第28章「託すということ」

日曜の夕方。

ホシノ理容室には、珍しく来店が少なかった。


「今日は静かでしたね」

掃除を終えた遥が言うと、星野はうん、と短く頷いた。


「ちょうどいい。話したいことがある」


その声に、遥は姿勢を正した。


星野はカウンター奥の引き出しから、一枚の封筒を取り出した。

中から出てきたのは、分厚いファイルと、手書きの書類の束。


「これは……?」


「ホシノ理容室の経営に関する、全部だ。

常連のリスト、月ごとの予約の波、保健所の届出関係……あと、税理士とのやりとりの控えも入ってる」


遥は息をのんだ。


「遥さん。俺は、君にこの店を継いでほしいと思ってる」


その言葉は、静かだけど、はっきりと届いた。


「……本当に、私でいいんですか?」


遥は思わず問い返していた。


「いいも何も、君しかいない。

今のホシノ理容室は、もう君の色で動いてる。

ノートに書かれている気づきも、掃除の手順も、会話の空気も──俺とは違う君の店になり始めてる」


遥は目の奥が熱くなるのを感じた。


「でも、私……まだまだ未熟です。

星野さんみたいには、きっとできない……」


「いいんだよ」

星野は、やわらかく笑った。


「星野修司を継ぐ必要はない。ホシノ理容室を継いでくれたら、それで十分だ」


遥はしばらく何も言えなかった。


(あの日、この店の扉を開いたとき、

まさかこんな日が来るなんて思ってもいなかった)


(ただ理容師になりたかっただけの私が、

いま、誰かの居場所を守る側に立とうとしている)


「……私に、この場所を継がせてください」


ゆっくりと、けれど迷いのない声で、遥は言った。


星野は、黙って頷いた。


「正式に引き継ぐのは、もう少し先でもいい。

でも、君がそうするつもりでこの場所に立つだけで、店の空気は変わる」


ファイルを手に取った遥は、それを大切そうに胸に抱きしめた。


「ありがとうございます。

私は、この店の次のページを、自分の手で書いていきます」


「いい答えだ」

星野は、どこかほっとしたような、誇らしげな顔をしていた。


扉の外では、春の終わりを告げる風がそっと吹いていた。

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