第13章「自画像」
写真は自分自身を写すこともある。
その時、レンズの向こうにいるのは被写体でもあり、写す者でもある。
そして、それこそが真の自画像。
光と影の狭間に浮かぶ姿こそ、我々の本質。父はかつて「自分自身を知るための最も正直な方法は、自分の撮った写真を見ることだ」と語っていた。
霧梁県の東部、山と山の間に広がる小さな盆地。かつてそこに存在していたはずの村を探して、一行は三日間歩き続けていた。朝霧の中から木々のざわめきが届き、父が好んだ鳥の声が遠くから響いてくる。鼻腔をくすぐる湿った土の匂いが、記憶を喚起するかのように漂ってくる。
「古い地図では、ここに『夕霧村』という集落があったはずなんです」
風見蓮が古びた地図を広げ、指で位置を示した。彼の眼鏡が朝日に反射して光る。蓮は祖父から受け継いだ記録を頼りに、行く先を定めていた。父が地図を広げる仕草に似た、几帳面で丁寧な手つきだ。さらに彼は、一行が休むたびに、気象や環境のデータを丹念に記録していた。
「気温、湿度、風向き…すべて祖父の記録と一致します。彼は『記憶の消失は、自然現象と密接に関連する』と記していました」
蓮はノートを開きながら、「祖父は科学で測ろうとしたが、僕はその向こう側を感じている」と呟いた。「祖父の死後、家族の記憶の謎に取り憑かれましたが、今ならその意味が分かります」と彼は静かに付け加えた。
「あなたのおじいさまは、この村に来たことがあるのね」ルカは蓮を見つめた。彼のオーラには青い糸が織り込まれ、祖父への思いと科学への憧れを表していた。
「はい。祖父の最後の記録には、夕霧村での奇妙な発見について書かれています」蓮は眼鏡を直した。「祖父は記憶の消失現象を追って、この村にたどり着きました。彼は村の井戸で異常な測定値を検出し、その後…帰らぬ人となったのです」
「彼は記憶の波紋に飲み込まれたのかもしれないね」静江がお茶を啜りながら言った。彼女の紫色のオーラには、何か秘密を知っているような深みがあった。
「でも、今は何もないように見えますね」
前方に広がるのは荒れた野原だけ。集落があった形跡すら見当たらない。遠くにはわずかに石垣の残骸が見え、かつて人が住んでいた痕跡が残るのみだ。
蓮は小さな測定器を取り出し、周囲の空気を調べた。
「不思議です。この場所だけ、霧の密度が異常に高いんです。目には見えませんが、計測上は濃い霧に包まれているような…」
「写し世の力で隠されているのかもしれない」
ルカは金色に変わった瞳で風景を見渡した。彼女の目には、普通の人には見えないものが見えるようになっていた。周囲の景色に漂う微かな色、記憶のオーラだ。そして、耳を澄ませば、遠くからチヨの囁き声—「見つけて」—が風に乗って届いてくるようだった。
その瞬間、ルカは胸に鋭い痛みを感じた。記憶のオーラを読み取る新たな能力を使うたびに、彼女自身の記憶が揺らぐような感覚があった。「巫女の力を使うことの代償」とクロミカゲが言った言葉が脳裏によぎる。しかし彼女は、一時的な痛みに目を閉じ、集中を続けた。
「何か…感じるわ」
彼女は前方を指差した。盆地の中央部分に、薄い霧のようなものが漂っている。通常の霧ではなく、記憶の残滓。それは青から灰色、そして白へと色を変えながら、ゆっくりと渦を巻いていた。その渦の中から、母が夏祭りで口ずさんでいた古い歌の一節が、かすかに聞こえてくる。肌に触れる空気は冷たく、しかし不思議な懐かしさを伴う温もりを感じさせた。
「そこね」
ルカはチクワを抱えたまま、霧に向かって歩き始めた。猫は警戒するように耳を立て、低く唸った。その白黒の毛並みが一瞬青く光ったように見えた。金色の瞳が輝き、魂写機の写真を守るように前足を置いた。
「気をつけて」
クロミカゲの声が風のように彼女の耳に届く。蓮や静江には聞こえない声だ。クロミカゲは写し世と現世の間を自由に行き来できるようになり、時に姿を現し、時に風となって彼らを見守っていた。彼の影が地面に映り、九つの尾を持つ狐の姿になって揺らめいた。
「チヨの記憶がわたしを導く…」クロミカゲの声が続いた。「この村には、わたしたちの過去も埋まっているかもしれない。この井戸は影向稲荷の奥宮と繋がる時の狭間の結節点だ。写し世の記憶が時間軸を超えて集まる場所だ。チヨの封印が夕霧村の記憶をここに閉じ込め、秘匿の霧で現世から隔離したのだ。」
「写し世の強い場所でしか実体化できないの?」ルカが尋ねた。
「ああ。村にチヨの封印の痕跡がある。それが私を引き寄せる」
ルカは立ち止まり、振り返った。チヨの記憶が村に繋がっていることを直感的に理解した。
「姉さんの…記憶?」
「ああ。わたしの中のチヨの記憶が、この場所に反応している。夕霧村は、封印と何らかの関係があるのかもしれない」
霧に近づくにつれ、不思議な感覚が一行を包み込んだ。時間がゆっくりと流れ、音が遠くなり、色彩が薄れていく。それは写し世との境界に入りつつある証拠だった。耳の奥で時間の軋む音が強まり、遠くから誰かの笑い声と泣き声が重なって聞こえてくる。記憶の断片が混濁する感覚に、ルカは一瞬身震いした。皮膚に触れる空気は生温かく、まるで誰かの吐息のようだった。
蓮はノートに何かを書き込みながら、興奮した様子で呟いた。
「祖父が記録した通りだ…『記憶の波動』が空間そのものを歪めている。これは科学では説明できない現象です!」
「ここが…記憶をすべて失った村」
ルカが霧の中に足を踏み入れると、風景が一変した。荒れ地だったはずの場所に、古い家々が立ち並んでいる。道路、井戸、広場、そして放棄された神社や崩落した広場も見える。すべてが存在していた—しかし、色彩が完全に失われ、白黒の世界になっていた。父のモノクロ写真の世界に迷い込んだような感覚だった。匂いも音も薄れ、ただ遠くからかすかな風鈴の音だけが、時折耳に届いた。
「見えます…村が」
蓮も同じものを見ているようだった。彼は祖父から受け継いだ特別な感覚で、通常の人間には見えない写し世の一部を感じることができた。目を見開き、周囲を見回す彼の表情には、恐怖よりも好奇心が勝っていた。
「不思議です…村全体が記憶の霧に閉じ込められている」蓮は測定器の数値を確認した。「祖父のノートに『記憶はエネルギー波として存在し、特定の条件下で凝縮する』とありましたが、まさにその状態です。村が記憶の結晶となり、時間の外に存在しているんです」
「でも、人の気配がない」
確かに、村には誰一人として姿が見えなかった。静まり返った通りと建物。まるで時間が止まったかのよう。しかし、耳を澄ますと、かすかに村人たちの声が風に乗って漂ってくる—「帰りたい」「思い出したい」「どこだったか」—記憶を求める声々。中には過去の村人たちの声を囁く家々もあるように感じられた。
「住民たちはどこに…」
ルカの問いに、静江が答えた。彼女の目には母の面影が垣間見え、声には不思議な威厳が混じっていた。
「記憶を失った者たちは、別の場所に移住させられたと聞いている。十年前、狐神の暴走を封じるため、チヨが村の記憶を吸収した。住民は自分たちの名前も歴史も忘れ、政府の隠蔽工作で霧梁県各地に分散移住させられた。当時の行政は写し世の存在を知る一部の者しか関与できなかったという。だが、喪失感だけは消えず、彼らは今も郷愁に苦しんでいる。ここにあるのは、彼らの記憶と共に置き去りにされた村の亡骸だ」
一行は村の中心部に向かって歩いた。歩けば歩くほど、写し世の影響が強まっていく。風の音が消え、足音が反響し、時折、人の声のような音が遠くから聞こえる。村の井戸端で女性たちが笑い合う声、畑で働く男たちの掛け声、子どもたちの追いかけっこの音。蓮の測定器が振り切れ、ノートには「記録不能」と走り書きされた。
中心部には小さな広場があり、その真ん中に古い井戸が残されていた。井戸を取り囲むように、八本の石柱が立っている。それぞれの柱には、不思議な紋様が刻まれていた。母が好きだった古い絵巻に描かれていた模様に似ていた。
「この井戸…祖父のノートに詳しく描かれていました」蓮はノートを開き、スケッチと図を指さした。「祖父は科学的な見地から、この井戸を『記憶の波動結集点』と呼んでいました。物理学でいう『量子もつれ』のように、村全体の記憶がこの井戸を中心に絡み合っているんです」
「蓮のおじいさまは、この村で何を見つけたの?」ルカはノートを覗き込んだ。
蓮は眼鏡を直した。「最後の記録によれば、井戸の底で『真の記憶』を発見したとあります。その後の記録はなく…祖父は帰ってきませんでした。僕はずっと、祖父が『記憶の海』に沈んでしまったのだと思っていました」
ルカは井戸の縁に近づき、覗き込んだ。クロミカゲが彼女の隣に立ち、静かに言った。
「井戸の底は時の狭間の中心。写し世の記憶が時間を超えて交差する場所だ。チヨの意識が強くなっている…ここには何かがある」
「水は…まだあるわ」
不思議なことに、井戸の水面には村の全景が映っていた。しかしそれは現在の姿ではなく、かつての活気に満ちた姿。色彩があり、人々が行き交う様子が映っている。収穫祭の準備をする村人たち、笑顔で会話する子どもたち、年配者が集まる井戸端会議。父が写真で捉えたような、生き生きとした瞬間の連続。井戸の底に映る鏡が村人たちの感情の色彩を放っていた。
「これが…失われた記憶」
ルカは懐中時計を取り出した。針は七時四十四分から、さらに一分進んでいた。七時四十五分。記憶の回復が進んでいる証だ。
「どうすれば、彼らの記憶を取り戻せるの?」
「まず、記憶の中心を見つけなければならない」
クロミカゲの声が応えた。今や彼らは蓮にも静江にも見える姿で現れていた。写し世の影響が強い場所では、彼らの存在が実体化するのだ。クロミカゲの声は二重音となり、チヨとクロの声が重なり合っている。
「記憶の中心…ここじゃないの?」
「いや、もっと深いところだ」
クロミカゲは井戸を指さした。彼の右目の紋様が青く輝いている。その姿が壁に映ると、九つの尾を持つ狐の影が現れた。
「おそらく、井戸の底に」
ルカは井戸を見つめた。その深さは測りがたく、底は闇に沈んでいる。そこに記憶の中心があるというのだろうか。井戸からは時間の軋む音が強く響き、記憶の波紋が水面を揺らしていた。
クロミカゲが低い声で言った。
「村の記憶はルカの巫女の力でしか呼び戻せない。チヨの記憶が私を導いている…ルカ、もしお前が村を救えば、わたしも完全になれるかもしれない」
「姉さんの意志なの?」
「ああ…そして」彼は視線を逸らし、「お前の未来を…守りたい」
その言葉に、ルカの胸が温かくなった。父の「大切な人を守るためなら、どんな犠牲も惜しまない」という言葉が蘇る。
「降りなければ」
彼女は決意を固めた。蓮が心配そうに言った。
「危険かもしれません。僕が先に…」
同時に、彼は測定器を操作して霧の密度を測定していた。彼の目には真摯な心配の色が浮かび、母のような優しさが宿っていた。
「いいえ、これは私の役目」
ルカは微笑んだ。彼女の瞳が強く輝いている。
「『影写りの巫女』として、私が記憶を取り戻す手助けをするの」
「僕の祖父は、霧の密度が記憶の振動と関係していると記録していました」蓮は真剣な表情で言った。「気をつけて。密度が高まれば、記憶の流れが揺らぐ可能性があります」
「あなたは写し世と科学をつなぐ人ね。蓮さん」ルカは彼の手を握った。「あなたの記録が、私を支えるわ」
ルカの言葉に、蓮は頬を赤らめながら頷いた。
準備を整え、ルカは井戸に降りる縄を固定した。チクワは不安げに鳴いたが、静江が抱き上げて落ち着かせた。猫の金色の瞳が輝き、何かを伝えようとするようにカシャリと低い音を立てた。
ルカはポケットから小さな袋を取り出し、手に握りしめた。影写りの粉だ。その青い光が微かに手の間から漏れ出ている。「この粉は写し世の光を結晶化し、記憶を現世に結びつける鍵になる」と彼女は静かに呟いた。
「行ってくるわ」
ルカは縄を伝って、ゆっくりと井戸の中へと降りていった。最初は水面が近づいてくるように見えたが、不思議なことに、水に触れる瞬間、それは霧のように消えた。そこには水ではなく、別の空間が広がっていたのだ。冷たい霧が肌にまとわりつく感覚に、彼女は一瞬身震いした。
井戸の底に足をつけたルカは、周囲を見回した。そこは丸い部屋のような空間で、壁一面に鏡が埋め込まれていた。奥宮を思わせる配置だが、鏡は曇り、ほとんど何も映していない。部屋の中央には小さな祭壇があり、その上に何もない空の台座があった。遠くからチヨの囁き声—「探して、ルカ」—と父の「真実は常に、最も見えにくい場所にある」という言葉が重なって聞こえてきた。
「ここが…記憶の中心」
彼女の声が反響する。この空間には、村全体の記憶が集約されているようだった。空気自体が記憶の断片で満たされ、触れれば形になりそうな密度を持っていた。
ルカはその空間にいるだけで、胸が苦しくなるような感覚があった。他者の記憶の断片が彼女の中に流れ込み、彼女自身の記憶を圧迫するようだった。「巫女の代償」という言葉が脳裏に浮かぶ。しかし、それでも彼女は前に進んだ。「他者の記憶を救うことが、私の使命」と心に誓いを新たにして。
「けれど、どうやって取り戻せばいいの?」
考えていると、ふと、懐中時計が脈打つように震えた。ルカはそれを取り出して見つめた。そして、思い切ってカメラを構えた。母の「直感を信じなさい」という言葉が心に響く。
「写祓…私自身のためではなく、彼らのための写祓」
彼女はカメラを鏡に向け、シャッターを切ろうとした。その瞬間、鏡が震え始め、壁全体が揺れた。鏡の向こうから、村人たちの悲鳴のような音が響く。同時に、遠い笑い声や祭りの音色、子供たちの歌声も混ざり合っていた。
「何が…!」
「お前も忘れるぞ…」
どこからともなく、囁くような声が聞こえた。部屋の温度が急激に下がり、ルカの息が白く霧となる。
「私を怖がらせても無駄よ」
ルカは震える手でカメラを握りしめた。過去の記憶が頭の中で渦を巻く—チヨとの日々、父がカメラの使い方を教えてくれた温かい手の感触、母の歌声、封印の儀式、孤独だった時間、そしてクロとの出会い。すべての記憶が彼女の中で重なり合う。魂写機を通じて記憶と対話する感覚が彼女を包み込む。
「彼らの笑顔を、写し取るわ!」
ルカはシャッターを切った。カシャリ。
閃光が走り、一つの鏡が輝き始めた。そこには村の一場面が映っている。収穫祭の様子だ。人々が集まり、笑い、踊る。鮮やかな色彩が戻ってきていた。父が「写真は色を超えた真実を写す」という言葉が蘇る。
「記憶が…蘇る」
ルカは次々と鏡に向かってシャッターを切った。カシャリ。カシャリ。
しかし、彼女が写祓を続けるにつれ、胸の痛みが強くなっていった。他者の記憶を救うたびに、自分自身の記憶の何かが揺らぎ、薄れていくような感覚。ルカは歯を食いしばり、その痛みに耐えた。「代償の喪失が私の巫女としての力になる」と自分に言い聞かせながら。
一枚、また一枚と鏡が輝きを取り戻し、様々な記憶の断片が映し出される。村の日常、祭り、悲しみ、喜び。失われていた記憶の断片が次々と現れる。そのたびに、空間に満ちる音も変化していく—歓声、歌声、泣き声、笑い声。人々の生きた感情が、音となって部屋中に広がっていった。写し世の揺らぎが一時的に安定化し、村の記憶が徐々に定着していく。
そして最後の一枚。中央にある最も大きな鏡に向かって、ルカはシャッターを切った。カシャリ。
強烈な光が部屋全体を包み込んだ。光の中に、時間の波紋が広がる。過去と現在が交錯し、記憶の断片が渦を巻く。ルカは目を閉じ、その光に身を任せた。妙に懐かしい感覚。父のフラッシュを浴びた時のような、温かな光。
光が消えて目を開けると、そこには一人の老人が立っていた。
「あなたは…」
「私は村長だった者だ」
老人は穏やかな表情で微笑んだ。彼の姿は半透明で、周囲に淡い光を放っている。その面差しには父を思わせる温かさがあり、声には母のような優しさが混じっていた。
「よく来てくれた、影写りの巫女よ」
「あなたが、村の記憶の守護者?」
「そうだ。十年前、我々の村は記憶を失った。狐神の力が暴走し、私たちの過去を奪っていったのだ」
老人は悲しげに話を続けた。住民たちは自分が誰であるかを忘れ、村の名前さえ記憶から消えた。彼らは政府の手配で別の場所に移住させられ、新たな名前と身分を与えられた。当時の行政は写し世の存在を知る一部の者しか関与できなかったという。しかし、喪失感だけは消えず、多くの人が不思議な郷愁に苦しんでいるという。
「彼らを救いたい」
ルカは強く言った。
「記憶を取り戻す方法を教えてください」
老人は頷き、中央の鏡を指さした。
「その鏡に映るのは、村の『核』だ。我々の集合的記憶の中心となるもの」
鏡には祭壇のようなものが映っていた。その上に置かれた小さな箱。それは現実の祭壇と同じ形だが、鏡の中の祭壇には箱がある。
「あれが、村の記憶を象徴する『形の欠片』だ」
形の欠片—それは狐神の力の一部、九つの欠片の一つだった。ルカは姉からの手紙で、残りの四つの欠片のことを知っていた。「心の欠片」「霊の欠片」「封印の欠片」という言葉が、風の音に乗って聞こえてくる。
「どうすれば取り出せますか?」
「お前の力で、鏡を通り抜けるのだ」
老人はそう言って、徐々に透明になっていった。
「村の記憶を取り戻し、住民たちに届けてくれ。記憶は個人のものだけでなく、町の魂でもあるのだから」
「蓮のおじいさまは、ここで何を見たのですか?」ルカは老人が消える前に尋ねた。
老人の表情が一瞬曇った。「彼は…我々の真実を見た。そして彼自身も記憶となった」
老人の姿が完全に消えた後、ルカは決意を固め、中央の鏡に近づいた。鏡面は液体のように揺らめいている。彼女は深呼吸し、手を伸ばした。指先が鏡に触れると、それは水面のように波紋を広げた。父が「鏡の向こうには、別の自分がいる」と語っていたことを思い出す。
しかし、鏡は彼女を拒むように振動し始めた。表面が硬くなり、ルカの手を弾き返す。
「どうして…」
彼女は再び手を伸ばしたが、同じ結果だった。鏡は入口を閉ざしている。
ルカは一瞬迷った後、懐中時計を取り出した。チヨからの形見。それを鏡に向けると、光が反射して不思議な模様を描いた。
「姉さん…助けて」
懐中時計が脈打つように光り、鏡面が再び液体のように変化した。今度はルカの手が鏡に沈んでいく。まるで父の暗室の現像液に手を入れたような感覚。冷たいようで温かい、不思議な触感が彼女の全身を包み込んだ。
「行くわ」
ルカは鏡の中に足を踏み入れた。まるで水中に潜るような感覚。彼女の体が鏡に吸い込まれていく。同時に、耳の奥で時間の軋む音が強まり、無数の声が交錯して聞こえてきた。
鏡の向こう側は、別の空間だった。白い霧に包まれた世界。その中心に祭壇があり、小さな箱が置かれている。
ルカは祭壇に近づき、箱を手に取った。それを開けると、中には小さな青い結晶—形の欠片があった。それは母の宝石箱に入っていた青いブローチに似ていた。
「これが…村の記憶」
彼女は欠片を手に取った。それはかつて集めた五つの欠片と同じような青い光を放っていた。しかし、手に取ったとたん、頭に鋭い痛みが走った。
「欠片の代償…」
形の欠片を使うということは、何かの記憶を失うということ。形の欠片は使用者の最も曖昧な記憶を選ぶ。ルカはその痛みに耐え、欠片を胸に抱いた。父が「大きなものを得るためには、何かを手放す覚悟が必要だ」と言っていた言葉が響く。
痛みが強まり、彼女の視界に別の光景が浮かび上がった。知らない町の夕暮れ、子供たちが遊ぶ公園、赤い屋根の小さな家…彼女にとって見覚えのない風景。それらが次々と現れては消えていく。父がカメラを構え、母が微笑みかける姿も、一瞬映り込んだ気がした。
「これが…私の失った記憶?」
「その町は両親がチヨの封印前に暮らした故郷」クロミカゲの声が彼女の心に響いた。「その町の記憶は姉さんの封印で霧に隠された場所だったんだ」
「だから形の欠片は、最も曖昧な記憶を代償として選んだのね」彼女はかすかに呟いた。魂写機による写祓においても、自らの記憶の一部が犠牲になり、それが巫女としての力をも強めていく。母が「光と影の調和が、真の写真を生み出す」と語っていたことを思い出す。
ルカは胸を押さえ、苦しそうに呟いた。しかし、決意は揺るがない。
「記憶を取り戻してあげる…たとえ私自身が何かを失うとしても」
彼女の決意が欠片に伝わったのか、青い光が強まり、空間全体を包み込んだ。欠片が写し世の揺らぎを一時的に安定化させる。ルカの意識が遠のいていく。耳の奥では村人たちの喜びの声が強まり、色彩が徐々に戻っていくのが感じられた。
「でも、村の笑顔が戻るなら…それでいい」
最後に見たのは、欠片から広がる光が、無数の流れとなって村中に散っていく光景だった。青い光の筋が、記憶の断片を運びながら、井戸から外の世界へと広がっていく。そのたびに、遠くで鐘の音が鳴り響くような感覚があった。
目を覚ますと、ルカは井戸の底に横たわっていた。手の中には、輝きを失った欠片。それはただの青い石のようになっていた。
「ルカさん!」
井戸の上から蓮の声が聞こえる。
「大丈夫です!」
彼女は返事をし、縄を使って上に登り始めた。手が震え、体力が奪われているようだったが、何とか縄を掴み続ける。父の「諦めなければ、必ず光は見える」という言葉が力を与えてくれる。途中で足を滑らせた時、蓮が井戸の中にも縄を降ろして彼女を助けた。
外に出ると、風景が変わっていることに気づいた。村の色彩が戻りつつあったのだ。霧は薄れ、建物や木々が徐々に色を取り戻している。単彩だった世界に、赤や青、緑や黄色が戻ってきていた。遠くからは村人たちの歌声や祭りの音色が風に乗って届き、記憶が蘇りつつある証を告げていた。
「成功したのね」
静江が安堵の表情で言った。彼女の表情には、以前は見せなかった優しさが浮かんでいた。母が微笑む姿に重なって見える。
「欠片の力が、記憶を解放した」
クロミカゲが付け加えた。彼の姿もより鮮明になり、青白い光が強まっている。右目の紋様が穏やかに輝き、表情にはかつてない安らぎが見える。「他の欠片は霧梁の彼方に眠る」と静かに付け加えた。「心の欠片、霊の欠片、封印の欠片—それぞれが写し世の異なる側面を司っている」
「それだけではない」蓮が興奮した様子で言った。「記録が残っていた移住先の住民たちにも、記憶が戻っているはずです!」
彼はノートを取り出し、熱心に状況を記録している。
「霧の密度が下がり、光の屈折率が正常に戻りつつあります。祖父の理論が正しければ、記憶の波動は村の境界を超えて、住民たちのいる場所まで届いているはずです」
「科学の言葉で書かれた真実と、巫女の視る真実は、同じ現象の異なる側面なのですね」彼は眼鏡を直しながら言った。「祖父は科学の視点から記憶の波動を追いかけ、最後にその本質を見たのでしょう。彼もまた記憶の守護者だったんです」
蓮の瞳には、祖父への理解と敬意が表れていた。彼の記録は、これまで孤立していた研究から、写し世と科学をつなぐ重要な鍵となったのだ。
ルカは晴れやかな表情を浮かべた。しかし同時に、心に違和感を覚える。何かを忘れてしまったような…頭の片隅に空白があるような感覚。母の「記憶は消えない、ただ形を変えるだけ」という言葉が心に残る。
「何を失ったの?」
クロミカゲが静かに尋ねた。
「代償として」
ルカは自分の記憶を辿った。家族の記憶、父がカメラを構えていた姿、母の優しい手、チヨとの思い出、写祓の経験…それらは残っている。しかし、何かが欠けている。先ほど見た知らない町の風景…それは彼女にとって意味のあった場所だったのだろうか。
「わからないわ…でも、代償の喪失が私の巫女の力を強めた気がする」
彼女は微笑んだ。「失ったのは両親の故郷の記憶かもしれないけど、それは私を巫女として強くした。形の欠片は術者の最も曖昧な記憶を選ぶ。私の両親の故郷は、チヨの封印で霧に隠された場所だったのよ」たとえ何かを失ったとしても、多くの人々の記憶を取り戻すことができた。その笑顔の断片を見る度に、彼女の決断は正しかったと確信できる。時間の軋む音が静かになり、代わりに遠くから鐘の音が聞こえてくるようだった—新しい始まりを告げる音色。
「あなたの選択は正しかった」静江が言った。
「記憶を集めるだけでなく、記憶を解放することも、夢写師の大切な役目なのだから」
村を後にする途中、ルカはふと立ち止まり、振り返った。村全体が色を取り戻し、活気が戻りつつあるように見える。写し世の記憶が現世に影響を与え始めているのだ。耳を澄ますと、遠くから村人たちの笑い声が風に乗って届いてくる。
「彼らは思い出すわ…自分が誰で、どこから来たのかを」
蓮が頷いた。
「祖父の記録によれば、移住者たちは霧梁県の各地に散らばっています。今頃、彼らの中に不思議な感覚が広がっているでしょうね」
彼はノートに何かを書き足した。
「ある者は故郷の歌を突然思い出し、またある者は知らない村の景色を夢に見るかもしれません。写し世からの記憶の波動は、現世の物理法則を超えて伝わっていくのです」
「記憶は個人のものだけでなく、町の魂でもある」静江が静かに言った。「コミュニティのアイデンティティが失われることは、町の死を意味する」
「故郷の記憶が」
静江も穏やかに言った。「欠片の旅はまだ続く。心、霊、封印の欠片は写し世の調和に必要だ」と静かに告げた。「心の欠片は感情の調和、霊の欠片は魂の浄化、封印の欠片は写し世の均衡を司る」と彼女は説明した。「それらは霧梁の奥深く、影向稲荷の古い結界に眠っている」彼女の言葉に、ルカの心が高鳴った。
その夜、一行は小さな山小屋に宿泊した。ルカは宿の窓辺に座り、星空を見上げていた。チクワが彼女の膝の上で丸くなっている。窓からの月明かりが、ルカの金色の瞳を神秘的に照らしていた。
「満足しているか?」
クロミカゲが現れ、窓辺に寄りかかった。彼の姿は月光に照らされ、輪郭が淡く光っている。彼の影が壁に映り、九つの尾を持つ狐の姿となって揺らめいた。
「ええ。でも、まだ終わりじゃないわ」
ルカは手元の欠片を見つめた。形の欠片と、以前集めた五つの欠片。九つの欠片のうち、六つを手に入れたことになる。
「残りの欠片を探すの?」
「そうね…でも、それは急がなくてもいいかも」
彼女は微笑んだ。遠くから聞こえる虫の声に耳を傾け、夜風の香りを深く吸い込む。母が「急ぐ必要はない。大切なものは、必ず巡り会う」と言っていたことを思い出した。
「今は、他にやるべきことがある」
「写祓か」
「ええ。本当の意味での写祓。記憶を写し取り、癒すこと」
クロミカゲは彼女の隣に座り、静かに言った。
「チヨもそれを望んでいただろう。ルカの成長がチヨの願いを果たす」
「そう思う?」
「ああ。彼女の意識とわたしの意識が一つになった今、それがはっきりと分かる」彼は星空を見上げた。
「彼女の願いは、失われた記憶を取り戻すこと。そして、お前が自分の道を見つけること」
耳元では、父のカメラのシャッター音が懐かしく響いた—カシャリ。「写真は一瞬を永遠にする」という父の言葉が甦る。
ルカは久遠木に戻ることを決めていた。写真館を拠点に、霧梁県の人々の記憶に寄り添う活動を始めるつもりだった。彼女は影写りの巫女として、記憶を救う旅を続けることにしたのだ。
「帰ったら、写真館を再開しましょう」ルカは静かに言った。「でも今度は、単なる写真館ではなく、記憶の癒しの場所として」
蓮も彼女の決断を支持し、共に働くことを申し出た。彼は科学的な観点から、祖父の記録を整理しながら、写祓の新たな可能性を研究したいと言った。
「君が見つけた現象を、僕の言葉で記録させてほしい」蓮は真剣な表情で言った。「写祓と科学の融合は、祖父の夢でもあったんです」
彼はノートを開きながら、「祖父は科学で真実を測ろうとしたけれど、僕は君と共にその向こう側を探求したい」と付け加えた。その言葉には父の探究心と母の優しさが感じられた。
「祖父がなぜ村に引き寄せられたのか、今なら理解できます」蓮は静かに言った。「彼は科学者でありながら、記憶の本質を求めた人でした。彼が最後に見たものは、数式では表せない真実だったんでしょう」
「新しい一歩を踏み出すのね」
ルカは星空を見上げながら呟いた。失ったのは何だったのか、まだ分からない。しかし、それは彼女の前に広がる道を曇らせるものではなかった。忘れたことより、得たものの方が大きい。残りの欠片はきっと写し世が導いてくれる。彼女の心はそう告げていた。
「かつての私は記憶に囚われていた」彼女は静かに言った。「でも今は…記憶を解放する側に立つことができる。他者の記憶を癒すための巫女として」
チクワが彼女の膝の上で小さく鳴き、金色の瞳が一瞬開いた。魂写機の写真を守るように前足を置き、心地よく喉を鳴らす。猫の背を撫でながら、ルカは窓の外を見つめた。月明かりに照らされた景色が、かつてない鮮やかさで彼女の目に映る。
翌朝、霧の晴れた盆地を見下ろしながら、一行は久遠木への帰路についた。
「ねえ、蓮さん」と歩きながらルカは尋ねた。「おじいさまは写し世のことを、科学でどう説明していたの?」
蓮は少し考え、ノートを広げた。「祖父は『記憶の波動』が実体を持ち、時に光の屈折率に影響を与えると考えていました。彼の仮説では、感情の強さが波動を増幅させ、特定の条件下でそれが可視化されるというものです」
「写し世の科学…面白いわね」
「ええ、でも祖父は最後に『科学では測れないものがある』と書き残しました。僕はその『測れないもの』を、あなたと一緒に探してみたいんです」
ルカは微笑み、空を見上げた。父が好んだ青空が、まるで彼らを祝福するかのように広がっている。
「写し世と科学、記憶と感情…一見対立するようでいて、実は支え合っている」ルカは静かに言った。「あなたの科学的視点と私の巫女としての直感が、きっと新しい可能性を開くわ」
写真館での新しい日々が、彼女たちを待っている。それは単なる過去への旅ではなく、未来への第一歩となるだろう。遠くから鐘の音が聞こえてくるようだった—新しい始まりを告げる音色。
ルカの金色の瞳に映るのは、もはや失われた過去ではなく、これから創り出す未来の光だった。彼女は自分自身を写す新たな旅に出るのだ—被写体でもあり、写す者でもある、真の自画像を求めて。
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