第5話「禅定」静けさの中に答えがある
冷たい雨が降る黄昏時、カムイの店「心身スタジオ・ハーモニカ」はいつもより静まり返っていた。
雨が窓を叩く音が、モンドリアン風ポスターの鮮やかな赤や青を不思議なほど濁らせているように見える。
鉢植えの観葉植物のつややかな葉にも小さな水滴が溜まり、照明に反射してきらりと光った。
カムイはテーブルに片肘をつきながら、本日の予定を終えたドミノアートをぼんやりと見つめていた。
「静かだな 。静けさってのは財産みたいなものだよな。」彼の独り言が店内の静寂に溶け込む。
その体の動きはスローモーションのようにゆっくりとしていた。
心が静まる時間は、カムイにとって最も貴重なひと時だった。
カウンターに置かれたハーブティーからは、心を落ち着ける香りが漂っていた。
その穏やかな雰囲気に反して、突然ドアベルが鳴る音が店全体に響き渡る。
雨で濡れたコートに傘を持った30代の男性が、少し疲れた様子で店に足を踏み入れる。
スーツの襟元は少しだけ型崩れしており、腕時計をちらりと見ながら明らかに心が落ち着いていない様子を見せた。
「いらっしゃいませ。」カムイは柔らかな笑顔で彼を出迎えた。
「雨の中ありがとうございます。こちらにどうぞ、おかけください。」
男性は軽く会釈をしながらスーツを整え、小さなため息をもらした。
「いや、今日はバタバタしてまして・・・。こういうところに来たのも初めてで。」
カムイは温かなハーブティーを差し出しながら、「まずはゆっくりしてください。それで、どんな相談でしょうか?」と訊いた。
相談者
名前:黒崎裕也(くろさきゅうや)
年齢: 33歳
職業:広告代理店の営業マネージャー
性格:頭の回転が速く、成果主義。ただし最近は過労や情報過多により心身が限界に近い。
裕也はハーブティーを一口飲んでため息をついた。
「実は・・・最近、ずっと気持ちが落ち着かないというか、何をしても頭の中が騒がしいんです。」
カムイは頷きながら、黙って続きを待った。
「仕事のメールがどんどん溜まるし、クライアント対応や部下からの質問も尽きない。それだけじゃなくて、プライベートでも・・・家族からの要望や友達との約束、全部に対応しているうちに何が何だか分からなくなってきて。」
カムイは優しい目で彼を見つめた。
「それは、大変だね。きっと、休む暇もほとんどないんじゃない?」
裕也は薄く笑いながら首を横に振った。
「休む時間?そんなものありませんよ。休もうとすると、むしろ『あれをやらなきゃ』とか『これが終わってない』って頭の中が余計に騒きだすんです。」
カムイは裕也の目を覗き込み、静かに語り始める。
「静けさっていうのは、自然に得られるものじゃないんだ。意識して招き入れないと現れない。」
裕也は首を傾けた。
「意識して、ですか?静けさって、例えば何もせすにボーっとすることじゃないんですか?」
カムイは軽く微笑んで、テーブルの端に並へたドミノを指さした。
「ボーっとするのも大事だけど、それは静けさの入り口に過きない。禅定、つまり心を落ち着けるには、心をどこか一点に集中させることが大事なんだよ。」
彼は掌に持っていた1つのドミノをゆっくり倒した。
連鎖して倒れるドミノが繋がり、最後の1つに到達する様子を見せながら語る。
「見てごらん。静かな中でも、何かに集中すると、そこに秩序が生まれる。心も同じだ。どんなに忙しくても、心のどこか1つだけでも静かなポイントを作ってあげられれば、全体が整っていくんだ。」
裕也は少しぼんやりとドミノの連鎖を眺めていたが、やがて「でも、それってどうやってやるんですか?実際には仕事中ずっと頭がごちやごちゃしてるし、集中なんて無理ですよ。」と言った。
「だからこそ、練習が必要なんだ。」カムイは真剣な表情で答えた。
「まずは少しずつ、心を静かにする方法を試してみようよ。」
カムイは裕也に簡単な瞑想を提案した。
彼はクッションを用意し、裕也に深く座るように促す。
「今から2分だけでいい。目を閉して、自分の呼吸に意識を向けるんだ。」
裕也は戸惑いながらも目を閉し、カムイの指示に従った。
「ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。それだけでいい。そして、その間に、頭の中に沸いてくる考えは無理に追い払おうとしなくてもいい。ただ、通り過きるのを見送るだけで十分だ。」
裕也の呼吸が徐々に深くなり、肩の力が少しすっと抜けていくのがわかった。
その2分間は短かったが、彼にとっては大きな転換点だった。
「どうだ、少しは気が楽になったかい?」カムイが彼の様子を見て訊ねた。
裕也は目を開けて少し驚いたように答えた。
「・・・意外と落ち着きました。本当に少しだけですけど。でも、これだけで変わるなんて思いませんでした。」
裕也はゆっくりと目を開け、瞑想の効果に驚きを感じていた。
その数分間は、久しく忘れていた静寂と向き合う感覚だった。
「不思議ですね・・・普段、こんなに頭が静かになることはないのに、たった2分でこんなふうに感じるなんて。」
カムイは微笑みながら頷いた。
「これが禅定の最初の歩みだよ。心を静かに保つには意識して練習が必要。でも、今みたいな短い時間を積み重ねるだけで、きっと変化を感じられるはずだ。」
裕也は少し考え込んたように話す。
「・・・でも、本当にこれが役に立つんですかね。仕事のときとか、どうしても焦っちゃったり、あれこれ考えすぎたりしてしまうんですが?」
「もちろん役に立っさ。」カムイは自信たっぷりに返した。
「焦りやストレスの中でも、ほんの小さな『意識の島』を作れるようになる。それができれば、どんな状況でも心の支えになるんだよ。」
カムイはさらに続けた。
「例えば、次回の仕事中に短い間でいいから、1~2分の休憩を取ってこの方法を試してみるといい。呼吸に集中し、自分だけの静けさを回復する練習をしてみよう。」
裕也は頷きながらメモ帳にそのアドバイスを書き留めた。
「わかりました・・・次回の営業会議で試してみます。ただ・・・その、正直言うと続けられるか不安ですけど。」
カムイは裕也の肩を軽く叩きながら、「努力なんて、一気に完璧を目指さなくてもいいよ。」と語った。
「短い時間を積み重ねることこそが精進なんだ。」
翌日、裕也は広告代理店での喧騒の中に戻った。
朝からクライアントからの急な変更依頼、部下からのミス報告、さらに昼過ぎには締め切りに間に合わない問題が発生するなど、彼の頭は朝から混乱しっぱなしだった。
営業会議の時間が近づく中、裕也はカムイの言葉を思い出した。
(・・・そうだ、呼吸に集中するんだったな。)
その瞬間、彼はデスクに座り、タイマーを2分にセットした。
初めての実践だ。目を閉し、静かに鼻から息を吸い、ゆっくり吐く。そして頭の中を観察する。
この後の会議で何を言えばいいか・・・いや、落ち着け。吸って・・・吐いて・・・
最初の30秒ほどは、頭に浮かんでくる雑念を追い払うのに必死だったが、1分が過きる頃には少しずつ肩の力が抜け、呼吸が深くなっていくのを感じた。
タイマーのアラームが短く鳴る。その音に目を開けた裕也は、少しだけ気持ちが軽くなった自分に気づく。
「・・・なんだ。少しだけ、頭がスッキリした。」彼は小さな声で呟いた。
挑戦と失敗しかし、営業会議の最中、クライアントから厳しい指摘が飛んできた。
「この案、去年と同じ方向性じゃないですか?もっと新しいアイデアが必要でしょう?」その一言が裕也の心を揺さぶる。
(静けさなんて、こんな場面じゃ全然役に立たない。)彼は呼吸が乱れるのを感じ、再び自分に失望しかけた。
会議が終わったあと、裕也は再びカムイの整体院を訪れた。
「・・・やっぱ無理ですよ、あんな状況で落ち着けとか。怒りや焦りが出たら、結局それに飲み込まれるたけです。」裕也の言葉には苛立ちの色が滲んでいた。
カムイは落ち着いた表情を変えずに答える。
「そりゃ、最初からうまくいくわけじゃないさ。でも、それで終わってしまうのはもったいない。」
彼は机の端に並べられたドミノに目をやり、一本だけを指で倒した。
「ほら、これが君の初めての挑戦だ。完全じゃなかったかもしれないけれど、それでもトミノは動き出してる。」
裕也は困惑した表情を浮かべた。
「でも、失敗したことに変わりないですよ。」
「成功や失敗で物事を測ろうとするから苦しくなるんだ。」カムイは静かに語りかけた。
「禅定というのは、いいとか悪いとかを判断するためのものじゃない。ただ、今いる場所で心を整えるための方法なんだ。」
「・・・心を整える?」裕也は小さく呟いた。
「そう。焦っても、怒ってもいいんだ。ただその瞬間そのものを見つめて、自分に戻る力を少しずつ育てること。だからもう一度試してみようよ。」
裕也は少しずつ肩の力を抜き、カムイの言葉を心に刻むように頷いた。
数週間後、裕也はまた整体院を訪れた。
その顔には前回とは異なる落ち着きが漂っていた。
「少しずつたけど、効果が出てきてる気がします。」彼は穏やかに語った。
「最初は2分だけだったけど、今では5分くらい呼吸に集中できるようになって。仕事中に短い休憩を入れるようにしたら、会議でも少し冷静さを保てるようになりました。」
カムイは満足げに頷いた。
「それが禅定の力さ。本当に深いところまで到達するにはまだ時間がかかるかもしれない。でも、君がこうやって積み重ねてること。それそのものが『精進』だからね。」
裕也は小さく笑った。
「確かに。少しすつだけど、進んでる感しがします。次は、もっと長い時間を試してみようかな。」
カムイはその言葉に軽く拍手を送り、言った。
「いいね。その小さな進歩が、大きな変化を生む力になるんだよ。」
その晩、カムイはまた窓辺に立ち、月明かりを眺めながら一言つぶやいた。
「心を一点に向ける力。それがどれほど忙しい世界でも、静かな自分を手に入れられる鍵なんだ。」
彼はテーブルのドミノを整然と並べ直し、最初の一本を倒す。
その連鎖をじっと見つめながら、静けさを感じる自分自身の心にもまた小さな変化を感じていた。
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