コンクラーベ・アポカリプス カラテ枢機卿

中埜

第一話:聖拳よ、鐘を鳴らせ

教皇が崩御された。

戦いが、始まる。


世界中のカトリック教徒は、いつものように次の教皇が厳粛な選挙『コンクラーベ』で選ばれると信じて疑わない。バチカン市国に集う枢機卿たちが、システィーナ礼拝堂に籠り、祈りと熟議の末に新たな指導者を決めるのだと。サン・ピエトロ広場の群衆は、煙突から立ち昇る煙の色を固唾を飲んで見守るだろう。白い煙なら決まり、黒い煙なら持ち越し。テレビのニュースキャスターは神妙な顔で最新情報を伝え、専門家たちは候補者の派閥や経歴を分析してみせる。――全くもって、結構な茶番劇だ。

現実を知る者は、バチカン内部のごく一部。そして、これからその現実を生き抜かねばならない者たちだけだ。

サン・ピエトロ大聖堂へと続く荘厳な回廊。深紅の法衣を纏った枢機卿たちが、最終決戦の地、システィーナ礼拝堂へと向かっている。彼らの顔には悲しみなど欠片もない。あるのは剥き出しの野心、滾る闘争心、そして、他の全てを喰らい尽くさんとする飢餓感だ。

その列の後方、ひときわ異彩を放つ老人がいた。東洋系の顔立ち、七十は超えているだろうか。比較的小柄だが、その歩みには一切の揺らぎがない。彼の名はジョバンニ・"ケンシン"・ヤマダ。人呼んで「カラテ枢機卿」。その両の拳は、まるで長い年月をかけて磨き上げられた黒曜石のように硬質で、指の関節は常人離れして太く、鍛え上げられている。その拳が握られる時、周囲の空間がわずかに歪むように見えるのは、気のせいではないだろう。


「おい、そこのジャポネ!」


突然うしろから、下卑た声がかかった。振り返るまでもない。イタリア系の、恰幅の良い枢機卿――マルコ・ファルネーゼ。彼は常に数人の屈強な従者(という名の私兵)を引き連れている。

「貴様のような異教の猿真似が、この神聖な場にいること自体が間違いなのだ! その汚れた法衣を剥いで、犬のように這いずり回らせてやる!」

ファルネーゼが合図すると、従者たちがヤマダを取り囲む。彼らは法衣の下に鈍色のチェインメイルを纏い、腰にはメイスやソードブレイカーを吊るしている。どう見ても聖職者の護衛ではない。

ヤマダは足を止め、静かに振り返った。その瞳は、凪いだ湖面のようだ。

「…道を空けていただきたい。急いでいるので」

「ハッ! この期に及んで命乞いか? だが遅い!」

ファルネーゼが手を振り下ろした瞬間、従者たちが一斉に襲いかかった! 鋼鉄のメイスが風を切り、鋭い剣先がヤマダの喉元を狙う!

だが、次の瞬間、従者たちは全員、宙を舞っていた。

ヤマダが動いたことすら認識できなかっただろう。彼は最小限の動き――踏み込み、半身になり、回転――だけで攻撃を捌き、同時に放たれた不可視の打撃(掌底、貫手、肘打ち)が、従者たちの鎧の隙間、人体構造上の急所を正確に打ち抜いていたのだ。衝撃は内部にのみ浸透し、彼らの意識を刈り取り、あるいは骨を砕き、戦闘能力を完全に奪った。ゴロゴロと転がる従者たち。

「な…!? き、貴様ぁ!」

ファルネーゼが驚愕と怒りに顔を歪ませ、法衣の下から十字架を模した異形の短剣を抜き放つ! それは禍々しいオーラを放っていた。

「異端の妖術め! 神罰を――」

言い終わる前に、ファルネーゼの視界からヤマダが消えた。

気づいた時には、背後に立たれていた。首筋に、石のように硬い指先が触れている。

「……っ!!」

ファルネーゼは金縛りにあったように動けない。全身の血が凍りつくような、絶対的な死の予感。

「無駄な殺生は好まぬ」ヤマダの声は静かだった。「だが、道を阻むならば、話は別だ」

指先に込められた圧力が、ファルネーゼの頸椎を軋ませる。

「ひ…っ! わ、分かった! 退く! 退くから!」

ファルネーゼが情けなく叫んだ瞬間、圧力が消えた。ヤマダは既に数歩先を歩いていた。ファルネーゼはへなへなと膝をつき、荒い息を繰り返すしかなかった。

ヤマダは何事もなかったかのように、システィーナ礼拝堂へと続く扉をくぐった。


礼拝堂内部は、既に異様な熱気に満ちていた。ミケランジェロの『最後の審判』が見下ろす中、選ばれし(あるいは呪われし)枢機卿たちが集結している。その数は五十名ほどであろうか。古の盟約により、今回は「資格を持つ者」だけが招かれたのだ。

扉が重々しい音を立てて閉じられ、外から鍵がかけられる。完全なる密室。

中央に進み出たカメルレンゴが、短く、しかし腹の底に響く声で宣言した。

「古の盟約に基づき、これより神聖闘儀を執り行う!」

彼は手に持った黄金の杖を床に打ち付ける!

「“コンクラーベ・アポカリプス”――始めよ!!」

ゴォォォン!!!

宣言は、神聖なる闘争の開始を告げる鐘の音となった!

「ヒャッハァァァ! 聖なるルチャの祭典だぜぇ!」

最初に飛び出したのは、天使の意匠が施された派手な覆面を被った枢機卿、エル・サント・パドレ! 彼は祭壇に向かって一直線に走り、その縁を踏み切ると、信じられない跳躍力で天井近くまで舞い上がった!

「見よ! 天使の断頭台(エンジェリック・ギロチン)!」

彼は空中で回転し、近くにいた別の枢機卿の頭部めがけて、かかと落としを叩き込む! 目にも止まらぬ空中殺法!

「フン、道化が!」

稲妻が走り、それを牽制する! 雷帝枢機卿だ!

「聖釘の雨に跪け!」

ハインリヒ枢機卿の魔改造ネイルガンが火を噴く!

混沌! 狂乱! 阿鼻叫喚! まさに黙示録!

そんな中、枢機卿アントニオ・ボルジアは、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。彼は傍らに控える若い付き人ルカの襟首を掴み、まるで盾にするかのように前に立たせる。

「ルカ! ぼさっとするな! 私の聖なる盾となれ! 念動力の触媒にも丁度いい!」

ルカは恐怖に震えながらも、逆らえない。ボルジアは、この混乱に乗じて邪魔者を排除しようとしていた。彼のターゲットは…またしても、壁際に静かに佇むヤマダだった。

「おい、カラテのジジイ! さっきの威勢はどうした! この私、ボルジアが直々に相手をしてやる!」

ボルジアはルカの身体から強引に生命エネルギーの一部を吸い上げ(ルカは苦悶の表情を浮かべ、腕に痣のようなものが浮かび上がる)、それを自身の念動力に変換する!

「我が力の前では、貴様の拳など赤子の腕にも等しいわ! 死ねぇ!」

砕けた大理石や燭台、果ては他の枢機卿が放った攻撃の残骸までをも念動力で操り、巨大な瓦礫の塊としてヤマダに叩きつけようとする! それは先ほどの比ではない、圧倒的な質量と悪意の塊だった!

ルカは目を閉じた。主人の攻撃の余波で自分も死ぬかもしれない、と。

だが、ヤマダは動じていなかった。

「愚かなり」

彼は静かに呟くと、迫りくる瓦礫の塊に向かって、一歩踏み込んだ。そして放つ。ただ、真っ直ぐに。

「聖拳(サンクトゥス・セイケン)」

その拳は、物理法則を嘲笑うかのように、瓦礫の塊の中心を貫いた。いや、貫いたのではない。ヤマダの拳から放たれた、目に見えぬ純粋な信仰エネルギーの衝撃波が、瓦礫の塊を内部から粉々に爆砕し、ボルジアの念動力を霧散させたのだ!

「ば…馬鹿な!? 私の力が…!?」

ボルジアが驚愕する間もない。爆砕した瓦礫の中から、ヤマダの拳が寸分の狂いもなくボルジアの鳩尾へと吸い込まれていた。

ゴッ!!!

ボルジアの身体が、ありえない角度に「く」の字に折れ曲がり、砲弾のように吹き飛んだ!

彼は床を数度バウンドし、そのままの勢いでシスティーナ礼拝堂の分厚い壁に激突! メリメリッという鈍い音と共に、その身体は壁に人間型のクレーターを作り、めり込んで停止した!

「ぐ…ふ…っ」

ボルジアは口から血反吐を吐き、完全に意識を失っている。もし彼が枢機卿としての聖なる加護を受けていなければ、もしその肉体が人並みのものであったなら、間違いなく即死していただろう。だが、肉体は辛うじて繋ぎ止められていても、その傲慢な魂、他人を利用し虐げることを躊躇わなかった邪な心は、ヤマダの「聖拳」によって根元から断ち切られていた。もはや、彼が以前のような力を振るうことは二度とないだろう。


神の裁きは、時に物理的な破壊を超えて、魂の深淵にまで及ぶ。


『思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。』(ガラテヤの信徒への手紙 6章 7節)


まさしく、ボルジアは自らが蒔いた悪意の種を、最も苛烈な形で刈り取ったのであった。


「……」

ヤマダは静かに拳を収める。

辺りは一瞬静まり返るが、すぐに他の場所での戦闘が再開される。

ルカは、壁にめり込んだ主人の無残な姿と、平然と佇むヤマダを交互に見て、ただただ震えていた。主人が酷い人間だと分かっていても、その圧倒的な敗北は衝撃だった。そして…自分を虐げていた存在がいなくなったことへの、僅かな安堵。さらには、自分もボルジアの攻撃に巻き込まれて腕に怪我を負っていることに気づく。

ヤマダは、そんなルカを一瞥すると、踵を返した。

(このままでは、自分も殺される…!)

ルカは本能的に感じた。だが、どこへ行けば? どうすれば?

「ま…待ってください!」

ルカは、自分でも信じられない声を出していた。彼は怪我をした腕を押さえながら、ヤマダの後を追う。

「枢機卿様…! いえ、ヤマダ様!」

ヤマダは足を止めるが、振り返らない。

「わ、私は…どうすれば…? あなたは…一体…?」

言葉がまとまらない。ただ、目の前の、得体の知れない、しかし自分を虐げる者とは違う「何か」を感じさせる老人に、必死に問いかけるしかなかった。

ヤマダは、しばし沈黙した後、静かに答えた。

「…知らぬ。己の道は、己で切り拓くものだ」

「道…?」ルカはその言葉を反芻する。その言葉に、何か特別な響きを感じた。

ヤマダは、それ以上何も言わず、再び歩き出そうとした。

ルカは咄嗟に叫んだ。

「お、お待ちください! 私も…私も連れて行ってください! ここにいたら…死んでしまいます! 雑用でも何でもしますから!」

ヤマダは一瞬だけ足を止め、肩越しにルカを見た。その瞳には、やはり何の感情も読み取れない。

「……好きにするがいい」

それだけ言うと、ヤマダは混沌の中へと歩みを進めた。ルカは、その言葉に一縷の望みを見出し、必死にその後を追った。


システィーナ礼拝堂という聖なる信仰の坩堝(るつぼ)の中、神の代理人たる資格を問う、厳粛なる試練は始まったばかりである。老いたる東洋の求道者と、導きを求める若き魂。彼らの歩む道程が、いかなる運命を辿り、そして主の御心がどこに示されるのか。それは、この神聖なる闘儀を見守る、天上の父のみぞ知ることである。

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