第18話 名づけ

 露姫つゆひめは優秀な巫女だった。

 様々な祝詞をよどみなく捧げ、印やまじないにも通じている。歌を詠むこともでき、舞にも秀でていた。


 今も燎原りょうげんを臨む神楽殿かぐらでんに美しい声が響いている。

 舞に合わせて巫女装束の裾が揺れ、早朝の風に長い黒髪がそよぐ。


  ほどきたる白鳥しらとり

  彷徨いさようことなかれ

  あおなる野辺のほむらに沈みて

  いまふたたびてよりめぐ


 白い暁の空へと昇ってゆく声を聴いていると、黄泉神よもつかみの核が鼓動する。露姫の存在と共鳴するように震え、からだにめぐる力が増していく。

 燎原は勢いよく燃え上がり、魂たちのまとう怨みや哀しみを次々と灰にしてゆく。やがてすべてが清められ、蒼い炎は静かになった。

 露姫が朝日を背に振り返り、黄泉神よもつかみの顔を見やってにこりと笑む。彼もまた微笑みを返した。


 神楽殿の階段を下りると、犬たちが目を輝かせて二人を見上げていた。

 露姫は彼らの頭をそっと撫で、黄泉神よもつかみを振り仰いだ。


黄泉神よもつかみ様、この子たちに名前はあるんですか?」

「いや、特にないが」


 名づけが禁じられているわけではない。ただ、この眷属たちを生み出したとき、黄泉神よもつかみにその発想がなかっただけのことだ。

 露姫はしばらく考えるようにしてから、小さく笑んだ。


「でしたら、私がつけてもいいかしら」

「ああ……構わんが」


 すると露姫の顔がぱっと明るくなった。


「よかったわ。呼び名がないと落ち着かないし、距離があるように感じてしまって」

「まあ、それもそうか。今までは私とこやつらだけだったから気にしてはいなかったが、お前にとっては不自然だろうな。好きな名をつけてくれ」


 二人の会話を理解しているのだろう、犬たちも尾を振って姿勢を正す。

 露姫は黒犬を、次いで白犬を見やった。


「じゃあ、あなたは……黒輔くろすけ。あなたは白丸にしましょう」


 犬たちはしばし、露姫をじっと見上げる。やがてその口が開き、幼子のような声がこぼれ出た。


「くろすけ」

「しろまる」

「……話せるようになったのか、お前たち」


 驚く黄泉神よもつかみを前に、犬たちは再度声を発した。


「はい。我が名はくろすけ、でございます」

「しろまるでございます! よろしくお願い申し上げまする!」

「お前たち、そんな性格だったか?」


 名は体を表す、と言うらしい。かわいらしい名をつけられたことで犬たちの性根もそちらへ振れたか。

 だが嬉しそうに言葉を交わし合う露姫と犬たちを見ていれば、悪い気は全くしなかった。


  ***


 ゆるやかな風が吹く。広がる夜空の下、暗い池が星明かりを受け止めてきらめいている。

 屋敷の釣殿つりどのからそれを見つめている乙女の後ろ姿に、黄泉神よもつかみは静かに歩み寄った。


「美しいな」


 すれば露姫は振り返り、目を細めた。


「ええ、本当に」


 黄泉神よもつかみは曖昧に微笑む。この風景にかけた言葉でもあったし、本当は目の前の彼女に抱いた感慨でもあった。


「黒輔と白丸はいないのですか?」

「今は下がらせている。朝からはしゃいで話し続けていたから、いい加減やかましくてな」

「ふふ、そうですか」


 露姫はくすくすと笑う。それからふいに、真剣な目を彼に向けた。


「ねえ、黄泉神よもつかみ様。あなたにもお名前はないのでしたよね」

「そうだが」

伊邪那岐命いざなぎのみこと伊邪那美命いざなみのみこと……多くの神様には名前があるのに、あなたはただ『黄泉の神』というだけ」

「……まあ、呼ぶ者もないからな」


 黄泉神よもつかみは小さく息をつき、釣殿の手すりにもたれて夜空を見上げた。


「記憶を遡る限り、私はずっと独りでここにいた。現世うつしよでは、黄泉の主宰神は別の神ということになっているから、祈りを捧げられることもない。だから名前などなくても問題はないのだ」


 露姫は黙って彼の横顔を見つめ、やがて口を開いた。


「今は私がいます。……もしよろしければ、お名前を捧げても?」

「私に、か?」

「ええ」

「丸で終わるような名は勘弁してもらいたいものだ」


 わざとからかうように言う。だが露姫の真剣な瞳に見つめられ、笑みはすぐに姿を消した。


「……よかろう。名を与えよ、我が巫女」


 黄泉神よもつかみが言うと、露姫は彼の姿をじっと見つめた。

 瞬く星を抱いたような彼の長い髪を、彼女のまなざしが撫でる。やがて薄紅色の唇がそっと開いた。


「――火垂ほたる

「火垂?」

「ええ。あなたは夜空にほのかな光の舞うようだから」


 火垂……、と口の中で転がしてみる。自分に似合う名だろうか。彼には分からない。

 だが、とても幸福な響きには違いなかった。


 彼は乙女の白い手を取った。丸い瞳を覗き込み、やわらかく微笑んだ。


「では、私からもお前に特別な役割を与えよう。――我がつまとなってはくれないか、露姫」

「えっ」


 彼女は目を見開く。白い頬がわっと紅色に染まった。


「婚礼を挙げれば、我らの力の結びつきはいっそう強まる。この黄泉と現世の平穏を、共に、永久とわに守ることができる。どうだろうか――我がつま巫女みこの座に就くのは」


 儀式のときの落ち着きが露姫の顔から完全に失せた。

 あわあわと口を開いては閉じ、湯気の立ちそうな顔色で、来ない助けを求めて周囲を見回している。


「そ、そんな、つまだなんて……私のような者が、そこまではいくらなんでも……」


 その声、その姿さえも愛おしくて、黄泉神よもつかみは――否、火垂は笑う。


「構わない。ゆっくり考えてくれ。黄泉の時はゆるやかだ。……私は、いつまででも待っている」


 華奢な手をそっと持ち上げ、静かに頬を寄せた。露姫は今度こそ倒れてしまいそうな赤面ぶりで、それでも小さく頷いた。

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