えた。返事は案の定、「疲れるからやりたくない」

 いつものことながら溜息が洩れた。なんと言おうかもはや、説得する気も起きない。「部長ならそう答えると思ってました。筋肉痛で辛いとかなんとか、私から適当に言い訳しますか」

 彼女はしばし宙を眺めて、「踊ってる様子はもう充分見たから、参考資料視聴の場面を取材したいってことにしよう。余所の部活とは違う、ダンス部特有の取り組みについて知りたい、みたいに持ってって」

「分かりましたよ。部室での様子を見学したいって伝えます」

 言われたとおりに説明すると、幸いにして尾道さんはすぐに了解してくれた。副部長以下の部員たちは、残って練習を続けるという。

 そういった次第で、尾道さん、琉夏さん、私の三人で連れ立って、第一体育館を離れてダンス部の部室に移動した。敷地を南北に貫く中央廊下と、それに垂直に交わる複数の棟によって、杠葉高校の主要な建物は構成されている。魚の骨格を想像すると分かりやすいかもしれない。ふたつある体育館を塊と見做せば、それが頭部に当たる。運動部棟は頭に程近い肋骨の一本。ちなみに文芸部のある文化部棟は尾鰭だ。

 ダンス部で使用されているモニターは、目算、文芸部のものより微妙に大きかった。同じ高校の設備なのだから古び方はほぼ同等だが、部屋自体が片付いているおかげもあって、ずっと眺めやすい。

「参考映像の選考基準は?」いち早く椅子に陣取った琉夏さんが尋ねる。「教則ビデオみたいなのを、誰かが借りてくるわけ?」

「持ち回りだね。広い意味でダンスに関係してるものならなんでも、で順番に考えてもらってる。ダンスグループのPVだったり、ライヴ映像だったりが多いかな。いまから見せるのは、私が選んだやつ」

 と応答しながら、尾道さんがデッキを操作する。ややあってヴィデオが始まった。一目で古いと感じられる映像だ。

 青と白のギンガムチェックの服を着た少女が、転がった林檎を四つん這いになって追いかけていくと、その視線の先に、金属製と思しい足が出現する。彼女がそれを叩いてみると、帰ってくるのは案の定、甲高い反響音だ。彼女は驚いて立ち上がり、叫ぶ。

「ブリキでできた人だわ」

 口を閉じたきりの、全身が銀色をした男性――ブリキの木こりと、ドロシーの出会いの場面である。映画版を観るのは初めてだったが、むかし英語の教材として概略版を読んだから筋は知っている。『オズの魔法使い』だ。

 ブリキの木こりは全身が錆びついて、身動きが取れなくなっている。口さえ開けられぬまま無声で呻きつづけた期間が、なんと一年以上。その異常事態に初めて気付いたのが、竜巻に飛ばされてオズの国までやってきたドロシーだった。

 彼女は案山子と協力して、木こりに油を差してやる。そうして彼はようやく、話したり動いたりが可能になるのである。

 頭に詰まっているのが藁だけなので、案山子はあまり賢くない。ドロシーの旅に同行しているのは、オズに脳味噌を授けてもらうためだ。仲間に加わった木こりは、自分は心が欲しいと打ち明ける。心さえあれば、愛や芸術に感動できるから、と。

 そうした内面を告白する歌のあと、木こりのコミカルなダンスシーンに移る。ここで私はようやく、尾道さんの意図を悟った。

 直立したまま斜め四十五度まで傾く、マイケル・ジャクソンのゼロ・グラヴィティそのままの動きが登場したのである。これを参考に作り上げたパフォーマンスだったのか、と単純に驚いた。てっきり彼が一から考案したものと思い込んでいたのだ。

「マイケル・ジャクソン、お好きなんですね」

 映像がひと段落したタイミングを狙って言うと、尾道さんは何故か少し悲しそうに、

「ダンサーとして、エンターテイナーとして、もちろん世界最高の存在だと思ってるよ。でも『オズの魔法使い』の選んだのは、ブリキの木こりの扱いについて、もう一回考えたかったからなの。彼には、ずっと自分を放っておいたオズの国の人たちに、北だか南だかの善い魔女に、真っ先に怒りを表明する権利があると思わない?」

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