第1章 林檎は選ばれなかった
寵愛の代償
天雷輝子にとって、100平米の狭苦しいこの場所は、堅牢な要害であり砦だった。
出入口は正面にある扉ひとつのみ。背後には、外壁伝いに上る他は到達手段のない絶壁。誰かが訪れるにしろ襲い来るにしろ、経路は正面からの一択に絞られ、不意討ちの可能性を考えるだけの体力を、精神力を温存できる。
――――とはいえ、警戒を解いたことなど一瞬もない。扉の向こうへ意識を張り巡らせ、階段を上ってくる音には常に敏感になっていた。
だから、希代巴と名乗るこの美少年が、来訪することも分かっていた。単独なことも分かっていた。あまりに小柄な足音故に、性別だけは見誤っていたが――――だがしかし。
混乱の末、唐突に愛の告白をしてくるとは、予想できなかった。
「…………………………………………………………………………………………は」
空の青さも校舎の喧騒も、グラウンドの賑やかさすら余さず分かるこの場所で。
壁に背を預け長身を折り曲げて座る輝子は、訳も分からずに口を開けていた。
「…………………………………………………………………………………………あ」
対して、輝子をそんな混乱へと突き落とし果せた巴はといえば。
叫ぶ拍子に閉じた眼を思い出したように開いて、胸の前でぎゅっと握った拳と、唖然とする輝子とを、何度も何度も、見比べて。
「――――はぁっ⁉」「――――ふぇぇっ⁉」
計ったように同じタイミングで、ふたりは頓狂な悲鳴を上げた。
「お、お、お、おまえ、なな、なにを言って」「みぎゃぁああああああああああああああああああああああああ!?!?!??!??!!?!?!?!?!?!!」
真っ赤な顔で叫ぼうとした輝子は、しかし混乱を吹き飛ばすほどの悲鳴に目を見張る。
視線の先で叫び回る巴は、輝子の何倍も何十倍も真っ赤に顔を染めていた。その場でぐるぐると走り回ったかと思うと、顔を覆って倒れ込み、さらにごろごろと転がり回る。
「……………………あー、えーっと……希代、巴、だったか? ま、まぁ取り敢えず落ち着けよ。その、い、いきなり告白されたのは――「みゃぁあああああああああああああああああああああ「ま、待て待て叫ぶなさすがに外聞が悪ぃ! 分かった分かった! 告白「ぴゃぁあああああああああああああ「だぁもううるっせぇっ! いいから告は「ぴょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお「いい加減落ち着けてめぇっ! ぶっこ「みぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい「今のは違ぇだろ! 分かった言わねぇっ! 言わねぇから一旦止まれぇっ‼」
絹を裂いたような悲鳴の中に、怒号めいた声を投げ込んで流れを堰き止めんとする無謀。
思わず立ち上がって、床を木刀でばんばん叩いてみせても、巴はなかなか止まらなかった。恥ずかし過ぎて比喩を超えて顔から火が出ているのか、それとも転がっているが故の摩擦熱なのか、煙まで上げ始めてもなお止まらず、最後には何故か輝子の方が「頼むから止まってくれっ‼」と懇願するまでの狂乱を繰り広げて――――――
――――影の角度が若干変わったと、分かってしまうくらいに時間をかけて。
「…………ごめんなさいでした……」
消え入りそうなか細い声で呟きつつ、巴は、
「……………………」
反応に心底困り果て、輝子は再び腰を下ろした。
喧嘩に巻き込まれた折、倒した相手から恨み言を吐かれた経験なら数知れず。しかし、同じ地に伏した男性だとしても、こうも無残で哀れな美少年になんと声をかけるべきか、偏り過ぎた人生経験では答えなど出ない。
「…………取り敢えず、起き上がってくれるか? んなボロボロの姿で倒れてるのを人に見られるとな、周りからのオレの心証が余計悪くなるんだわ」
「はい……その、今、のは……」
「分ぁったから! なんも聞いてねぇよオレは、知らん知らんなーんも知らん」
「あ、ありがとう、ございます………………その、また今度、ちゃんと言いますから……」
聞こえるギリギリの音量で決意表明しつつ、暗く沈んだ顔で巴は立ち上がる。
――……言うのかよ、また、あんなバカげた冗談みたいなこと……。
輝子は、ますます呆れて呆れ果てて――――盛大に、溜息を吐く。
「んで、結局要件はなんなんだよ生徒会長。欠席が多くて退学だとでも言いに来たか?」
「ち、違いますよ! 確かにそのくらいの権限、生徒会にはありますけど……でも! しょーこさんに使うなんてあるわけありません!」
「あるのかよ権限は。…………じゃあ、なんの用だよ」
「ぼくは…………っ、……しょーこさん。あなたに、生徒会役員に就いてほしいんです」
「……………………生徒会、役員? オレが?」
「っ、は、はい! ぼくが生徒会長になったら、絶対にしょーこさんに役員をしてもらうって、決めてたんです! ずっと前から! ずぅっと!」
輝子の怪訝そうな声、苦虫を噛み潰したような顔には気づかないのか、巴は声を弾ませて言う。目を輝かせながら『庶務』と書かれた腕章を取り出し、続ける。
「
「…………いや、なんで?」
「――――――――ふぇ?」
ラブレターでも贈るように輝子へ腕章を差し出していた巴は、そのひと言に硬直した。
承諾でも拒否でもなく、疑問。
想定外の応答に頭を真っ白にしている巴へ、輝子は「……どうして、オレなんかを誘ってるんだ、って訊いてんだよ」と畳みかける。
「生徒会ってのは、正直よく知らねぇんだけどよ、学校行事とかを裏であれこれやってる組織だろ? ……オレをよく見ろよ。ご覧の通りの不良野郎だぞ? 態度も頭も顔も眼つきも、一線級の不良品。生徒会なんてお偉い方々とは、対極に位置する底辺のゴミクズだ」
言いながら、輝子はこれ見よがしに髪を掻き上げる。
露わになる両眼は、どちらも鋭く、凶器的で、今も既に怒り狂っているかのように見えてしまう。鋭利な角度が、瞳の力が、全てが全て悪い方へと印象を引き摺り下ろしている。
だが、中でも右眼は、ひと際、異様だった。
上下にかけて裂くように走る傷痕。三白眼の瞳は、左のそれとは違い過ぎる赤黒で、まるでこびりついて固まった血が今もなお、眼筋の収縮に逆らえず蠢いているようで。
忌々しげに舌打ちして、輝子は指に絡む髪を払い捨てる。
「……蒸し返すからって暴走するなよ? おまえ……オレが好きだとか言うんなら、じゃあ、オレが普段なにしてるかだって、多少は知ってるだろ? 毎日毎日授業にも顔出さず、家にも帰らねーで喧嘩三昧だ。街歩いてて警察に怒鳴られねーことの方が珍しい身の上だぜ? ……そんな不良代表が、真面目な学生様の代表たる生徒会に入るなんて…………そんなの誰がどう考えたって、烏滸がましい以外の何物でもねーだろうよ」
――――胸の内側が、内臓疾患みたいに痛むのを抑えながら、輝子はそう続けた。
憎まれ者は、憎まれ者らしく。
不良は不良のムーヴをしなければならない。息が荒くなるけど、ズキズキと眼の奥が疼くけど、瞼を固く下ろして頭を掻き毟って、乱雑を装って口を動かす。
「オレみたいな、売られた喧嘩に返すくらいしか能のない役立たずより、もっと仕事できる奴勧誘した方がいいんじゃねーの? …………あと、おまえも高校生なら、女を見る目くらいは磨いとけ。こんな事故物件に惚れるなんざ、黒歴史にしかならねぇ――」
「……なん、で……」
――――雨でも降るのかと、輝子は思わず眼を開けた。
しかし、空を見るまでもなく視界は明るく、雨雲が飛来した気配はまるでない。それでも確かに聞こえた水音に顔を上げて―――――原因を目撃し、再び唖然とする。
希代巴が、黒眼がちな大きな眼から、ぼろぼろと大粒の涙を流していたのだ。
床にぶつかって弾ける度に、雨音に似た音を奏でながら。
怒るなんて行為と縁遠そうな美少年が、それでも口をへの字にひん曲げていた。
「なんで……なんでそんな、そんな酷いこと、言うんですかぁ……!」
「っ⁉ ちょ、おいおい待て待て! なに泣いてんだてめぇっ⁉」
腕章ごと腕を引き寄せて、苦しんでいるかのように胸へ押しつける。ぷるぷると身体は小刻みに震え、感情が溢れないようにか背を丸めて蹲る。
座り込むように姿勢を低くしてしまった巴に、思わず輝子は手を伸ばしかけた。
「っ……、ひ、酷いことなんて、オレはおまえに言ってねぇだろうが! あぁもうつくづくてめぇは訳分かんねーなぁもうっ! 泣くんなら他所行ってくれ! 居心地が悪ぃ!」
「……っ、酷いのは……あなたにです。しょーこさん。……あなたに対して、あなたが! 酷過ぎるじゃないですかぁっ!」
顔を上げて、精一杯の怒鳴り声を上げた巴に――――輝子は、また固まってしまった。
理解が追いつかないんじゃない。理解ができなかった。希代巴という美少年がなにを思ってなにを言って、なにを伝えたいのかが、まるっきり、分からない。
「なに言って……オレは、ただ当たり前のことを言っただけで――」
「違いますっ‼ しょーこさんは、不良でも不良品でも役立たずでも事故物件でもありません! だって……だって、だってしょーこさん! 凄く優しいじゃないですかっ‼」
「…………?」
「眼つきに難癖つけられて絡まれたって、絶対に自分からは手を出さないですし! 授業に出ないのだって、以前に授業中を狙って、逆恨みした人たちが襲ってきたからでしょ⁉ 周りを巻き込まないために、ひとり悪役を押しつけられただけじゃないですかっ! それに、それに――――あの時……ぼくを、助けて、くれて……!」
「……あの時……?」
「っ……2年前、中学3年生の時に……暴走族が抗争しているところに通りがかって、巻き込まれたぼくを……しょーこさんは、助けてくれました。その場にいた人もバイクも、全部薙ぎ倒して、争いを終わらせて…………っ、ぼく、あの時、お礼も言えなくて……!」
「…………覚えてねーよ、そんなの。人違いじゃねーの――」
「だから! っ……そう言うと、思ったから……だから、ぼくは、あなたを、好きになったんです。あなたと、一緒にいたいと、なにより強くそう思ったんです――――なの、に」
ぼろぼろ、ぼろぼろと。
滂沱の涙を止めることなく、緩めることなく、巴は輝子を見つめている。
――――けれど、輝子にはやはり、分からない。
暴走族をいくつか潰した記憶はある。でも本当に、誰かを助けるつもりではやっていない。喧嘩を売られたから、望み通りにしただけの話。自分からは手を出さないとか、敵を自分に引き付けて周りに迷惑かけないとか、そんな当たり前を、優しいと評されても困る。
天雷輝子という人間は。
失敗作で不良在庫で事故物件で大外れで生まれてこなければよかったし死んでしまえばいいし生きている価値なんかないし誰からも必要とされないし生きているだけで迷惑だしいなくなった方がいいし存在自体が人類の黒歴史みたいな――――そんなモノなのに。
どうしてこの、人の好過ぎる少年は、そんな簡単なことも分かってくれない――……
「あ~~~~あぁ~~~~♪ 泣~~~~かせた~~泣~~かせた~~~~♪」
「――――っ!?」
――――一瞬で、全身に緊張が漲る。
知らない声で、しかも女の声――――珍しくはあるが、輝子が強張ったのは、別の理由。
女の声は、輝子の後ろから響いてきたのだ。
校舎の外壁をよじ登る以外に到達方法の存在しない、デッドスペースから。
あり得ざる異常事態に、輝子は膝立ちになりながら振り返る――――その途中。
10メートルほど先にあるフェンスに、さらなるあり得ざる存在を目にすることとなる。
「巴さぁん「いたいた巴ちゃんだ「巴様今日もお可愛い「泣いてる泣いてる「ぷるぷるして仔鹿みた「袖で、袖で涙ががが「いつ見ても可愛「なんで泣いてるの「あの涙欲しい「ぺろぺろぺろぺろ「巴の涙とか控えめに言ってご馳走「舐めたい吸いたい啜りたい「袖に染みた涙で1ヶ月は余裕「はぁはぁはぁはぁ「今キスしたら涙味「よく見たら汚れてる「一緒にお風呂「洗濯してる間に私の脱ぎたてを「むしろ脱ぎたての汚れ制服とかご褒美「涙染み染みネクタイで首絞めてほ「汚れ全部舐め取りたい「ズボン脱がして一生嗅いで「泣いちゃってる泣いちゃってる「お漏らしとかしてくれてたら「服脱ぎ脱ぎして一緒にお風呂「涙って孕めるっけ「お尻お尻お尻お尻「髪の毛食べたい「ほっぺやわもち「抵抗して噛んできてほしい「濡れちゃったから責任を取らせ「指ちっちゃいちゅうちゅう吸い「睫毛、睫毛咥えさせて「耳垢を舐め取りた「もういっそ巴さんを生みた「身体洗う時にこっそり乳「おち○ち○見たい咥えた「首筋はむはむ、はむはむ、はむは「剝製にしてコレクショ「手足切り取ったらますます可愛「お姉ちゃんって呼んで「むしろ下僕になりた「巴様こそ神「巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴巴――――――――――――――――」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
「――――――――っ⁉」
女子だ。
女子、女子、女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子女子‼
背後の壁の上、そしてフェンスの外側にしがみつく、女子の大群。
口々に変態的な願望を口にする彼女たちはしかし、輝子が見る限り本当にただの女子だった。喧嘩慣れしていない、教室の中に当たり前のように存在している一般女子生徒。
なのに――――彼女たちはひとり残らず、狂っていた。
声が明瞭に聞こえずとも察せてしまうくらい、明白極まりなく。
「「「「「巴(ちゃん・様・くん・たん・たま・ちんetc.)」」」」」
生唾を呑む音が、砲撃のように大きく聞こえる。
考えるより先に、脊髄の時点で『危険』というアラームは鳴り響いていた。
「「「「「今」」」」」
巴へ好意(?)を向ける、ざっと50人ほどはいるだろう女子の群れ。
泣いている想い人、その真正面には不良生徒。
そんな画があれば、誰だってそう結論するだろう――――狂っているのなら、なおのこと。
「「「「「その女、ぶち殺してあげるね♡」」」」」
「っ、んなんだよ一体ぃっ‼」
「、わゎっ⁉」
異質で異常な殺気に、輝子は咄嗟に走り出した。
地面を勢いよく蹴ったクラウチングスタート。弾丸のような吶喊は、しかし一斉に跳びかかってくる女子生徒たちに向けてではない。
正面にある、唯一の出入口。輝子が選んだのは、異様なる外敵からの逃走だった。
いつもなら、50人程度の軍勢、ひとりで平気に相手取るのに。
そして――――いつもと違う点は、もうひとつ。
「しょーこさん……! ぼくを運んでくれるなんて、やっぱり凄く優しくていい人――」
「違ぇわボケっ! てめぇが動線を塞いでたから仕方なくだよバカがっ‼」
顔を赤らめはにかませ、感嘆の息を吐く美少年に、反射神経だけで唾を飛ばして。
片手で木刀を、もう片腕で巴を抱えたまま、輝子は勢いよく階段を飛び降りていった。
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