「インコンプリート」シリーズ
丹路槇
リビジョン(エピソード4)
一週間ぐらい真夏日が続いている。妹がすっかりばててしまって、デイに行きたくない、ベッドに体が溶け出していて元に戻れない、強炭酸のレモンスカッシュをごくごく飲み干したいと発狂する。何度拾ってもすぐに彼女の左手がボックスティッシュを見つけて僕に投げつけてくるから、ため息の音がしないように注意して呼吸しながら、彼女の座位保持の車椅子をベッドのそばへ押していった。
「乗れよ」
軽い体を抱き起こし、枕に散らしてもつれた髪を手で整えてやる。不機嫌な妹は僕の手を邪険に払い、そうすることで重心が崩れてまた後ろにひっくり返りそうになるのを悔しそうに舌打ちした。僕が中学生だったら、八つ当たりで殴られたり罵倒されたりするのをすべて真に受けて、自分の半分くらいしか生きていない妹に対して、物陰に隠れてはさめざめと泣くことがあったかもしれない。いや、もう目の前で涙が漏れ出ていたかも。それでも僕が怒鳴り散らしたり彼女を無視したりすることはなくて、単に生活補助の段取りが悪かったことを反省するだけだった。
「あんたなんか嫌い」
「意見が合うね、僕もそう思う」
「でも、わたしのことは嫌いにならないで」
細い腕が僕の背中を心もとなく撫でる。服を掴まれる。他に掴まるところがないのは本当に物理的にそうなんだけど、彼女のままならなさが見えるみたいで、支えている手に少しだけ力が入る。
妹は生まれた時から右腕と両足のない子どもだった。切られたとか捥がれたとかではなく、忘れてきたって感じにどこもつけ根の少し先から全くない。骨ができたところに筋肉と皮膚が残って、やや装備不足の血液循環が並走して彼女の体は動いていた。僕らと同じ指先まであるのは左腕だけ、でも妹は、この一本でなんでもできてしまう。調べることも、外へ発信することも、意地悪も、優しい抱擁も。汗をかかない背中をパジャマの上から撫でつつ、僕はやはり今日も妹を特別愛していることくらいしか定かに答えは出せないな、と思った。
「生まれる前からずっと好き。だから今すぐにきみを外へ連れ出して、レモンスカッシュを飲ませてあげたいって思ってる、ねえエミュレット、それって間違ってる?」
エミュレット—―自分にへんてこな呼び名をつけている十一歳の少女は、僕に抱え上げられると居心地悪そうに拳で背中を叩いた。きっと今日の彼女は自力で導尿の処置をする気力もない。今すぐだなんて嘘つき、という罵倒の声が先に聞こえてしまい、ついににひとりで笑ってしまう。
池袋の芸術劇場に来ている。駅の改札階からふたつの階段を越える車椅子昇降機を使えば屋外に出ずに施設の中へ入ることができるのが便利で、ふたりでたびたび散歩に来る場所だ。バリアフリーという言葉が正しいかは分からないけれど、バリアをパスする各設備が行く先々で整えられているというのはとてもありがたいことだと思う。採算の取れない機械の莫大な保守費を法人や団体が負担し、インターホンで呼び出しをすれば必ずスタッフが駆けつけ、人間が階段を上り下りする数倍の時間を使って重たい乗り物を持ち上げたり下へ運んだりするのは並の移動ではない。昔、僕が億劫がって車椅子ごと彼女を抱えて階段を上ろうとした時にエミュレットがヒスったのでもうそんなことはしないけれど、いつか持ち上げても壊れない車椅子の開発が進めばいいのにとはまだ思っている。
「もしくは、管がない日とか、エミーはスリングに乗れる気がする。よく街で見るよね、ゆったりした麻布に入っている子ども。カンガルーみたいで可愛いって思ってた」
昇降機の作動音が止まるのを待っている妹にそう話しかけると、彼女はにこっと笑い返した。外出の気分がようやく体に馴染んできたみたいだ。
「トワ、前にもそれ言ってたよね。私も興味ある、気持ち良くて寝ちゃったりして」
「むずかって泣かれるかも。頑張って宥めるよ。お煎餅とボーロならどっちが好き?」
一階のアトリウムに着いた。以前に数回訪れていたベルギービールカフェが変わらずそこにあった。マチネのない平日なのか、窓際の席も空きがあって声がよく響く。妹はハンドルレバーを手際よく操り、メニューが書かれたポップを見に行った。
「あった! 生搾りレモンスカッシュ。あとチーズケーキもひとつね」
言われた通りに注文して、ソファ席で横に並んで座るかと提案する。車椅子から移動するのをさほど嫌がらない彼女は、自分で頭から突っ込んで座る位置を移動した。もっと派手に転ぶかと思っていたので、次はスカートを選ぶのをやめようと囁くと、妹は頬の膨らみに皺を寄せて笑う。
お気に入りのボタニカルデザインのストールを膝にかけてから、彼女は生搾りのレモンスカッシュをごくごくと飲み、チーズケーキをフォークで大きく切り取ってぱくぱくと口の中へ入れていった。僕が心配するくらいの食欲で、今日はすごく調子がいい、と彼女も素直に動く体を楽しんでいた。この先、夕方から翌朝くらいにまた熱が出たりひどい倦怠感が襲って、まったく起き上がれなくなる反動が来ることもじゅうぶん予想はできる。でも、それが怖かったらもうどこにも出かけられなくなるから。被るのはすべて彼女の体で、僕はただそれに付き合うだけなんだけど、いつか僕とエミュレットの中身が好きな時に簡単に入れ替わって、それぞれが交換先の体で生きてもいいよね、とけっこう本気で思っている。
「レモンがこんなに美味しく思えるの、初めてかもしれない」
妹は枯渇していた養分を補うように、いきいきとした顔で咀嚼し、ストローを吸っている。
「果肉を齧ってもいいかな」
「いいよ、ぶっ倒れて救急車に運ばれても、僕がなすすべなく静観してたみたいな言い回しで経緯を説明するだけだから」
「それ、本当のことよね」
「違いないよ。母さんだってきみを押しとどめることはできないもの」
一緒に頼んだアイスコーヒーからストローを抜き取り、グラスに直接口をつけて、喉仏を二回上下させた。ダンボールみたいな味がする紙ストローはまったくいただけないけど、酒を出す店でコーヒーが美味しいのはかなりの加点対象だ。香りがいい、後味がすっきりしているのが家のハンドドリップで淹れた感じににていてすごく好感が持てる。
滞在時間に合わせたらもっと早く飲み終わらなければいけなかったが、エミュレットが残す予定のチーズケーキがこちらへ回ってきた時にコーヒーが残っていないのは辛い気がするので、半分くらい飲まずに置いておいた。やがて妹は食べたり飲んだりするのに飽きたみたいに、アトリウムや窓の外を行きかうひとを観察し始める。
「きのうの晩に恋人に振られた顔ね」「派手だけど嫌味じゃない花柄ワンピース」「忘れものに気づいていなさそうじゃない?」「どうしても分かるのよ、彼女、看護師ね」「あの男のひと、自分がまだ父親になったことを自覚できてないんじゃないかしら」「疲れた目」「はしゃいだ足取り」「すごく緊張している、きっとこれから世界大会に出るのね、何のかは分からないけど」
ひととおり無作為に取り上げられ、彼女の独断と偏見で解釈されたあと、短い妄想を経てリリースされた人々がまたそれぞれの行先に向かって往来を横切っていった。僕はそれに訂正を求めたり注釈を加えることなく、黙ってうなづいてチーズケーキの減りぐあいをちらちらと確認する。
「ねえ」
さっきからケーキではなくフォークの先を食べ続けるようになってしまったエミュレットが、ふいにシルバーを置き、左手をちょっと上げて西口公園の方を指さした。
歩くひと、立ち止まって喋る集団、鳩の間を構わず通り抜ける老人、たぶん今すぐホテルに行った方がよさそうな濃密な雰囲気のカップル。
その奥の方で、公園のまわりを囲う低い鉄柵に向かってしゃがむ、男性の影が見えた。彼女が何か言う前に、僕も彼がチアキだとすぐに分かった。
「なにしてるのかしら、チャッキー」
エミュレットは知らないようだったけれど、僕は一昨日会った時に教えてもらっていたから、本当にやってるんだな、と思った。チアキは手に剪定で使えそうな和鋏を持っていて、柵に括りつけられている白いものをチョキチョキと切り取りポリ袋に入れて回収していた。
柵から外して処分しているのは、不織布のマスクだった。チアキがはじめにそれを見つけたのは、二か月くらい前の話だって。
ある日、彼は今の仕事場であるワンボックスの改造キッチンカーが停まる駐車場までの道を歩いていた。線路沿いのぽつぽつと街灯が立つ以外は雑草だらけの空き地が広がる歩道には、仮囲いの不法投棄防止パイプがずらりと列を作っている。列の遠く先、ぽつぽつと並ぶ白い点。風が吹くと揺れる。工事のマーカーなのか、軽いものが靡いているなと思ってチアキはそのまま行き先通りに白い点の列に向かった。
並んでいる不織布のマスクを見てなんだか気味の悪さを感じた。男性用の普通サイズ、よくあるワイヤー入りのプリーツタイプだ。未使用がそのまま括られているのか、片方のゴムの輪にマスクをくぐらせる格好でそれはパイプに結ばれていた。ほぼ等間隔で九つ並ぶ。翌日同じ道を通るとまたひとつ増えていた。これはいけないと思った。
「いけないって? チャッキーがそう判断したのかしら」
「うーん、どうだろう。表現の方向性について齟齬がないかを考えたんじゃないかな。マスクという物体の具体性や説得力とか」
エミュレットはさっきまで美味しそうに頬張っていたレモンの果肉を、急に酸っぱいと身震いして口から吐き出した。唇の端から溢れる唾液を先回りしたおしぼりで拭き取ってやる。「レモンの神の怒りに触れてしまったんだわ、トワも気をつけるのよ」と真顔で告げる妹の顔に向かって、不覚にも声を出して笑ってしまった。
「それで、マスクは今も彼の周りで増え続けている」
「流行ってるのね、遊びとしてはつまらない部類だけど」
「相手はターゲットを変えたかもしれない。チアキと遊ぶならすごく楽しいから」
僕が悔しそうに言うと、きっとそういうのじゃないと思うと妹は肩をすくめた。
「とにかく、彼はマスクのリムーブで忙しくなっちゃった。僕に事の経緯をつぶさに語り、理解を得たいと考えるくらいにね。ありがたいことだよ、こんな僕にも秘密を持たずに打ち明けてくれる、どんなに大変な状況でも忘れられないっていうのが」
「やや自虐的ね」
「そうでもないよ」
「チャッキーはあなたを愛してる、本当に、心から」
「うん、そうだといいな。本題じゃないけど」
シルバーは紙ナプキンに包まれ、エミュレットの五本指によって綺麗に磨き上げられた。彼女の器用に動く手と腕は、時に両手両腕よりも素晴らしい働きをすると思う。僕の片手では腕時計のベルトを止めるのに何分もかかってしまうし。それが億劫でシリコンにマグネットが入ったベルトを選ぶようになったって、彼女に知られるのは恥ずかしいからずっと黙っている。
窓の向こうのチアキはマスクの収穫を終え、その場で静かに立ち上がった。公園の先にある道路を眺めている。舗装中の道路に置かれた通行止めのパイプに、小さな点がひらひらとなびくのを見ているらしかった。
マスクの諧謔は何か大きなメッセージを孕んでいるのだろうか。ヒトの無関心や無責任に鋭く指摘するような行為、または、清潔なものを汚物のように変える力を顕在させること、あるいは。
こういう読解は子どもの頃からあまり得意ではないけど、解けない問題の前で背中が痒くなる時と同じで、そこにいても仕方がないのに、背を向けて立ち去ることもできない自分がいた。エミュレットは僕にチーズケーキを渡してしまうと、満足そうに目を細めた。
「ああ、早くベッドに戻りたい、なんて、死んでも言わない」
「棺桶に入りたいって言ったって、死なないんだろうからな」
「失礼な兄ね」
「千世に似たんだよ」
彼女のことを本当の名前で呼ぶと、エミュレットは調子が良くて上機嫌の時と同じように、僕のことをこっぴどく罵った。誰だろう、彼女にアオサギが消化に失敗して吐き出したドブネズミの腐った死体ことを喋って、それが妹の名前の響きとそっくりで虫唾が走るだなんて嘘を吹き込んだのは。お願いだからケーキを口に運ぶ最中にあの映像を連想させないで。どこにも浮かんでいない情景の靄みたいなのを手で大きく払うと、窓の外側にいた遠くのチアキが僕らに気づいた。
まっすぐ伸びた綺麗な姿勢で、ひとつの無駄もなくこちらへ歩いてくる。折った腕で顎の下に滴る汗を拭っていた。そうか、野外はアトリウムで過ごす僕らが思うよりずっと暑い。帽子を被っていないチアキの髪が風にそよぐ。
彼がぶら下がったマスクをどんなに摘んで集めても、街に広がるリビジョンは進み続けるに違いない。内なる苦痛を訴える声なのか、大きなムーブメントの不文の呼びかけなのか、傲慢なのか、諦念なのか、展示の意図は不明なままだ。もしかしたら上空から俯瞰して見るのが正解なのかもしれないし、和鋏で詰んだのを魔女狩りみたいに燃やしたらさらに情勢は変容を遂げるかもしれない。
街での収穫を終えたチアキは、ポリ袋の取っ手を交差させて引き結び、そのままマスクを自分の鞄にしまった。もっと僕に抱きつきたくてたまらないみたいな表情でいてほしかったけれど、彼はエミュレットにも僕にも同じような親しみと短い挨拶のしるしを送っただけだった。
「行っちゃうのね」
「そうだね」
「またすぐ帰ってくると思う?」
「いや」
僕はカウンターにいる店員の背中を一瞥してから、チーズケーキを一口でぜんぶ食べ終えてしまう。
「そう簡単に帰ってこないよ。だけど平気、たぶん僕、彼を探すのすごく上手なんだ」
ご馳走様を言うと、妹は車椅子昇降機の緩慢で退屈な時間を思い出して呻いた。窓の外の空になった鉄柵を見て、もっとしがみつきなさいよ、とわけもなく憤っている。もしかしてパイプに結ばれてぶらぶら揺れる白いマスクは、彼女のこぼす皮肉にいつしか形ができてワイヤーを通したものだったのかも。
〈了〉
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