鳥つがう(10)

 翌日、あれから後の話し合いで、来月最初の大安の日に多代と有綱の祝言が執り行われることが決まったと、綱稠が告げにきた。その前に、千代は安藤家に移る。とは言っても、姉たちと違い多代は家に残るのだから、特別な感慨は沸かなかった。

 結局、いつぞや千代と話し合った嫁入りの在り方とは、遥かにかけ離れた縁組となった。有綱が嫌いなわけではないのに、なぜこうも胸のつかえが取れないのだろう。

 季節は春蚕から夏蚕に移ろうとしているが、定信公は夏蚕にあまりいい顔をしていないので、市原家としても大っぴらには夏蚕の吐く生糸を仕入れるわけにはいかない。そのために、分家の商いは小康状態で、今の多代はやや時間を持て余し気味だった。この時期に二人の祝言が決まったのは、そのような事情もあってのことだった。

 どうも気鬱が晴れず、多代は十念寺に足を伸ばした。子供の頃はここでシロと遊んだり山辺先生に学問を教わったりしたものだが、分家を嗣いで以来、寺の行事や墓参以外は足を運ぶ機会が減っていたのである。

 亡き父母の墓前で手を合わせていると、背後に人の気配を感じた。

「お久しぶりですね」

 柔らか、かつよく通る声の主は、住職の良善だった。

「良善さま」

 多代もふっと口元を緩めた。良善は多代の初恋の相手だが、住職となってからは、それなりに町の人の相談にも応じている。その指先には、微かに緑色に染まっていた。多代がちらりとそちらに視線を向けると、良善は少し照れたような笑みを浮かべた。

「越中守様から、雲龍の絵を所望されましてね。今まで、試しに描いていたところです」

「まあ⋯⋯」

 先日、永田善吉の絵をお褒めになった越中守こと定信公は、十念寺にも足を運んだのだという。そして、白雲の絵にも目を留め、やはりお褒めの言葉を頂いたのだそうだ。

 公ご自身も狩野派の画流に学び、大層力強い絵を描かれるという。

「良善さまは、それをご覧になられましたの?」

「ええ。手遊びにご自身も絵を描きたくなったと仰られたものですから、道具をお貸し致しましたところ、数枚描かれてお持ち帰りになりました。きっと、政からお離れになりたいときもおありなのしょう」

 煙るような笑顔を、良善が多代に向けた。その笑顔は、やはり人を惹きつけて止まないところがある。そして、小首を傾げた。

「多代さんは、何かおやりにならないのですか?貞右衛門さんは、お忙しいにも関わらず狂歌を嗜んでいらっしゃるようですが」

 多代は、首を横に振った。

「私は、今はとても⋯⋯」

 少女の頃は、良かった。学問もそれなりに楽しかったし、兄の狂歌を楽しむゆとりもあった。だが今は家業のあれこれで忙しく、また、出しゃばった女と思われるのも悔しい。そう思うと、ふっとため息がこぼれた。

「ため息をおつきになると、幸が逃げると申しますよ」

 良善の言葉に、多代は寂しげな笑みを向けた。

「いえ⋯⋯。祝言が決まっておりますし。そんなことはございませんわ」

「有綱さんはお優しい方ですから、きっとお似合いの夫婦になられることでしょう」

 その言葉に、多代は微かに眉を曇らせた。有綱も須賀川に来て一年余りになるのだから、良善が有綱を見知っていても、不思議ではない。だが、何となく良善の口からその名前は聞きたくなかった。多代の微かな不満を汲み取ったか、そうだ、と良善が顔を上げた。そして、意味ありげな視線を多代に向ける。

「いいものをお目にかけましょう。本堂へ上がられていかれませんか?」

「構いませんが⋯⋯」

 多代が本堂へ上がるのも、久しぶりである。本堂へ通され、多代がしばらく待っていると、良善は数枚の絵を持ってきた。いずれも、花の絵である。

 お世辞にも上手いとは言えない。絵に関しては素人の多代でも、それはわかった。だが、鮮やかな紅の色が付けられており、大輪の花が描かれているところを見ると、どうやら牡丹を描いたものらしかった。

「これは、どなたがお描きになられたものですの?」

 すると、良善は目を細め、まるでいたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「有綱さんですよ」

 多代は目を見張った。あの人に、絵を描く趣味があったのか。改めてもう一度絵を見てみると、やはりお世辞にも達者な絵とは言い難い。それでも、花弁の一枚一枚に、どこか温かみが感じられる。

 須賀川に来る前の有綱は、どのような生活を送っていたのだろう。わざわざ会津の武家から商家の婿に入るくらいだから、きっと、それほど裕福な家ではなかったに違いない。有綱が武家言葉を使わなくなったのは、いつ頃からだっただろう。

「優しい絵でしょう?」

 絵を手にしてじっと眺める多代に、良善は柔らかに囁いた。

「ええ⋯⋯」

 今多代が手にしている絵には、開きかけの牡丹が描かれている。どこか危うい様は、まるで、今の自分のようだ。

 有綱の妻となり、母となるのが当たり前のように、周りは受け止めている。千代やしうと異なり、自分は一回りも年上の男性の妻となる。そのことが、自分は不安でたまらないのかもしれない。

 そこへ、「ごめんください」という男の声がした。

 あっ、と多代は口元を抑えた。やってきたのは、当の有綱である。有綱も、多代がいるのが意外だったのか、驚きに目を見開いた。その目には、微かに狼狽の色が浮かんでいる。多代の手には、先ほどの開きかけの牡丹の絵が握られていた。

「有綱さん。多代さんをお責めにならないでください。私の出来心で、つい有綱さんの絵を多代さんに見せたくなってしまったもので」

 良善の弁解は、言葉とは裏腹に落ち着いていた。どうやら、本心ではさほど悪びれていないらしい。

「いえ、人様に見せるほどのものでは⋯⋯」

 有綱は、いつになく首筋を染めていた。確かに、あまりにも達者とは言えない筆運びだったから、それを恥じているのかもしれない。そして、多代をの方をちらりと見ると、なぜか一層顔を赤らめた。

 こんな有綱は、初めて見る。多代は、思い切って有綱に視線を向けた。

「⋯⋯有綱様は、絵をお描きになりますのね」

「⋯⋯いえ、お恥ずかしい限りです」

 隠すほどのことでもないのに。多代には、それが不思議だった。顔を良善に向けると、涼しい顔を保っている。やはり、何か思うところがあって多代にあの絵を見せたらしい。

 だが、この日を境に、今度は有綱がさり気なく多代を避けるようになってしまった――。

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