第10話 力なき者
動けなかった。
逃げなければ、と思うのに、足指の先まで凍りついたようだ。
青白く腐った手が、まっすぐサナエの顔へと迫ってくる。
(――いや)
怖い、逃げたい、と思うのに。
目を閉じることもできず。
声も――出なくて。
そのとき、目の前に黒い背中が立ちはだかった。
割って入った
『▬▬▬▬……▬▬▬▬▬▬▬▬▬……』
言葉として聞き取ることすらできない声が頭蓋を揺らす。
「
刹那、強い風が湧き起こった。風圧に押され、体を捕らえていた呪縛がふつりと切れた。おのずと数歩、後退ってしまう。
怨霊は耳をつん裂くような叫びを上げ、今度こそ消え失せた。灰のようなものがはらはらと神楽殿に降り注いだ。
茫然とするサナエの前で
サナエははたと我に返り、彼に駆け寄った。
「……
隣に膝をついた瞬間、サナエは息を呑んだ。
――頭がくらりとする。
このひとは自分をかばって、こんな傷を負ったのだ。
「寄るな。……大事、ない」
「でも!」
何が「大事ない」だ。ひどい苦痛に決まっているのに。
巫女装束である
だが、右の手で乱暴に払いのけられた。
「軽々に触れるな! 大事ないと言っている」
「そんな……」
心の臓が喉元で早鐘を打っている。どうすればよいのか分からない。
「
「……分かっている」
白丸の背を借りるようにして、
千早を握りしめたまま座り込んでいるサナエに、残された
「
「本当に?」
「はい。神の肉体はあくまで器。核が損なわれたわけではございませぬゆえ」
「……そう」
大きく息をつく。汗がにじんで痛む目を閉じた。
黒輔の濡れた鼻がそっと手に触れた。
「さ、
「ありがとうね……黒輔」
サナエが目を開けて薄く微笑むと、黒輔はぱたりと尾を振った。
***
黄泉の宮の裏手にある湯殿で衣を脱ぎ、髪が濡れないよう結い上げた。もくもくと湯気の上がる中、手桶で湯を汲んで体を洗う。いつの間にか全身についていた灰のような汚れが取れたところで、風呂に足を踏み入れた。
ゆっくりと肩まで湯につかり、深く呼吸する。体を洗っても残り続けていた違和感が少しずつ溶けてゆくような気がした。
白い湯気にけぶる満天の星空をじっと見上げる。藍と紫の混じり合う空を背景に、動かぬまま瞬き続ける白い星々を数える。
ふいに、じわ、と目頭が熱くなった。大きな粒がつうと頬を伝い落ちる。
自己憐憫でも郷愁でもない。悔しさの涙だった。
(私は――ぜんぜん、だめだ)
すっかり巫女として成長したような気がしていた。
できることが一気に増え、怨霊を浄化するのもうまくなった。心の底では、いつまでも冷たいままの
でも、とんでもない思い込みだった。
強力な怨霊一体が現れただけで動けなくなってしまって。
黒輔は大丈夫だと言っていたが、あのおぞましい傷のさまを思い出すたびに胸がずきずきと痛み、嫌な汗が額ににじむ。
自分がもっと立派な巫女だったら――心も技も強かったなら、あんな目に遭わせずにすんだのだろうか。
いくら冷淡な神様だからといって、自分のせいで苦しい思いをさせたなんて耐えられない。たとえ一年限りの巫女であってもだ。
それに、あの怨霊だって苦しかったのではないか。まとっていた
「……頑張らなきゃ」
小さく呟き、両の手で湯をすくう。ばしゃりと顔にかけ、頭を大きく振った。
落ち込んではいられない。もう一度、気合を入れ直そう。そう思って勢いよく風呂から上がった。
***
湯上がりの小袖をまとって湯殿から出ると、黒輔と白丸が外で待っていた。
「
「湯加減はいかがでございましたか?」
こちらを見上げる丸い瞳にサナエは微笑み返した。
「うん、気持ちよかったよ。ありがとうね」
「それはようございました」
「実にようございました!」
犬たちは至極明るく尾を振る。サナエは恐る恐る問いかけた。
「あの……
「ご安心なさいませ。
「明日には元通りになられまする」
そう言われ、サナエはほっと息をついた。
「……よかった」
「ええ、ですからそのような顔をなさらないでくださいませ」
「
犬たちはサナエの左右に立ち、両側から見上げてくる。その愛らしい表情にサナエは思わず口元をほころばせた。
「ありがとう。元気出すよ。また頑張るつもり」
そのとき、声がした。
『……嗚呼。
「え?」
サナエは驚いて振り返る。だが、そこにはただ湯殿があるばかりだった。
心の臓が激しく脈打っている。声の出どころを探したかった。だが――うかつに追ってはならぬような気もした。
「
「いかがなさいました?」
犬たちがきょとんと首を傾げる。サナエは彼らに向き直り、曖昧に微笑んだ。
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