「いつも通り」の崩し方

「なあ、東雲。俺の万歩計、おかしいと思わないか?」


 そう言って茂木先生は、ズボンのポケットから銀色の万歩計を取り出した。使い始めて時間が経っていないのか、傷一つない。


「昨日から、歩数が急に増えててな。別に遠回りしたわけでもないのに……ほら」


 先生の手元に表示された数字は、いつもより二千歩近く多い。たしかに、不自然だ。


「でも先生、歩数が多いのは、いいことなんじゃないんですか?」


 渡辺がにやにやしながら口を挟んだ。


「ダイエット中ですよね?」


「もちろん、そうなんだけどな。ただ、気味が悪いんだ。昨日から、何も変えてないのに数字だけ増えてるってのが妙でさ」


 先生は腕を組んで廊下を見つめる。その足元には、昨日から引かれたばかりの赤いラインが真っすぐ伸びている。


「真……」


 隣で東雲がぽつりと僕の名を呼んだ。目はまっすぐラインを見つめている。


「人間って、普段は無意識に最短ルートを歩いてるの。でも、廊下に左側通行のラインが引かれたことで、誰もが少しだけ遠回りするようになった。教室に入る前に迂回するとか」


 「なるほど。だから、歩数が増えたんだ」


 僕の言葉に、東雲は静かにうなずく。


「機械の誤作動じゃない。導線が変わっただけ。気味が悪いどころか、自然なこと。むしろ……健康的かもね」


 茂木先生は、ぽかんと口を開けたまま、自分の万歩計と足元のラインを交互に見比べた。


「そうか。事故防止で始めたことが、俺の運動にもなってたってわけか。へへ、なんだ。なんか得した気分だな」


 そう言って先生は笑った。万歩計をしまう仕草も、どこか軽やかだ。


「事故も減って、歩数も増えて、いいこと尽くめじゃないか。東雲のおかげでスッキリしたよ」


 そう言って振り返った先生の背中を見送りながら、僕は東雲に小声で言った。


「本当、なんでもよく気づくよな。僕だったら絶対気づけなかった」


 東雲はつぶやいた。


「日常って、意外と脆いのよ。たとえば、廊下のルール一つで、歩き方まで変わる。面白くない?」


 僕はうなずいた。


 変わっていく“いつも通り”。その中で、僕たちは、また小さな違和感を拾っていくんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る