第3話「忍辱」怒りを受け入れて見つける答え
薄曇りの午後、冬の気配を感じさせる風が整体院の窓辺をざわつかせていた。
カムイはいつものように鉢植えの観葉植物に水をやりながら、店内を整えている。
「順立て最高!」と口癖をつぶやきながら、彼は観葉植物の葉を撫でるように軽く拭う。
モンドリアン風の幾何学模様のポスターは壁に掛けられ、部屋の雰囲気は整然としているが、そこにはどこか温かさも感じられる。
カウンター近くの机では、ドミノアートの一部が作りかけになっている。
几帳面に並べられたその1列のドミノは、まるで彼の人生哲学そのものを象徴しているかのようだった。
風鈴が控えめな音を立てると、「こんにちは」と低い声が聞こえた。
その声には、どこか鋭く、張り詰めた緊張感が漂っていた。
店の扉を開けて入ってきたのは、20代後半くらいの女性だった。
彼女の目はどこか鋭く、立ち居振る舞いには冷たさを含むような緊張感があった。
短い髪は風に揺れて少し乱れているが、全体的には整った服装をしている。
しかし、表情には不安や苛立ちの跡が伺えた。
「どうぞ、おかけください。」カムイはいつも通りの穏やかな声で椅子をすすめる。
彼女は座ると、何かを言いたそうに口を開きかけたが、一瞬ためらった後、深いため息をついた。
「・・・私、もう耐えられないんです。他人と関わることが・・・。」
カムイは少しだけ眉を上げて相手の顔を覗き込んだ。
「耐えられない?どんなことか教えてくれるかな?」
相談者の名前:沙織(さおり)
年齢: 27歳
職業:中小企業の営業職(人間関係が中心)
見え方:冷静そうだが内心では怒りを抱えやすく、他人の言葉や態度に敏感。
沙織が語る悩み:人間関係における怒りと不安
「職場で上司から皮肉ばかり言われて・・・なんで私だけそんなことを言われるのか、全然わからなくて。なんであの人はあんな風に私を苛立たせるのかって・・・!あと、同僚のちょっとした言葉にもイライラするんです。」
沙織は言葉を強調しながら、拳をぎゅっと握る。
「どうしてみんな、わざわざ人を傷つけるようなことを言うんでしょうか?こっちは普通に仕事をしているのに、無神経なことを言われるたびにもう・・・、本当に怒りが抑えられなくなる。」
カムイは彼女の話を聞きながら軽く頷き、彼女の肩越しに目を向ける。
握りしめた拳が手の震えへと変わっている。
彼はテーブルの上にあった1つのドミノをつかみ、ゆっくりとその小さなドミノを倒して見せた。
「どう感じる?」
沙織は少し訝しけな顔をしてみせた。
「どうって、ただ倒れるだけじゃないですか。」
「そうだね。ただ倒れるだけ。でも、もしこのドミノが自分の怒りだとしたら?」
「怒り ?」沙織は眉をひそめた。
カムイはゆっくりと他のドミノを並べながら語り始める。
「怒りには力がある。でも同時に、コントロールを失うと、その力は自分自身も倒してしまうんだよ。職場の上司や無神経な同僚。彼らの言動が君の『最初のドミノ』を倒そうとしているようなものだ。」沙織は黙ってカムイの話を聞きながら、少しずつ体の硬直を緩めていく。
「それで、忍辱(にんにく)っていう概念があるんだ。耐え忍ぶことで、怒りをコントロールし、最終的にはその状況すべてを新しい形に昇華する力を得るということだね。忍辱ってのは、ただ我慢するって意味じゃなく、自分の心に余裕を作ることでもある。」
カムイはドミノを並べ終えると、最後の一つを倒して、全体が整然と連なっていく様子を指し示した。
「怒りをただ放置するのと、うまく昇華するのでは結果が違う。自分で並べ直したように、君も状況を落ち着け、自分の怒りを新しい流れに変えることができる。」
「でも、怒りを昇華するって、そんな簡単にできるものなんですか?」沙織は疑問に満ちた表情を浮かべた。
「簡単じゃないけど、第一歩ならできるよ。」カムイは柔らかい声で答えた。
「例えばね、怒りを感じた後で自分にこう問いかけてみるんだ。『なぜ今これに怒りを覚えたのか?本当にその感情に価値はあるのか?』とね。」
沙織が少し納得したように頷いた。それでも、目にはまだ少し不安が残っていた。
カムイは椅子に深く腰掛けながら、またドミノを一つ手に取る。
少し考え込んだあと、「怒りが収まらないとき、自分に『3つのステップ』を試してみたことはある?」と切り出した。
「・・・ステップ?」
沙織は怪訝そうな表情を浮かべる。
「うん。たとえば、怒りを感じたときには、まず観察する。つまり、自分がどんな気持ちなのか、客観的に見ようとする。次に受け入れる。怒りに対して無理に逆らわず、『こう感じてしまう自分もいるんだな』と思うこと。そして最後に解放する。怒りを手放す準備をする、というわけ。」
「それ、難しそう・ ・・。」沙織は眉間に皺を寄せながら答えた。
「だって、仕事中にちょっとしたことで怒ったりイライラしたとき、冷静に観察する余裕なんてないもん。」
カムイは笑みを浮かべながら手を挙げて制止した。
「最初はそうだろうね。すべての怒りに『解放』まで持ち込むのは難しいさ。でも、最初の『観察する』だけでも少し違ってくるんだ。」
彼は続けて、自分が過去に経験した小さなエピソードを語り出した。
カムイの昔の失敗談「僕も昔ね、おばさんの整体をしながら、意外とそういう問題に直面したことがあるんだ。彼女が終始、『息子がこんなにダメなんです』って文句ばっかり言ってきてさ。」
沙織が少し興味を持った目で耳を傾ける。
「最初はそのネガティブさにうんざりしてたんだけど、途中で自分自身に気づいたんだ。怒りって、自分を守るための本能的な反応なんだよね。そうやって気づくと、不思議と彼女の話が"ただの愚痴"じゃなくて、"助けを求める表現"だったんだと見直せた。」
「つまり・・・その人の意図を考えるってことですか?」
「その通り!」カムイは指を軽く鳴らしてみせた。
「怒りの奥には、必ず理由がある。そして一歩引いて見ることで、いつの間にか心に余裕が生まれるんだ。」
沙織はカムイの言葉を反芻しながら、「でも、そう、うまくいくものかな・・・」とぼそりと呟いた。
「試してみようよ。」カムイは優しい微笑みを浮かべながら提案した。
「具体的なシチュエーションを作ってみるんだ。たとえば、次に上司に皮肉を言われたときに、それをどう受け止めるかってこと。観察して、受け入れて、解放してみよう。」
沙織の体験の再現、まず沙織が実際に職場で経験した出来事を挙げた。
「仕事の報告が一日遅れただけで、『君はどうも仕事に意識が足りないんだね』なんて言われたんです。ちゃんと理由を説明しても聞いちゃいないし。」
「確かに、それはカチンとくるね。」カムイは相槌を打ちながら続ける。
「もしその言葉を再び聞いたとしたら、どうやって対応する?」
沙織は少し考え込んだ後に、「・・・無視するのが一番かな。怒りが爆発しちゃうから。」
「無視するのは手段の一つだけど、それだと心の中に怒りが残ったままだね。」カムイは首を振った。
「あえて、その言葉にどうして腹が立つのかを考えてみる。相手が意図するものが何なのか、観察してみるんだ。」
彼は続けて、「人からの言葉や態度がドミノの最初の一つ目を倒してしまうこともある。でもね、その連鎖を食い止めるポイントを自分の中で作ることができるかもしれないよ。」
「・・・そうは言っても、本当にできるの?」沙織が問い返すと、カムイは頷きながら、「やる価値はあるよ」と自信を持って答えた。
沙織は翌日、カムイのアドバイスを心に留めながら職場へと向かう。
上司が苛立ったような声で、「報告がまた遅れてるじゃないか!」と強い口調で指摘してきた。
心拍数が一瞬上がるのを感じたが、沙織はカムイに教わった「観察する」を思い出した。
(私、今、めちゃくちゃイラついてる。でも・・・上司はなぜ怒ってるんだ?悪意があるから?それとも単に焦っているだけ? )
自分に問いかけることで、彼女は少し冷静さを取り戻した。
そしてその後、苛立ちに反応せず、柔らかい口調で理由を説明した結果、激しい怒りに繋がる状況を少し緩和することができた。
「あの瞬間、ただ観察しただけなのに、なんだかスッと気持ちが楽になった気がします。」沙織は後日カムイに報告した。
カムイが「忍辱」の哲学を再確認し、沙織の話を聞いたカムイは微笑みながらこう言った。
「忍辱ってね、ただ耐え忍ぶことで自分を守るだけのものではないんだ。むしろ、それは"力"なんだよ。」
「力?」沙織は首を傾ける。
「そう。怒りに飲み込まれず、それを見つめ、手放す。そうすることで、自分自身の冷静さと相手への理解を取り戻せる。それが力なんだ。」
カムイはテーブルの上のドミノを指差した。
「ほら、倒れそうだったら、倒す力も持たずに済むこともある。」
「・・・それなら少しやっていけるかもしれない。」沙織が笑って答えた。
沙織が帰った後、いつものように窓辺に立つカムイは、空を見上げながらぼつりと呟いた。
「怒りは人を突き動かすけど、使い方を誤れば破壊で終わる。でもその怒りすら、人間を成長させる鍵になるんだな。」
ドミノをそっと倒し、連鎖の終わりを穏やかな目で眺める。柔らかな風が窓を通り抜け、植物の葉を揺らしていた。
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