天の階

しげぞう

第1話

1、

 凶暴なまでに苛烈な冷気を孕んだ大気が、幾千もの小さな刃となって、容赦なく切りつけてくる。頭部を覆った布も、全身をくるむマントも、その前ではさして役に立たなかった。烈風は、凝然ぎょうぜんと立ち尽くす放浪の戦士タルスを、文字どおり翻弄していた。

 鍛え上げられたタルスの肉体も、冷気の前では形無しである。剥き出しの鼻や頬は、ことごとく朱く染まっていた。半刻も動けずにいたならば、確実に体温が奪われ、命を縮めるであろう死の風だ。

 唸りが高まり、ひときわ大気がたける。我知らず脚を踏ん張っていた。油断すると、躰ごと風下へ持っていかれそうになる。

 大地を覆うゴツゴツとあおぐろい岩は、装束越しでも手足を切り裂くだろう。雨水の浸蝕で地に穿たれた無数の孔は、容易に旅人を陥れるだろう。遂には眼を開けていられず、タルスは曠野こうやから顔を背けた。

 南大陸最南端アバストロ半島は、極圏きょくけんを目前に望む無主地である。一年を通じて冷涼な土地だが、この時期の南風はことに冷たく激烈なことで知られていた。

 だがタルスをうつけのように自失させたのは、苛酷な気候ばかりではなかった。眼前で、驢馬ろばが大地に呑み込まれたからである。比喩ではなく、現実の、見たままの出来事だ。

 その生き物を〈龍〉と呼んでいたのは、かつてアバストロ半島に蟠踞ばんきょしていたさる支族だった。少なくともタルスは、そう聞かされている。

 北大陸の、それも遥か東方の神獣の言い伝えが、いかに伝播し、下草と矮樹わいじゅと奇岩だらけの曠野に棲む巨大生物に重ね合わされたのかは解らぬ。だが、実際にヴェンダーヤ亜大陸まで踏破したタルスにしてみれば、たったいま目にした、狡猾にして醜怪な化け物を、伝説の神獣になぞらえるのは気が引けた。少なくとも、綴織壁掛タピスリーで豪華絢爛に描かれるそれとは、似ても似つかなかった。

 〈龍〉と呼ばれるその存在は、実際は、巨大でおぞましい環形動物かんけいどうぶつに過ぎぬ。家畜をひと呑みするほどの大蚯蚓おおみみずを浮かべれば、まず間違いないだろう。それどころか〈龍〉は、際限なく大きくなるらしい。小屋を丸ごと呑み込む個体もいるという。そんな怪物が、亀裂や穴ぼこだらけの曠野の地下に潜み、地上を通る動物や人間ゾブオンを、待ち構えているのだ。

 タルスはたったいま瞥見べっけんした彼奴きゃつの〈本体〉を思い起こし、あまりのおぞましさに身震いした。歪な球根のように凸凹とした、しかし生っちろい彼奴の体側たいそくには、黄色がかった無数の繊毛とも触手ともつかぬ出っ張りが励起れいきしていた。彼奴は触手のうちひときわ長い数本を、つたや長虫のごとく地上に這わせている。そして獲物を察知するとたちまちのうちに捉え、引き摺り、己れの棲む大地の亀裂に引っ張り込むのだ。

 ウヨウヨと蠢く触手が、タルスが荷物を運ばせていた驢馬を絡めとったとき、咄嗟に蜻蛉を切って触手をかわせたのは僥倖であった。人間ゾブオンに比べ、タルスの手足は短く、ずんぐりむっくりして不恰好であったが、その分、発達した筋肉に覆われていた。加えてヴェンダーヤの苦行僧の邪行を身につけている。鈍重そうな見かけに反して、弾む毬のごとき動きを披露したのだった。

 岩だらけの曠野こうやを引き摺り回される驢馬の、憐れな鳴き声が、まだ耳の奥で木霊している。

 そして、獲物を待ちきれぬとばかりに、亀裂からにょっきりとせり出た〈本体〉ときたら! まるで海面に浮上するいさなめいたその先端には、ギザギザの細かい歯がびっしりと列なる円いあぎとがあり、それが閉じた瞬間に、驢馬はもっとも甲高く鳴いたのだった。

(くそっ、道理で気安く驢馬を譲ると思ったぜーー)

 タルスが驢馬を入手したのは、街道の終着点にある寒村であった。どれも傾きかけた荒屋あばらやからぞろぞろと出てきた村人は、みな貧相な体格、貧相な身なりであった。その中の一人が、貴重な労働力であろう驢馬を、あっさりとタルスに引き渡した。

(おそらくーー)

 村人たちは、〈龍〉の習性にある程度、通じているのではないだろうか。曠野こうやに足を踏み入れた間抜けが怪物の餌になったあと、安全な時機をみはからって悠々と、残された持ち物をいただくのだろう。あるいは、あの化け物は、金貨や宝石類を消化せずに、まとめてどこかで排泄するのかもしれないーー。

 タルスが驢馬に背負わせていた鞍袋くらぶくろには、予備の水と食料に加え、先の冒険で手に入れたお宝が入っていた。このような品物で相手の心が動くのかはわからないが、タルスはそれを取引材料に、目当ての知識を得られるかもしれぬと期待していたのだった。だが……。

(こいつが残っただけましかーー)

 上衣の隠しにある古文書ーーここから先の地勢を描いた地図ーーに、マントの上から手を当てて、タルスは嘆息したのだった。

 

2、

 南下するにつれて、冷気はより厳しくなった。そして、特定の形状の岩塊が、数を増していった。今のところ地図は正確であり、タルスはそのことに胸を撫で下ろした。

 その奇岩は、一本一本が巨木のような高さがあり、軸にあたる部分がやや細く、その上に釣鐘型の傘が乗っかっている。まるで、地面から生えた巨大な石のくさびらといった風情であった。いまタルスの通りかかっている場所は、そうした岩が無数に佇立し、あたかも樹林のような、あるいは石の迷宮のような様相を呈しているところだった。

 岩の間を縫うように進まねばならないので、ここに入り込んでから、思うように距離は稼げなかった。風が弱く感じられるのは有難かったが、密林のごとく陽が翳るのが早い。拡がった傘が、天蓋めいて頭上を覆っているからである。

 体感される気温が、急激に下がってきている。呼気こきが吐く先から白くなり、わだかまる。つるべ落としめいて、周囲があっという間に暗くなった。遠くの残照が、まだ辺りの様子を知らせてくれているうちに、タルスは野営することにした。

 ひときわ大きな岩の根元に、ドサリ、としゃがみこむ。朝から歩きづめで、くたくただった。自然に瞼が下がってきた。このまま眠ってしまいたいが、無論そのようなわけにはいかない。腹も減っていた。寝床の準備を整え、無理をしてでも食事をとらねばなるまい。革袋の水をひと口含むとタルスは、重い腰を何とか上げたのだった。

 緩慢な足どりで、周囲を彷徨うろついた。わずかなたきぎを拾い集めて組み、火床にする。燧袋ひうちぶくろから火口と火打金を取り出したところでタルスは、ふと手を止めた。無意識のうちに尖らせていた神経が、警報を発したのである。

「これは珍しい……」

 思いがけず間近に人声を聞き、振り向いたタルスは息を呑んだ。これほどまで他者の接近を許したことは、ついぞなかったからだ。

 いつの間にか、立ち並ぶ奇岩の一つに混じり、人間ゾブオンの姿があった。深い色味の外衣ローブをまとった人物で、肩幅の広い体格から男だと知れた。先端に金属の装飾をつけた王笏おうしゃくを、杖がわりに使っている。

 男が頭巾フードを上げると、つるりと滑らかな面貌かおが現れた。いやーー。

 そうではない。男は白銅製の仮面をつけているのだ。くすんだ銀色の面上に、横長の亀裂のような覗き孔が空いている。声からして、壮年と思われたが、仮面なので年齢ははっきりとしなかった。

「こんな辺鄙な土地で、人に出会うとは。いやーーそなたモーアキンか?」

 いかにもタルスは、人間ゾブオンではない。正しくは、ルルドとモーアキンの間の子である。体躯の比率が人間ゾブオンと異なるのは、そのためだった。

「そちらこそーー」

 タルスは慎重に答えた。

「ケイスゴール僧兵団が、どうしてこんな辺境に? 国境線は何リーグも北だ。ここいらには、僧院などあるまい?」

 ケイスゴールは、アバストロ半島と南辺で接する強力な国家である。王国のまつりごとは、主に三つの権門けんもんの綱引きによって動いていた。王族と貴族、それに僧兵団である。僧兵は、元々がケイスゴール民の帰依する〈火焔寺院〉の聖職者が自衛のために組織した自警団であったが、次第に力を増し、国王の顧問官団に人員を配するまでになった。今や、寺院を護持するに留まらない独自勢力に発展している。

 クックックッ、と男が嗤った。音もなく近寄ってくる。その足の運びで男が、尋常でない力量の持ち主と知れた。むろん武の力量である。タルスからしても男は、手強い相手に思われた。

「愉快な御仁だ。不躾ぶしつけな言辞をお詫びいたそう。いかにも愚僧はケイスゴールの僧兵で、カムデンと申す者に御座る。闖入ちんにゅうをお許し願えるかな。ささ、どうか火起こしを続けなされ。身共みどもにも温もりをお分けいただけるとありがたいーー」

 言われるがままに作業を続けながらタルスは、相手が質問に答えていないことに気づいていた。それに、外衣ローブの合わせ目から覗く僧衣にも、目を剥く。梔子色くちなしいろの司祭平服は、一見、質素なようでいて仕立ては上等であった。首に下げた火竜をかたどった頚飾くびかざりーー僧兵団のしるしーーはまぎれもなく黄金である。つまりカムデンは、かなり高位の僧に相違なかった。で布教活動に勤しむよりも、僧院で拝火壇を拝んでいるのが似つかわしい。だがその身熟みごなしも加えるならば、単なる高位階の僧とも思われぬ。供回りをしたがえていないことがまた、いっそう不気味であった。

 ようよう勢いを増し始めた炎で、手のひらをあぶりながら、カムデンが革袋を差し出した。少し躊躇したが、受けとった。真鍮製の口金を開けると、ぷん、と火酒が匂った。ひと口あおる。喉を焼いて、火酒が滑り落ちていった。自らもあおりながらカムデンが、気安げに口を開いた。

「この地は〈トウヴィク〉と呼ばれておるらしいのだが、知っていなさるかな。古ルルド語で、〈呻くものの地〉という意味だそうじゃーー」

 見た目の年齢も不詳だが、話しぶりもよくわからない。タルスよりも若いようにも思えるし、恐ろしく年ふりているようにも思える。声は仮面越しで、少しくぐもって聞こえる。

 一般信徒は別だが、出家した〈火焔寺院〉の聖職者は、みな仮面を被る掟になっている。もっとらしい神学上の理由づけがなされていると聞くが、どうも嘘くさい。崇拝の対象である焔を輝映させることで権威を高め、人びとを支配してきたのだろう。初期の教団関係者の悪知恵だ、とタルスは睨んでいた。

 タルスが、初めて〈トウヴィク〉という言葉を耳にしたのは、〈底なし沼の魔女〉と呼ばれたドレラスという女の託宣によってだった。彼女の〈失せ物探し〉の呪術わざによってタルスは、目指すべき相手が〈トウヴィク〉と呼ばれる土地に居ることを突き止めたのだった。だが肝心の場所がどこにあるのか探すのがまたひと苦労だった。ようやく〈トウヴィク〉の地図を入手できたのは、脊梁山脈中の神政国家ティリケの、黄金が詰め込まれた国庫の片隅であった。

「人も通わぬ僻地にもかかわらず、何故かこの土地には古ぶるしい遺跡や遺物が多い。どうやらここは、〈古き人びと〉にとって重要な土地であったようだな」

 〈古き人びと〉とは、人間ゾブオン以外の、かつて地上を闊歩していた種族、たとえばルルドやモーアキン、ジルブルックといった者たちの総称ーーいや蔑称である。彼らはいま、〈新しき人びと〉である人間ゾブオンに圧迫され、別の次元へと生存圏を移しつつあった。

 ルルドは、人間ゾブオンよりも遥かに古く賢い種族であり、モーアキンは人間ゾブオンと同じくらい残虐かつ強力な軍事力を有していた。ジルブルックは偏屈で閉鎖的だが、独特の技術力を保持している。いずれも、元来は人間ゾブオンよりも秀でた種族であり、彼らからすれば人間ゾブオンなど、未開で野蛮な新参者にすぎなかった。

 彼らが、愚蠢おろかでありながら、神をも畏れぬ陋劣ろうれつさを併せ持つ人間ゾブオンに駆逐されたのは、人間ゾブオンの旺盛な繁殖力ゆえである。〈古き人びと〉が何十年、何百年かけて血族を増やし維持するあいだに、人間ゾブオンはおびただしい数の仲間を地上に産み落とす。長命種である〈古き人びと〉は、生まれた子孫を命をつなぐものとして手厚く扱う生存戦略をとってきたのに対して、人間ゾブオンは次々に産み落としては、その中で生き残ったものがさらに子孫を残すという生存戦略をとった。人間ゾブオンの生き残りの背後には、死屍累々たる曠野こうやが拡がっているのだ。

「ーーだからこそ、どの国も領有を主張しないのだろう?」

 タルスの問いにカムデンは、然り、と頷いた。先般にあいまみえた〈龍〉もだが、人間ゾブオンにとって当地は、未知の、或いは、いかがわしい妖魔の跳梁する忌まわしい土地と見なされていた。カムデンのいう遺跡も、邪悪で胡乱で危険な遺物と忌避され、恐れられているのだ。

 だがその遺跡に、タルスは用があるのだ。

 かろうじて手元に残っていた干し肉をタルスが供出すると、堅いそれを噛りながら火酒をチビチビとやった。どのようにあの〈龍〉の巣を通り抜けたのだと訊ねると、〈龍避け〉の鈴をあの寒村であがなったのだと云う。

「クソッ! 俺にはそんな物のことは一言も……」

「ま、役には立たなかったがの。紛い物じゃ」

 カムデンが、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべたーー少なくとも、そのような声音であった。どうせ、先ほどの恐るべき体術を駆使して、〈龍〉をかわしたのだろう。

 一燭時ほどすると、カムデンが、外衣ローブをきつく躰に巻いて、無造作にその場に横になった。すぐに寝息が聞こえてきた。タルスもまた、マントで身をくるみ寝転がる。あっという間に眠りに引き込まれた。

 目が醒めると、すでにカムデンの姿はなかった。

 タルスは起き上がり、マントに降りていた夜露を形ばかり払った。手足を少し動かして、強ばった躰をほぐす。焚き火の跡を始末すると、さらに南へ向けて歩き出した。

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