霞晴れて

篠川翠

牡丹の芽(1)

 多代の一番古い記憶は、酒米を蒸す甘い香りかもしれない。

 須賀川町で造り酒屋を営む者は少なくないが、道場町にある市原家は、その中でも別格だった。町の中心を貫く奥州街道は、幅五間もある立派な道だが、そこから小路を少し東に折れたところに、市原家の屋敷があった。広大な敷地には幾棟もの蔵が立ち並び、家業のための酒米だけではなく、白河藩の殿様を始めとして、守山藩や越後高田藩の浅川陣屋、長沼藩など近隣諸藩の米が預けられている。

 その広大な屋敷の庭には四季折々の草花が植えられ、あたかも武家屋敷のようだ。庭の外れにはけやきが生えているが、欅が生えているということは、この土地に水が湧き出る証であり、須賀川町は高台にあるにも関わらず、不思議と水に恵まれているのだった。

 道場町は戸数わずか一八軒、一丁に満たない町である。街道に面した道場町の他に、裏町として東横町・裏町・池上町などがあるが、「藤井下り」と呼ばれる小路を挟み、やはり大商人の一人である藤井惣右衛門の屋敷があった。また、「道場町」の名前からも察せられるように、街道から順に東へ向かって妙勝寺みょうしょうじ十念寺じゅうねんじ金徳寺こんとくじが並んでいる。その中でも多代に特に馴染み深いのは、十念寺であった。十念寺は市原家の菩提寺でもあり、多代の遊び場でもあった。また、時には寺の本堂で手習や素読に励み、算盤を弾くこともあった。

 十念寺は隣の金徳寺と地続きということもあり、本堂の裏手は鬱蒼とした森になっている。それでも、本堂の脇に植えられた桜の大木には、灯明の如く、薄紅の花が幾輪か綻び始めていた。

「そら、取っておいで」

 多代が金徳寺の方へ向かって投げた小鞠を、飼い犬のシロが転がるように追いかけた。シロは多代の兄の綱稠つなちかがどこからかもらってきた真っ白な秋田犬で、大変賢く、市原家の皆に可愛がられている。難なく小鞠を見つけて咥えたシロは、嬉しそうに尻尾を振りながら、こちらへ駆け戻ってきた。

「いい子ね」

 愛犬を撫でてやろうと、多代が手を伸ばしたところで、シロは咥えていた小鞠を離して唸り始めた。ころころと、小鞠が多代の足元へ転がってくる。

「どうしたの?シロ」

 シロの視線の先を追っていくと、大きな欅の大木の枝の股のところから、一人の男の子がこちらを見下ろしているのに多代は気付いた。

 キャンキャンとシロが大声で鳴き始めた。男の子はシロが吠えるのが憎らしいのか、傍らの小枝を手折り、こちらに向かって投げつけた。

「痛っ」

 小枝が多代の腕に当たった。シロの吠え声がますます大きくなる。

「何をしておる」

 とうとう表の騒ぎが気になったのか、子どもたちの手習いの様子を見ていたはずの山辺やまのべ先生が、本堂から怖い顔を覗かせた。

静吉せいきち!シロを虐めるとは何たるざまだ。しかも、よりによって御神木に登りおって。今すぐ降りてきなさい」

 大声で怒鳴られ、静吉と呼ばれた少年は口をへの字に結びながらも、渋々するすると木から降りてきた。シロを虐めた犯人は、中町の裏町、諏訪町秀海しゅうかいに住む永田静吉だった。多代より二歳年下の少年だが、多代の目から見ても、意地が悪いのである。本堂の方へちらりと目をやれば、見知った顔がいくつも興味深げにこちらの様子を伺っている。

「こっちへ来い」

 先生は両腕をきつく結んでいたが、その袖口から太い腕がにゅっと出たかと思うと、拳固でぽかりと静吉の頭を殴った。 

「生き物を虐めるなど、心の弱き者がする卑怯な振る舞いだぞ。静吉、シロに謝りなさい」

 多代も、静吉の振る舞いに猛烈に腹が立った。出来るだけ威厳を取り繕うべく、背筋をしゃんと伸ばす。既にシロは、吠えるのを止めていた。

「謝ってよ」

 多代が静吉を睨みながらそう告げると、拳固の痛みに涙目になった静吉の視線と、多代の視線とが絡み合った。すると、半ば背を折りかけていた静吉はぐいっと背を反らして多代を睨み返し、ぺっと唾を吐き捨てた。

「馬鹿犬の飼い主は、馬鹿に決まってらあ」

「静吉!」

 山辺が再び拳を落とそうとする間を与えず、静吉はだっと街道の方へ向かって駆け出した。逃げ足だけは、異様に速い。

「待ちなさいよ」

 大声を張り上げる多代の肩を、山辺が押し留めた。わずか八歳の少女が、大人の男の力に適うわけがない。

「まあまあ。多代ちゃんも、それくらいで勘弁してやりなさい。静吉は多代ちゃんよりも年下だろう?」

「でも……」

 愛犬を貶された腹立ちが収まらず、怒りの余り今度は多代が目尻にじんわりと涙を浮かべた。

「シロが賢いということは、この辺りの皆が知っているさ」

 多代をなだめるように、その頭を撫でてくれる山辺の大きな掌が心地よく、多代はようやく怒りの鉾先を収めた。

「山辺先生。静吉は何であんなに意地が悪いのかしら」

「さあ」

 山辺は、曖昧な笑みを浮かべた。彼には心当たりがあった。静吉の父である永田善吉も、また一風変わった男なのである。妻に先立たれて三十一のときに再婚して設けたのが、一子静吉だった。善吉の兄である丈吉たけきちは、家業としてこの頃は紺屋こうやを営み、特に異国染めと言われる生地を商うようになって以来、今ではそこそこ裕福な商人となっていた。この兄弟は、兄も弟も絵が達者なことで子供の頃から広く知られていたが、大人になったならば家業に精を出すのが、この辺りの常識である。ところが、兄は立派に永田家を繁盛させているものの、弟の善吉はというと、今でも時折ぼんやりと物思いに耽る子供の頃からの癖が抜けないのだった。それだけでなく、実は今でも、こっそりと絵を描いているのだという噂もある。

 そんな変わり者の父を持ってしまった静吉も、あのような性格になるのはさもありなんと、山辺は思っていた。だが、眼の前の少女にその胸中をありのままに伝えるほど、彼は愚かではない。

「多代ちゃんも、そろそろお家へ帰りなさい。市原さんのお嬢さんが人攫いに拐われるようなことがあったら、一大事だ」

 山辺が片目をひょいと瞑ると、それが合図だったかのように、ごおんと鐘が鳴った。七ツ時を告げる鐘で、子供達の寺子屋の終わりの合図でもある。

「はい。先生、ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げる少女に、先生は目を細めた。

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