竜鳴き山-泉


 けれども、いつまでたっても青年のうめき声は聞こえない。

 おそるおそる目を開けたユールクは、逆に限界まで目を見開いた。


 青年は今の一瞬で抜刀し、首領格の男を袈裟懸けに引き裂いていた。彼の用いる鏃と同じ白銀の刃が、ねっとりとした血を絡めて赤く光る。


 そのまま、彼はわずかに屈んで踏み込んだ。おそるべき速さで斧を振りかざしていた者まで詰め寄ると、下げていた剣を大きく上へ振り上げる。力強く握られていたはずの斧を弾き飛ばし、粗末な革の鎧や衣服ごと、容赦なく切り飛ばす。


「ば、化け物!」


 残る男のどちらかが青年をののしったが、その次の言葉は続かなかった。男は後方から飛び込んできた巨大な影に押し潰され、爪を立てられていた。


 火々獣だ。見回りに行っていた彼女が帰ってきたのだ。ユールクは尻もちをついたまま、黒々とした毛並みがざわめくのを見上げていた。


「くそ、くそっ、何でそんな顔してんだよ! 人を、人を殺してるんだぞ、お前っ!」


 最後の一人が矢を射る。丁度、青年は男に背を向けたままだった。

 それでも、青年は勝った。即座に振り返り、信じられない膂力と動体視力で矢をとらえ、剣でシャフトごと叩き落とした。

 その時、ユールクは戦っている彼の顔を初めて見た。

 青年は笑っていた。あの寡黙で表情を感じさせない雰囲気を忘れるほど、爛々と赤紫の瞳を輝かせ、牙を剥いて笑っていたのだ。


 ――赤紫の瞳は戦狂い、魔性の証だ。


 次にユールクの中に蘇ったのは、亡き祖父の言葉だった。まさしく、青年は魔性を帯びていた。矢を叩き折られて逃げ出した男の背中に、彼は容赦なく弓を引いた。

 あの竜殺しの矢が、音も立てずに空を駆ける。迷いなく、男の胸を刺し貫く。

 男が絶命したのは、疑いようのないことだった。一瞬で、ユールクの目の前に四つの死体ができあがったのである。


「すまない。待たせた」


 青年の声で、ユールクは我に返った。青年は、火々獣の喉元を撫でていた。先の烈火の如き戦いぶりからは想像もできぬほど、優しく。


「あ……」


 彼が獣から手を離し、自分の方を向いた時、ユールクは口をはくはくと動かした。

 感謝があった。動揺があった。恐怖があった。それでも彼はありがとうと、口にしたはずだった。


「に、人間じゃない……」


 しかし、彼の口から出たのは、捨てたと断言したはずの『おそれ』だった。

 歩み寄ろうとした青年が、足を止める。彼は僅かに目を見開いて、そっと顔を伏せた。ユールクは胸がぎゅっと締め付けられるような心地に、息を呑んだ。

 傷つけてしまったという確信が、彼の中を走り抜けていった。


「うわぁっ!」


 刹那、火々獣がうなりを上げて、青年の前に飛び出そうとした。ユールクは悲鳴を上げて、じりじりと下がる他なかった。


「よせ」


 青年が火々獣を止めると、彼女は憎々しげにユールクを睨みながらも、それ以上踏み込もうとはしなかった。


「ごめんなさい」


 ユールクの目から涙がぼろぼろ零れ始めた。おそれを捨てたと言った自分は、結局、それを捨てきれず、青年を傷つけてしまったのだ。ひくつく少年の小さな胸の中に、巨大な恥があった。


「おそれを警戒しろとは言った。だが、捨てる必要はない」


 青年は血しぶきを払い、納刀しながら、やはり静かにユールクへと言った。


「ここにいろ。終わらせてくる」


 その言葉もまた、ユールクに一つの逃れられない真実を突き付けた。自分は彼の相棒にはなれないのだと。憧れに眩んでいた目が、急に空の寒々しい青を取り戻した。


「ぼくは、その、水場まで戻ります。顔を、洗ってきます」


 少年はよろよろと立ち上がって、ただ、夜を過ごした場所まで、力なく歩く他は無かった。一度たりとも、青年の方を振り返る勇気はなかった。


 次第に足が勝手に走り出した。落ち葉を蹴り、小枝を踏み、ユールクは野営した場所に飛び込むと、湧き水に顔を突っ込んだ。そうして、水の中で大声を上げた。誰にも叫びを聞かれたくなかった。ごぼごぼと泡になって、彼の激情はせせらぎと共に流れて行く。


 息を荒げながら、ユールクは水から顔を上げた。真っ赤に火照った頬を雫が伝う。少しずつ熱が薄れていくのを、彼はしっかりと感じ取っていた。


(何をやっているんだろう、ぼくは。あの人はぼくを守ってくれたのに)


 ユールクは改めて、自分の恥と向き合った。


 勝手に憧れて、勝手に怯えて、しかも守ってくれた相手をなじって、逃げてきてしまった。村でこんなことをしたら、笑いものになっていただろう。


「おそれを捨てる必要はない、か」


 ユールクは始末も終わって黒々と湿った焚き火跡を眺め、青年の言葉を反芻した。彼は水たまりに映る自分の顔を、じっと見つめ始めた。


 おそれとは何だろうか。ユールクはたくさん想像した。

 一日前までは、村を失うことも怖かったのだろう。

 今は人間が敵対してきた事実が怖かった。


 刃が怖かった。尖った鏃が怖かった。あの青年の笑みが怖かったし、そもそも、あんな巨大な狼など恐怖以外の何物でもない。憎い黒衣だって。けれど、それはあくまで外側から来たものばかりだった。


 もっともっと、今まで見向きもしなかった自分の内側を、ユールクは覗き込む。


 未熟だと知られるのが怖い。役に立たないのが怖い。怖がっていると知られるのが怖い。恥ずかしい思いをするのが怖い――否、ひとりぼっちになるのは、もっと怖い。

 ユールクの中には、おそれがいくつもあった。ただの数日で捨てられるわけがない。それは黒衣の影に怯えながらも、穏やかな村で育ったあたりまえのおそれだった。

 水に映る自分の顔を見ながら、ユールクはじっと自分の中のざわめきに耳を傾けていた。


『ああ、怖い、怖い』


 その声が聞こえた時、ユールクは一瞬だけ、水面に映る自分がそう言ったのかと錯覚した。違うと理解するや否や、彼は慌てて振り返った。


 そこにいるのは、真っ黒な巨影だった。毛並みを持たぬ、つるりとした鱗があった。日光に照らされて白くは輝くものの、どこか脂ぎった妙な艶を放つ。見るからに強靭な四肢の先には曲線を描く爪があり、前肢には皮膜がついている。いかめしい顔には大きな金の目がついていて、それがぎょろぎょろとユールクを値踏みしている。まっすぐと伸びた角は、頭を振るだけで人を突き殺してしまうだろう。


(黒衣!)


 村を焼き払われたユールクが、それを見間違うはずはなかった。彼の身体は強ばった。

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