4-5 スパゲッティ・アッラ・ウオーヴァ・ディ・メルルッツォ

 何週間が過ぎただろうか。アカネの修行する野原には、今日も青空が広がっている。

 今日のアカネは、ピチピチの鮮魚を買ってきた。

「レオ、気づいたんだよ」

「何だい? アカネ」

「この世界に存在しない食材を使っちゃえばいいんじゃないかなと思って。難易度は高くなるけど」

 そう言いながら、アカネは魚をさばき始める。

「その魚は?」

「メルルッツォだよ」

「何を取り出そうとしてるの?」

「ウオーヴァだよ」

 アカネはそう言いながらパスタを茹で始める。

 

 メルルッツォのウオーヴァをスパゲッティにえる。

 日本語でこの物語を読んでいる皆様には伝わらないだろう。メルルッツォは世界中で食べられる魚だが、そのウオーヴァは日本、韓国、ロシア以外では食べられないから、イタリア語では説明的に表記するしかないのだ。

 日本で生まれた、代表的な偽イタリア料理。

 日本語では、「たらこスパゲティ」と呼ばれている。


 *

 

「待って。また失敗した」

 アカネはまたフライパンを洗い直す。炎に近づけすぎて、たらこに完全に火が通ってしまったのだ。

「何度でも作ってくれていいんだよ、アモーレ」

 そう言いつつも、レオはだんだん空腹で放心状態になり始めている。

 焦げ付いた粒は、牛乳ベースのソースに絡まって、ねっとりとフライパンの底にこびりついた。

(火力が安定しないんだ。小学校のカレー作りみたいなもどかしさ)

 納得いくまで、アカネは何度でもやり直す。燃え盛る炎で「とろ火」を再現できるようになるまで、アカネは数時間を費やした。

(これじゃ、繊細な調理はできないなあ……)

 一長一短だ。野原の焚き火では弱火が難しく、魔法コンロでは強火が難しい。


「できた! 明らかに、火を使わない方が簡単にできる料理だった……」

 アカネは叫び声をあげると、へたへたと地べたに座り込む。

 レオが昼寝をして、本を読んで、うとうとして、イタリア風サンドイッチパニーノを食べて、またうとうとした――それだけの時間をかけて、「たらこスパゲッティスパゲッティ・アッラ・ウオーヴァ・ディ・メルルッツォ」はようやく完成を見たのだった。

  

 昼食のはずが、夕食になってしまった。レオは200グラム以上のスパゲッティを一心不乱に食べる。

「美味い! 美味い! アカネの故郷にあるパスタは、なんだかするすると口に入る味がするね。太っちゃいそうだ」

 なんでも誉めてくれるレオだが、今回は本気で誉めてくれている。

 だが、やはりアカネは納得がいかないのだった。

(レモンでごまかしてみたけど……本物に比べると、やっぱり味が薄いなあ。海苔もないし)

 たらこスパゲッティには、色々なレシピがある。

 マヨネーズを使うパターン、醤油を使うパターン、麺つゆを使うパターン。

 どの調味料も、この世界にはない。日本の調味料は野菜のうまみと食塩で支えられている。

 ない物ねだりをしてもらちが明かない。さすがのアカネも、醤油が恋しくなってきたが。

 

 *


 二人で夕日を見ていた。残暑の風が気持ちいい。

 たらこスパゲッティを食べたレオが言う。

「げーぷ。食べすぎちゃった。これは本当に美味しい料理だよ」

「でもねえ……。やっぱり味が薄いんだよね。これじゃ、ジョルジョさんの料理を超えているとは言えないや」

「味が薄い!? バカなことを。メルルッツォの卵がこんなに味が強いと思っていなかった! からすみボッタルガにも引けを取らない、素晴らしい食材だよ!」

「いや、もう一度作り直す。大葉の代わりに、ハーブを入れるアレンジはどうかな」

 アカネは立ち上がる。どうせ作り直したくなるだろうと思って、アカネは焚き火を消さずにおいたのだ。

「……ねえ、レオ。もし、『火を使う料理』で独立を勝ち取ったらさ」

「うん、何?」

「申し出通り、あなたと付き合ってみるよ。だって、火を使う料理は、二人一緒でしか作れないでしょ」

 アカネは思い切って、交際を条件付きで了承する。

 一陣の風が吹き、焚き火の炎が揺れた。

 その言葉が聞こえると、レオの表情は、パッと明るくなって――。


 そのときだった。

 アカネの目に、赤い光が飛び込んでくる。それは瞬く間に、流れるように広がった。

 あっ……まさか。

「うわっ! そこの木に燃え移った!」

「な、なんだって!?」

 レオは辺りをぐるぐる見回す。見当違いな方向をきょろきょろする。

 アカネは思い出して、恐怖した。

 ヤバい。レオは火が見えないんだ。

 

「どこ、どこ?」

「そこだよ! あの木!」

「どの木?」

「あーっ、焼け落ちた! 隣に燃え移った!」

「あっ、あの黒くなった木か。隣ってどっち!?」

「どっちもだよ! うわあ、地面の草もチリチリしてる!」

 アカネはそこらじゅうを指さす。大パニック。レオがとうとう苛立って、繰り出す魔法を切り替えた。

「ええい、まどろっこしい! 雨の大魔法グランデ・マジア・デラ・ピオッジャ!」

 

 ドッシャーーン。

 

 青空に黒い雲がかかり、草原に夕立が降り注いだ。文字通り、バケツをひっくり返すように。

 辺り一面が水浸しになった。二人もろとも。

「うわあ! 寒い! 寒い! パスタまで台無しに!」

「バカっ、そんなこと言ってる場合じゃないよ! 火あぶりの刑になるんだぞ!」

 いつになく厳しい声色で、レオがアカネをとがめる。

 アカネは寒さと恐怖でぶるぶる震えた。消防士すらいない世界で、料理がやっていけるのか……。


 *

 

「はあー。ひどい目に遭った。火を使う料理は、独立してからのお楽しみだね」

「そうだね……。いや、『使うなら、一瞬だけ』ということにしておこう。ほんのわずかに、強火のときだけ炎を使えばいい」

 レオが別の道を提示してくれる。あれほど怖い目にあったのに、優しい人だ。

 だが、アカネは首を振る。

「あのね、私が間違ってた。もともとイタリア料理には、強火で炒めるような料理はほとんどないの。私の故郷もそう」

「えっ、そうなの? それはなぜ?」

「なぜ、と言われると難しいけど……。そもそも強火にすれば何でも美味しいってわけじゃないの。大体の場合、強火ほど素材の味が閉じこもって、弱火ほどまんべんなく火が通る。素材の味が強すぎると、大体の場合、パスタとは合わないの」

「ふうん。確かに、玉ねぎがピリ辛のアマトリチャーナなんかは、食べたくないかも」

「そうでしょ。もちろん例外的に、炒めることで味わいにグラデーションを残す方法はある。例えば……ああっ!!」

 アカネはそこで息をのみ、はたと手を打った。

  

「あった! ブラヴォー!」

 思わずアカネは、レオぐらい大きな声で叫んでしまった。

「わあ! びっくりしたよ、アカネ。なにがあった?」

「『火を使う』私の得意料理だよ! 買い出しに行こう、アモーレ!」

 アカネは思わず、レオをアモーレと呼んでしまった。興奮して気づいていない。

 それで良いのかもしれない。もし成功すれば、二人は交際を始めるのだから。

「おお、無垢の少女は何度も立ち上がる!」

 レオはオペラ歌手になった。二人は手を取り合い、市場に向かってるんるんと走り出す。

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