天の階
しげぞう
第1話
1、
凶暴なまでに苛烈な冷気を孕んだ大気が、幾千もの小さな刃となって、容赦なく切りつけてくる。頭部を覆った布も、全身をくるむマントも、その前ではさして役に立たなかった。烈風は、
鍛え上げられたタルスの肉体も、冷気の前では形無しである。剥き出しの鼻や頬は、ことごとく朱く染まっていた。半刻も動けずにいたならば、確実に体温が奪われ、命を縮めるであろう死の風だ。
唸りが高まり、ひときわ大気が
大地を覆うゴツゴツと
南大陸最南端アバストロ半島は、
だがタルスを
その生き物を〈龍〉と呼んでいたのは、かつてアバストロ半島に
北大陸の、それも遥か東方の神獣の言い伝えが、いかに伝播し、下草と
〈龍〉と呼ばれるその存在は、実際は、巨大でおぞましい
タルスはたったいま
ウヨウヨと蠢く触手が、タルスが荷物を運ばせていた驢馬を絡めとったとき、咄嗟に蜻蛉を切って触手を
岩だらけの
そして、獲物を待ちきれぬとばかりに、亀裂からにょっきりとせり出た〈本体〉ときたら! まるで海面に浮上する
(くそっ、道理で気安く驢馬を譲ると思ったぜーー)
タルスが驢馬を入手したのは、街道の終着点にある寒村であった。どれも傾きかけた
(おそらくーー)
村人たちは、〈龍〉の習性にある程度、通じているのではないだろうか。
タルスが驢馬に背負わせていた
(こいつが残っただけましかーー)
上衣の隠しにある古文書ーーここから先の地勢を描いた地図ーーに、マントの上から手を当てて、タルスは嘆息したのだった。
2、
南下するにつれて、冷気はより厳しくなった。そして、特定の形状の岩塊が、数を増していった。今のところ地図は正確であり、タルスはそのことに胸を撫で下ろした。
その奇岩は、一本一本が巨木のような高さがあり、軸にあたる部分がやや細く、その上に釣鐘型の傘が乗っかっている。まるで、地面から生えた巨大な石の
岩の間を縫うように進まねばならないので、ここに入り込んでから、思うように距離は稼げなかった。風が弱く感じられるのは有難かったが、密林のごとく陽が翳るのが早い。拡がった傘が、天蓋めいて頭上を覆っているからである。
体感される気温が、急激に下がってきている。
ひときわ大きな岩の根元に、ドサリ、としゃがみこむ。朝から歩きづめで、くたくただった。自然に瞼が下がってきた。このまま眠ってしまいたいが、無論そのようなわけにはいかない。腹も減っていた。寝床の準備を整え、無理をしてでも食事をとらねばなるまい。革袋の水をひと口含むとタルスは、重い腰を何とか上げたのだった。
緩慢な足どりで、周囲を
「これは珍しい……」
思いがけず間近に人声を聞き、振り向いたタルスは息を呑んだ。これほどまで他者の接近を許したことは、
いつの間にか、立ち並ぶ奇岩の一つに混じり、
男が
そうではない。男は白銅製の仮面をつけているのだ。くすんだ銀色の面上に、横長の亀裂のような覗き孔が空いている。声からして、壮年と思われたが、仮面なので年齢ははっきりとしなかった。
「こんな辺鄙な土地で、人に出会うとは。いやーーそなたモーアキンか?」
いかにもタルスは、
「そちらこそーー」
タルスは慎重に答えた。
「ケイスゴール僧兵団が、どうしてこんな辺境に? 国境線は何リーグも北だ。ここいらには、僧院などあるまい?」
ケイスゴールは、アバストロ半島と南辺で接する強力な国家である。王国の
クックックッ、と男が嗤った。音もなく近寄ってくる。その足の運びで男が、尋常でない力量の持ち主と知れた。むろん武の力量である。タルスからしても男は、手強い相手に思われた。
「愉快な御仁だ。
言われるがままに作業を続けながらタルスは、相手が質問に答えていないことに気づいていた。それに、
ようよう勢いを増し始めた炎で、手のひらを
「この地は〈トウヴィク〉と呼ばれておるらしいのだが、知っていなさるかな。古ルルド語で、〈呻くものの地〉という意味だそうじゃーー」
見た目の年齢も不詳だが、話しぶりもよくわからない。タルスよりも若いようにも思えるし、恐ろしく年ふりているようにも思える。声は仮面越しで、少しくぐもって聞こえる。
一般信徒は別だが、出家した〈火焔寺院〉の聖職者は、みな仮面を被る掟になっている。もっとらしい神学上の理由づけがなされていると聞くが、どうも嘘くさい。崇拝の対象である焔を輝映させることで権威を高め、人びとを支配してきたのだろう。初期の教団関係者の悪知恵だ、とタルスは睨んでいた。
タルスが、初めて〈トウヴィク〉という言葉を耳にしたのは、〈底なし沼の魔女〉と呼ばれたドレラスという女の託宣によってだった。彼女の〈失せ物探し〉の
「人も通わぬ僻地にもかかわらず、何故かこの土地には古ぶるしい遺跡や遺物が多い。どうやらここは、〈古き人びと〉にとって重要な土地であったようだな」
〈古き人びと〉とは、
ルルドは、
彼らが、
「ーーだからこそ、どの国も領有を主張しないのだろう?」
タルスの問いにカムデンは、然り、と頷いた。先般にあいまみえた〈龍〉もだが、
だがその遺跡に、タルスは用があるのだ。
かろうじて手元に残っていた干し肉をタルスが供出すると、堅いそれを噛りながら火酒をチビチビとやった。どのようにあの〈龍〉の巣を通り抜けたのだと訊ねると、〈龍避け〉の鈴をあの寒村で
「クソッ! 俺にはそんな物のことは一言も……」
「ま、役には立たなかったがの。紛い物じゃ」
カムデンが、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべたーー少なくとも、そのような声音であった。どうせ、先ほどの恐るべき体術を駆使して、〈龍〉をかわしたのだろう。
一燭時ほどすると、カムデンが、
目が醒めると、すでにカムデンの姿はなかった。
タルスは起き上がり、マントに降りていた夜露を形ばかり払った。手足を少し動かして、強ばった躰をほぐす。焚き火の跡を始末すると、さらに南へ向けて歩き出した。
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