第15話 熱病

 暗い部屋で身を丸めて泣いていると、言いようもない寂しさが募ってたまらなくなった。

 サナエはぐいと目元を拭き、寝巻代わりの小袖姿のまましとねを立った。


 御簾みすを上げて簀子すのこえんへと踏み出す。明けない夜空を見つめ、ぼんやりと立ち尽くした。

 冷たい風が髪を揺らす。頭上、遙か遠くで星がまたたく。それを見て、また涙が頬を伝った。


 ――火垂ほたる

 あなたは、何者なのか。


 寂しかった心の隙間に、いつしかそっと滑り込んできたひと。

 確かに自分を見守り、支えてくれていたひと。

 禁忌を犯してでも自分を黄泉に留め置こうとして――それでも思い直し、守ってくれたひと。


 どうしてそこまでしてくれた。あれほどまでに想ってくれた。

 これまではなぜか不思議に思わなかった。彼の存在があまりにも自分に馴染んだからだろうか。


 でも、彼をおそらく失った今となっては、心に思いが渦巻く。

 彼は何者か。ずっと昔からサナエを見ていると言った彼は。よい名をもらったと喜んだ彼は。サナエの知らぬ何かを知り、そのうえで愛してくれていた彼は。


 ――体がいかずちに打たれるような感覚がしたのは、そのときだった。


 サナエは大きくよろめいた。

 心の臓がはしっている。呼吸が引き攣れて乱れる。全身をびりびりと痛みが駆け抜け、去ってゆく。


「な、に、これ」


 痛みの余韻の中、ふと、何かに呼ばれているように思った。額ににじむ脂汗をぬぐいながら、暗い渡殿わたどのの向こうを見つめる。

 今すぐに行かなくてはならない。そんな気がした。


  ***


 屋敷中の松明が消えていた。星明かりだけを頼りに、建物と建物をつなぐ渡殿を小走りにゆく。行く当てが分かっているわけではない。ただ心臓の鼓動が呼ぶ方へと足を進める。

 最大の建物である寝殿へとたどり着き、庭に臨む簀子縁へ出たとき、暗い影がひとつ、倒れているのが見えた。

 サナエは声を上げ、小袖の裾をからげて駆け寄った。


「――黄泉神よもつかみ様!」


 倒れ伏した黄泉神よもつかみは、サナエの声にも反応しなかった。

 そばに膝をつき、力の抜けた体を膝に抱え上げた。荒い呼吸が美しい唇からこぼれている。彫刻のようなおもては青白く、一切の生気を失っていた。


 どくん――どくん。


 サナエの心臓が脈打つのと同じ拍動で、彼の体が熱を発する。燃えてしまいそうな熱さがその身をいては、氷のような冷たさに変わる。

 この――共鳴。これは只事ではない。感じ取れる。魂に響く。

 彼の神としての核に、何か異常が起きているのに違いなかった。


黄泉神よもつかみ様、聞こえますか、黄泉神よもつかみ様……!」


 必死に声をかけていると、背後からせわしない足音がした。騒ぎを聞きつけたらしい犬たちが走ってきたのだった。


あるじ様!」

「いかがなさいました!?」

「しっかりなさってくださいませ、主様ー!」


 犬たちが口々に声をかけるが、黄泉神よもつかみが目覚める様子はない。

 おろおろと姿を現わした白い手たちにサナエは叫んだ。


「一緒に黄泉神よもつかみ様を運んで。私が看病するから――早く!」


  ***


 寝殿の部屋に黄泉神よもつかみを運び込み、しとねに寝かせた。

 鼓動するような発熱は今も続いている。水を持ってこさせて冷やすなどしたが、効果は全く見受けられなかった。


黒輔くろすけ白丸しろまる、どういうこと? 神様が病気になるなんて、そんなことあるの?」


 サナエが問うと、犬たちはしゅんと耳を下げた。


「分かりませぬ……」

「このようなことは初めてにございます」

「主様には器があれど――あくまで病とは無縁のはずにございますれば」

「……そう」


 黄泉神よもつかみの手が小さく動いた。思わず握りしめる。熱が押し寄せてはまた去っていく。

 ふとサナエの脳裏に考えが浮かんだ。


「ねえ。何か祝詞のりとを捧げたら、効くかしら?」


 犬たちに問うと、彼らは顔を見合わせた。


「分かりませぬ……が、祝詞は黄泉神よもつかみ様に力を与えるものでもありまする」

「あるいは――効果があるやも」


 その言葉を聞いてサナエはうなずいた。何もやらないよりはましだろうと思えた。

 黄泉神よもつかみの手を握り直し、サナエはいつもの祝詞を唱え始めた。


「かけまくもかしこ黄泉神よもつかみ比良ひらさかてにおわす根の国が主、現世より来たる魂の、諸々の禍事まがごと、怨み、穢れ有らんをば、燎原りょうげんの炎にて清め給えと、申すことをきこせと、かしこかしこみ申す――かけまくもかしこ黄泉神よもつかみ……」


 何度も何度も繰り返し唱えた。口の中が渇き、声がかすれても唱え続けた。

 握った手を額に当て、祈るように言葉を紡ぎ続けた。


 いったい幾度、唱えたときだったろうか。

 握った手が、ふと動いた。


「――あ」


 慌てて黄泉神よもつかみの顔を見やる。長い睫毛が小さく揺れ、まぶたが薄く開いた。

 黒い瞳がぼんやりと周囲を眺め、サナエの顔にゆっくりと焦点を合わせる。

 ややあって、薄い唇から、かすかな声がこぼれ出た。


「……露姫つゆひめ


 その言葉――その名。

 耳にした瞬間、周囲の音が失せた。

 全身が震え、歓喜と困惑、安堵と恐怖、説明のつかない感情が胸中を荒れ狂う。


 犬たちが頭を垂れ、すすり泣き始めた。


「あるじ、さま」

「その御名みなは……その御名は」


 白い手たちも動きを止める。まるで何かを悼むような空気が黄泉の宮を包む。

 サナエは黄泉神よもつかみの手を握ったまま、ただその場に凍りついた。

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