2‐2 / ウィーンの衝撃、日本の価値(佐野常民編/灯火と道筋)

◆【万国の舞台、託された誇り】

明治六年(1873年)春。

音楽の都と謳(うた)われる、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン。ドナウ川の豊かな流れに抱かれたプラーター公園は、この年開催される万国博覧会の、かつてないほどの熱気に包まれていた。ガラスと鉄骨を大胆に使った巨大な円形建築「ロトゥンデ」が、近代技術の象徴として空高く聳(そび)え、その周囲には、世界各国の威信をかけた壮麗なパビリオンが、まるで競い合うように林立していた。万物の都とも称されるこの場所で、馬車や着飾った人々がひっきりなしに行き交い、様々な言語が飛び交う様は、まさに文明の粋を集めた、絢爛豪華(けんらんごうか)な祝祭空間そのものだった。


日本が初めて公式に参加する、世界の檜舞台。その一翼を担う日本館は、まだ開幕を数日後に控え、最後の仕上げに追われていた。館内には、日本から運び込まれた漆器の深い艶や、陶磁器の繊細な絵付け、そして西陣織の豪華絢爛な織物の香りが混じり合い、独特の雰囲気を醸し出している。


その日本館の責任者の一人として、副総裁の佐野常民は、押し寄せるプレッシャーと、未知の世界への尽きない好奇心、そして拭いきれない不安を抱えながら、連日、開幕準備の最後の追い込みに忙殺されていた。副総裁という肩書は重い。総裁の大隈重信は名目上のものであり、実質的な運営はこの佐野の双肩にかかっている。失敗は許されない。日本の国威がかかっているのだ。


(果たして、我々のこのささやかな展示が、西洋の巨大な祭典の中で、どのように受け止められるのだろうか……。彼らが誇る蒸気機関や電信機のような、度肝を抜くような最新技術は、まだ我が国にはない。ならば、我々は何をもって、この日本の存在を世界に示せばよいのだ……? 岩倉様との約束……京都再興への裏付けを、ここで掴むことができるのだろうか……?)


佐野の心は、期待と不安の間で大きく揺れていた。


◆【ウィーンの誓い、古都の未来】

ウィーン万博開幕前夜、佐野はカフェで岩倉と再会した。岩倉はロシアのモスクワで得た「京都文化首都」構想――政治の中心でなくとも京都は文化で輝けるという道を熱く佐野に語った。佐野はその構想に深く感銘し、明日から始まる万博で日本の「美術・伝統文化」の価値を示し、構想の裏付けを得ることを岩倉に力強く誓ったのだった。

 この突然の来訪は、ウィーン万博副総裁としての責務に押し潰されそうになっていた佐野の胸に、一筋の光をもたらした。その言葉は、重責を背負う彼の不安を和らげ、迷いを振り払うものとなった。異国の地で、奮闘する佐野にとって、岩倉が託した「文化首都」という理想は、己が進むべき道を改めて照らし出してくれたのである。


◆【小さき庭、世界を魅了す】

日本館の展示物や人員も配置され、ようやく形が整った。だが、佐野の不安は消えない。

(果たして、我々のささやかな展示が、この西洋の巨大な祭典の中で、どのように受け止められるのだろうか……。彼らが誇る壮大な工業製品や、精緻な芸術作品を前に、我々の陶磁器や漆器、織物は……色褪せてしまうのではないか……?)


そんな焦りの中、一つの騒動が持ち上がった。それは、開幕前から日本館の庭園に日参し、熱心に買い取りを申し出ていた英国紳士、ミスター・バークレーが、ついに痺れを切らして再度やってきたのだ。


「佐野副総裁、また例の英国の方が……。例の庭園の件で、どうしても今日中にお話を、と……。もう、かれこれ五度目ですぞ。一体どうなさいますか?」

日本政府に雇われ、通訳兼事務官として佐野を補佐していたアレクサンダー・フォン・シーボルトが、半ば呆れ、半ば困惑した表情で告げる。彼は日本生まれで日本語も堪能だが、西洋人の感覚も理解できるため、こうした交渉事では頼りになる存在だった。その青い瞳には、日本文化への深い理解と愛情が感じられた。


「庭園の? またか……。シーボルト君、あの方は本当に熱心だな。だが、無下にもできまい。わかった、すぐに行こう」


佐野が向かったのは、日本館の裏手に、いわば「添え物」のような形で設けられた、ささやかな日本庭園だった。京都の庭師、小川治兵衛(後の七代目)に依頼し、ウィーンの気候や土壌を考慮しながら、現地の材料で苦心して造らせたものだ。石灯籠、鹿威し(ししおどし)、そして数本の松や楓。決して広くはないが、日本のわびさび、自然との調和を表現しようとした空間だ。これが、意外にも博覧会の準備段階から、一部の欧州の人々の間で静かな評判を呼んでいたのだ。特に、庭園文化が盛んな英国からの関心が高かった。


庭園では、仕立ての良いフロックコートを着た、恰幅(かっぷく)の良い英国紳士風の男が、従者を数人引き連れて、腰をかがめ、熱心に苔むした庭石の配置を眺めていた。彼は、英国王室御用達でもあるという、ロンドンでも有名な園芸会社の代表、ミスター・バークレーと名乗った。佐野の姿を認めると、彼は満面に笑みを浮かべ、まるで旧知の友人にでも会ったかのように大股で近づいてきた。


「おお、ミスター・サノ! お待ちしておりましたぞ! いやはや、何度見ても素晴らしい! 実に素晴らしい庭園ですな! この静寂、計算され尽くした非対称の美、そして自然との一体感……。これは、我々西洋の整形式庭園とは全く異なる、深い哲学を感じさせる! この空間にいると、心が洗われるようだ! まさに東洋の神秘! この美は、ロンドンの喧騒の中では決して味わえません!」

バークレー氏は、抑えきれない興奮を込めて、身振り手振りを交えながらまくし立てる。その大きな声は、静かな庭園には不釣り合いなほどだったが、その言葉には嘘偽りのない感動が溢れていた。佐野は、そのあまりの熱意にやや気圧されながらも、平静を装って応じた。


「お褒めにあずかり、光栄の至りです。ですが、これは日本の庭としては、ごくささやかなものに過ぎませぬ。京都には、これよりもっと素晴らしい庭園が、数多くございます」


「ご謙遜を! この美しさに、大きさなど関係ありません!」バークレー氏は、興奮のあまり、佐野の肩を強く叩いた。「つきましては、先日来よりお願いしております通り、ぜひともこの庭園を丸ごと買い取りたい! 石一つ、草一本、苔の一片に至るまで、全てです! 我が社の庭園見本として、ロンドンで完璧に再現したいのです。もちろん、言い値でお支払いしますとも! この芸術を、ぜひ我が国にも!」


「か、買い取る……? この、小さな庭を、ですか? しかも、丸ごと……?」佐野は、さすがに耳を疑った。日本国内では、さほど注目もされないであろう、このささやかな空間が、これほどの価値を持つというのか? しかも、石や木だけでなく、空間そのものを買いたいとは、一体どういうことなのか。


「ええ! この美は、万国共通のはずです! 金に糸目はつけません! 我が社の総力を挙げて、この庭園を英国の地に根付かせます! そして、英国の紳士淑女たちに、この東洋の叡智(えいち)を伝えたいのです!」バークレー氏の目は真剣だった。その熱意は、単なる物珍しさから来るものではないことが、佐野にも痛いほど伝わってきた。


日本の、ささやかな庭が、これほどまでに評価されるとは……。佐野は、驚きと共に、胸の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。それは、自分がまだ気づいていない日本の価値が、ここにあるのかもしれない、という鮮烈な予感だった。この出来事は、佐野にとって、西洋文明一辺倒ではない、新たな価値観の存在を強く意識させる、最初の大きな衝撃となった。


(庭園が……売れる……? いや、そういうことではない。それ以上に、この日本の美意識が、言葉も文化も違う人々の心を、これほどまでに強く動かす力を持っているというのか……? わしが今まで追い求めてきた、西洋の技術や合理性とは、全く違う種類の『力』が……)


◆【異国の喝采、文化の誇り】

そして、五月一日、ウィーン万国博覧会が開幕すると、佐野の驚きと確信は、さらに大きなものとなった。開場と同時に、日本館には、連日、黒山の人だかりができたのだ。その熱狂ぶりは、佐野たちの予想をはるかに超えていた。彼らの目当ては、巨大な名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)や、浅草寺の雷門を模した巨大な提灯、鎌倉大仏の模型といった、物珍しい展示物だけではなかった。


「見てください、この漆器の艶やかさ! まるで夜空を閉じ込めたようだわ! なんという深い色なのでしょう!」

「この陶磁器の絵付けの繊細さは、どうでしょう! 小さな鳥の羽の一本一本まで描かれている! 西洋のどんな名窯(めいよう)にも劣らない、いや、むしろそれ以上かもしれない!」

「西陣織の帯……なんと美しい色と模様だろう! これは、もはや単なる織物ではない。芸術品だ!」


会場のあちこちで、欧州の紳士淑女たちが、日本の美術工芸品の前で足を止め、熱心に見入り、感嘆の声を上げている。彼らは、これまで東洋の辺境の国としか見ていなかった日本の、その高い技術力と独自の美意識に、初めて触れ、心からの称賛を送っているのだ。

 その目は、真剣そのものだった。特に、女性たちは、色鮮やかな友禅染の着物や、精緻な蒔絵(まきえ)が施された小箱の前から、なかなか離れようとしない。中には、熱心にスケッチブックに写生する画家の卵のような若者や、ルーペを取り出して、まるで宝石でも鑑定するかのように細部の細工に見入る美術愛好家の姿もあった。


「素晴らしい……この大胆な構図、この独特の色彩感覚……。我々西洋の絵画とは全く違うが、何か……魂を直接揺さぶられるような力がある……」

白髪の老紳士が、展示された葛飾北斎の浮世絵の前で、傍らの連れにそう呟いているのを、佐野は耳にした。


佐野は、その光景を、まるで夢でも見ているかのように、しかし確かに目の前の現実として、呆然と、そして深い感動と共に目の当たりにしていた。


(我々が、半ば自信なさげに、欧米の評価など気にもせず、ただ『日本の面白いもの』程度の感覚で展示したこれらの品々が……これほどまでに、彼らの心を捉えるとは……! これは一体……どういうことなのだ……?)


それは、西洋の技術や文化こそが絶対であり、日本の伝統は古く劣ったものだ、という当時の日本国内の一部にあった風潮――特に、古賀宗助のような合理主義者たちが声高に振りかざす論理――を、根底から覆すような出来事だった。技術者である佐野自身も、心のどこかで西洋技術への憧憬(どうけい)と、日本の伝統へのある種の諦めを持っていたのかもしれない。だが、今、目の前の現実が、その考えを力強く打ち砕いていた。


そこへ、日本館の運営を手伝っていたアレクサンダー・フォン・シーボルトが、少し興奮した面持ちで佐野に声をかけてきた。

「佐野様、素晴らしい反響ですな。特に美術工芸品への関心は、我々の予想をはるかに超えています。毎日のように、購入の問い合わせや、作者についての質問が殺到しておりますぞ!」

シーボルトは、流暢な日本語で、しかしその青い瞳を輝かせながら言った。彼の顔には、日本文化が正当に評価されることへの、純粋な喜びが浮かんでいた。


「ああ、シーボルト君か。まったく、驚いているよ。正直、ここまでとは……。これが、本当に日本の力なのだろうか……」

佐野は、まだ信じられないといった表情で答えた。


「当然の結果かと存じます」

シーボルトは微笑んだ。

「日本の手仕事の精緻さ、その独特の美意識の高さは、ヨーロッパの目の肥えた目利きたちをも唸(うな)らせるだけのものがあります。それは、私が長年日本で暮らし、確信してきたことです。しかし……」

彼は、そこで少し表情を曇らせた。

「……同時に、佐野様、心配な面もございます」


「心配、とは?」

佐野は、シーボルトの真剣な眼差しに、わずかな不安を覚えた。


「これらの品々が、単なる『異国趣味(エキゾチシズム)』の対象として、その表面的な珍しさだけをもてはやされ、安易に消費されてしまう恐れがある、ということです。その背後にある日本の精神性や、何代にもわたって受け継がれてきた職人の技への敬意がなければ、本当の価値は伝わりません。また、今の熱狂に目をつけた、心ない収集家や商人によって、貴重な文化財が不当な価格で買い叩かれ、次々と海外へ流出してしまう危険性も……。すでに、その兆候は見られます」


シーボルトの言葉は、熱狂に浮かれかけていた佐野の心に、冷水を浴びせるような警鐘を鳴らした。確かに、今の熱狂は、一過性のものかもしれない。そして、その熱狂が、逆に日本の文化財を危機に晒(さら)す可能性もあるのだ。価値が知られれば、それを手に入れようとする者が現れる。そして、その中には、金儲けのためなら手段を選ばない者もいるだろう。


(そうだ……ただ評価されるだけでは駄目なのだ。その価値を正しく理解させ、守り、そして未来へと繋げていかねば……! シーボルト君の言う通りだ。これは、新たな危機でもあるのだ……!)


シーボルトとの会話は、佐野に新たな視点と、そして重い責任感を与えた。文化を守るということは、単にその価値を誇るだけでなく、その価値を正しく伝え、次代へと継承していくための、具体的な方策を講じることなのだ、と。


◆【異国の知己、日本の誇り】

ある日、佐野は万博の事務局長であるシュヴァルツ・センボルン男爵の邸宅に招かれた。ウィーン市街を見下ろす高台にある、趣味の良い調度品で飾られた瀟洒(しょうしゃ)な館だった。男爵は、博覧会の成功に尽力する一方、各国の文化にも造詣が深く、特に日本の展示には深い関心を寄せており、佐野の知識と人柄に好意を持っていた。


「サノ副総裁、日本館の大成功、誠におめでとうございます」男爵は、上質なワインを勧めながら、にこやかに佐野を迎えた。「特に、貴国の工芸品は素晴らしい。多くの来場者が、その美しさと技術の高さに驚嘆していますよ。私もいくつか購入させていただきました。家内も、日本の絹織物の繊細な美しさに、すっかり魅了されております」


「は、はあ……恐縮の極みです。我々も、これほどの反響があるとは、正直、予想しておりませんでした」

佐野は、まだ興奮冷めやらぬ面持ちで答えた。


「当然でしょう」

男爵は、窓の外に広がるウィーンの街並みに目をやりながら、ゆっくりと頷いた。

「西洋人が日本の品を賞賛するのは、それが西洋の模倣ではなく、日本固有の趣、独自の精神性を宿しているからです。その繊細さ、自然への敬意、そして驚くべき手先の器用さ……これらは、我々西洋人が、急速な産業化の中で失いかけているものかもしれません。だからこそ、人々は本能的に惹かれるのです。どうか、その価値を、貴国自身が決して見失わないでいただきたい。模倣からは、真の創造は生まれませんからな。日本には、日本の道があるはずです」


シュヴァルツ・センボルン男爵の言葉は、シーボルトの懸念とも重なり、まるで啓示のように、佐野の心に深く、そして重く突き刺さった。


(日本固有の趣……独自の精神性……。そうだ、それこそが、我々が守り、そして世界に示していくべき価値なのだ……! 西洋に追いつくために、我々自身がその宝を捨ててどうする! 古賀殿の言うように、全てを西洋の物差しで測り、効率だけで判断していては、日本は日本でなくなってしまう……!)


ウィーンの地で、佐野常民は確信を得た。日本の文化は、決して西洋に劣るものではない。むしろ、世界に誇るべき独自の輝きを持っている。近代化とは、何もかも西洋の真似をすることではない。自らの文化に誇りを持ち、それを守り育てながら、新しい時代を築いていくことこそが、真の道なのではないか。


彼の脳裏には、岩倉具視の憂いを帯びた瞳と、京都で見た西陣の職人たちの真摯な姿が、鮮やかに蘇っていた。そして、自らが翻訳の過程で関わった「美術」という言葉が、今、新たな意味を持って、重く、そして力強く輝き始めたように感じられた。それは単なる訳語ではなく、日本の魂を守るための、新しい「砦」となる言葉かもしれない。


(帰国したら、岩倉様にこのことをお伝えせねば……! そして、京の都へ……。あの都にこそ、日本の「美術」の未来があるのかもしれない……! 古賀殿たちの考えは、間違っている! 断じて!)


ウィーンの空の下、佐野常民の心には、日本の文化への新たな誇りと、それを守り抜くことへの静かな、しかし揺るぎない決意が固まっていた。それは、彼の人生を懸けるに値する、大きな目標となりつつあった。

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