短編集『キリトル。』
斎 透(さい とおる)
第1話 『あおい春』
やるせない夜。
誰にだって、心に奈落の穴が空いてしまったような、二度とこの隙間は埋まらないのではと感じる夜が、訪れるのだろうか。
学生時代、学級委員をしてたあの子も、野球部の人気者だったあいつも、チアリーダーをしていたあの子も…。
こんな夜を乗り越えていたりするのだろうかーー。
歩道橋を登る、重い足取り。
古いコンクリートに、安物のローヒールが鈍い音を沈ませる。
24時になった帰路は、東京といえど人通りも少ない。疲れ果てた私と、疲れ果てたコンクリートジャングル。
三寒四温、なんて日本語があるくらい、この季節は忙しい。
“寒の戻り”があったと思ったら、いきなり昼は春、桜の足音が聞こえたりする。
しかし朝早くの電車に乗って、この時間に帰る生活が当たり前の社畜には、冷えた空気しか当たらない。
もう少し、ダウンを仕舞うのを我慢すればよかったか、と思いながら歩道橋の錆びた手摺りに手をかける。
冷たい感触、荒れた指の先には、つま先の禿げた靴…。三十も過ぎて、こんな安物の靴を履くなんて、あの頃の私は想像もしなかった。
そう、あの時ーー。
クラスの片隅から、輝く彼女をひたすら見つめた、
真ん中に居られなくても、それでも過不足なく ー今思えば、あれが“幸せ”だったんだろう。
幸せとは、ふわふわした甘いものじゃなく、過不足のない、ニュートラルな状態だったのだ、と気がつくのに、三十余年もかかってしまった。
あの頃の皆は、それにもう気が付いていたのだろうか。
その、幸せの味も知らない頃の、あの毎日。
私は教室の窓側の後ろの席になることが多くて、彼女はなぜかいつも前の方の席だった。
今思えば、目が悪かったのか、彼女がそんな、“何か足りない体”を持ってるようには露ほども思わなかったあの時の私の目には、
ひたすら黄色だか、金色だか、ただ彼女が輝いて見えていた。
あおいちゃん。
授業中手を挙げるタイプでもなく、足が速いわけでもない。
だけどチアリーディング部を熱心に続けていて、下校のときにチラリと見える練習する姿は、まるで妖精のようだ、なんて思っていた。
私と彼女はいわゆるグループ −いや、カーストと言ったらわかってもらえるだろうか− が違くて、
でもたまには話すし、いじめがあるようなクラスでもなかった。
彼女の連れは目立つタイプが多くて、派手な髪型、バッグには大きなぬいぐるみ、ブレスレットやネックレスまでつけてる子もいたのを覚えているのは、私が羨ましいと思っていたからだ。
彼女がたまに授業で発言するだけで、その鈴のような声に私は眠りの世界から現実に引き戻され、誰にも知られず脳内でうっとりしていた。
特別美人なわけでもない、そりゃブスでは決してないけれど、男子がチヤホヤしたり、学校のマドンナというポジションでもなかった彼女を、人知れず崇拝したのは、あの夕焼けの時間があったからだ。
「吉木さん、忘れ物?」
太陽が燃え、世界が終わる。
そんなことを言われても信じるほど、絶望的な夕焼けの日だった。
テスト前なのに教科書もノートも持ち帰るのを忘れた私が、珍しく遅い時間に教室のドアを開けた。
鈍い引き戸の重み、夏の始まりを感じる、湿った空気に、真っ赤な室内。
鈴の鳴るような、美しい声の、問いかけ。
「柴田さん…」
あまり話したこともなく、名前にも自信がなかった。脳みそをフル回転させて苗字をつぶやいた感覚も覚えている。
半袖のシャツから見える細い腕が、太陽に照らされて橙色に輝く。小さい顔がこちらを向いているけれど、逆光のせいで表情は見えない。
「教科書忘れちゃって…」
笑顔が作れていただろうか、なぜか背中に汗をかきながら、教室に足を踏み入れる。
「吉木さんに、なりたいな」
自分の席まで足早に移動していた私の首筋に、ありえない言葉が届く。
私に、なりたい?
作ったはずの笑顔もこぼれ落ち、そのままの私が目を向けた先の彼女は、
泣いていた。
実際はわからない、逆光でずっと表情なんて見えなかったはずなのだ。
泣いていた、と思いたかったのだろうか。
静かに土を舐めていく太陽、赤すぎる光。
電気もついていない室内では、彼女のシルエットしか捉えられない。
「柴田さん、なんて…?」
よそゆきの顔も作れないまま搾り出した言葉は、それだけ。喉が渇いたわけでもないのに、空気が逃げていく。声がでない。
「柴田さん、なんてやめてよ。あおいでいいよ」
震えるような声だった気もする。
そうでもなかった、笑うような声だったのかもしれない。
もうわからなくなっていた。
彼女はくるりと背を向け、短いスカートの裾を揺らした。ピンクの猫のマスコットが、鞄で小さく跳ねる。
「また明日ね」
最後まで顔がはっきり見えないまま、軋む引き戸が閉まっていった。冷たい廊下の雰囲気と、軽い足音が遠のく。
世界の終わりを告げるはずの太陽も、もう土を舐めきった。
教室は、影に包まれる。
季節は汗をかきおわり、葉も紅くなるのを待つ頃。
体育祭での彼女は、私にとってはヒロインだった。
あの夕焼けの日から、特に親しくなるわけでもなく、気まずくなるわけでもなく過ごした日々は、あれは白昼夢だったのだと思い込むのに十分な年月を有していた気がする。
「吉木さん、放送委員だったの、なにげに知らなかったな」
汗を拭きながら隣に立つ彼女が、私に笑いかける。
「昼放送とか、集会の放送とかやってたんだけど、まあ声だけじゃわからないよね」
鼓動が彼女に聞こえてしまうのではないかと、手に汗が滲んだ。
「柴田さんのチアリーディング姿、すごく良かったよ」
手のひらを隠すように握り、目の前の彼女を目を細めて見返した。
私には、眩しすぎる。白い鎖骨、汗で首元に張り付いた、茶色い髪。
「…見ててくれたんだ、嬉しい」
困ったように笑い、手を振って去って行く。
ふくらはぎについた砂すら、演出に見えるほど、今日の彼女はヒロインじみている。
そう思うのは、私だけなのだろうか。
彼女はすべてを持っている。
私のように劣等感まみれで毎分を過ごすことなく、この限られた学生時代を謳歌している。
翳りのない笑顔、控えめでいて、芯のある眼差し。
かわいいマスコット、鞄、文房具、カーディガン。
私には一つも似合う物なんかない。
彼女が私に微笑みかけるのは、クラスメイト全員にそうしているからで、他意のない笑顔だ。
つまらない年末年始を超えて、真冬の寒さの中の登校がまた始まる。
あの日は、窓の外は雲が迫り出し、今にも水分を抑えきれなくなりそうな、暗い日だった。
ストーブを囲んで、彼女のいるグループが談笑している。
私は相変わらず、後ろの席からぼうっと眺めていた。短いスカートから覗く足が、心なしかまた一段と細くなった気がする。指先と首元も、なんだか痩せて見える。
胃腸の風邪でもひいたのだろうか。ダイエットの必要は、ないわけだし…。
ガラスを大きな雨粒が叩き始めた。
この胸のむかつきは、思春期特有のものだろうか。
母は、若いわねと笑うけど、私は自分自身がこういう人間 −鬱々とした、不幸ぶりたい、嫌な女− である可能性をすでに見出していた。
絶望する。
自分が1番嫌いな人種に、自分が1番近かったことに、気がついてしまった。
窓の外で水を浴びて荒れ狂う木々を見ていた視線を前方に戻すと、彼女と目が合った。
いつも輝いて水晶玉や宝石のような瞳が、今日は瞳孔にぽっかり穴があいている。
深淵を覗き込むような、空虚な瞳。
心なしか頬もコケて見える。この天気のせいだろうか。
彼女は自然に視線を外し、席についた。
冷たい風が頬を撫でる。ダウンも着ていない体には、温度が低すぎるらしい。肌が粟立つ。
たまに往来する車を見下ろしたまま、あの頃に心が帰っていた。
そう、あの日もこんな、春を待ち侘びる、肌寒い空気だった。
匂いだけ青々しく、春を予感させるのに、まだ空気は冷たく澄んでいた。
春休みも目前。梅も桃も咲き、あとは桜を待つばかり。
そんな日に、あの知らせを聞いたんだ。
「柴田あおいさんが、亡くなりました。事情がおありなので、通夜への列席はできないそうです」
うまく息を吸えない、吐けもしない、やる気のない気管。鼓動だけが早くなり、指先が痺れる。足の感覚もない。
大声を上げる生徒もおらず、ただ一瞬どよめいただけで、鼻を啜る音が聞こえてくる。
その音も遠い、耳鳴りがする。
黙祷する、だの、心のケア、だの…担任が何か話し続け、皆、各々に俯き気味で鼻を啜りながら聞いていた。
窓の隙間から、緑の匂いが漏れてくる。
春が来る。
私は一度も名前を呼べないまま、
彼女はもう、桜を見ないまま。
気がついたら、春休みが数日まで迫っていた。
メンタルケア、と称してカウンセラーとの面談が組まれた以外は、教室の空気は元通りになっている。あれから数日で。
彼女がいない、ただ、それだけ。
冗談を言い合う男子、携帯を触る女子たち、隅でノートに向かうあいつ、いつも通り突っ伏して眠るあの子。
彼女の空白なんて存在しないように、でも確かに前列の机は誰も触らないまま、そこに在る。
夜の空気を肺いっぱいに吸い込んで、冷たくなりきった指先を擦りあわせる。
指に錆の匂いが染み込んでしまったかな、何分こうしていたんだろう。
こんな春の足音が聞こえる日は、毎年ついつい引き戻される。
彼女がいた、あの教室。
私にとっての彼女と、彼女にとっての私は、きっと違ったんだろう。
大人になって知ったのは、彼女の家庭は複雑で、大変な生活を送っていたらしいということだ。
そんなことに微塵も気が付かず、ヒロインだの、マドンナだのと、勝手に崇拝していた若い自分が嫌になる。
だらだら生きてしまった私は、不幸ぶっていた少女のまま、誰にもしっかり向き合えないでいる。
立派な会社に入ることも、素敵な恋愛をすることも、全て自分の物語ではない、『あの子』の物語なんだと諦め、そうやって捻くれて生きているのだ。
しかしあの日々は、確かに満たされていたのだと、今日の私はわかっている。
そして、捻くれた私が私なんだと、
もう諦めがついてるし、少しだけ、愛しく思うことも出来る自分がいる。
しかし、あの頃、
彼女はチャンスをくれたのに、
踏み込まず傍観者に徹した日々を、後悔しなかったことはない。
彼女が逝ってしまうことが変わらなかったとしても、
ただひたすら、
呼べば良かった、名前を。
『あおい春』
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