第11章「現像室の扉」
記憶の海は深く、暗い。
潜れば潜るほど、光は届かなくなる。
けれど、そこにこそ真実が眠っている。
恐れずに潜ろう、自分自身の記憶の底へ。
そして時に、光と影のバランスを知ることが、記憶を正しく写すための第一歩となる。
夜が明け、久遠木の町に朝日が差し込む頃、写真館では奇妙な静けさが漂っていた。前夜の出来事は夢のようでありながら、確かな現実となって彼らの前に立ちはだかっている。奥宮での儀式、クロミカゲの誕生、そしてルカの選択—すべては現実だった。
ルカは二階の窓辺に立ち、町の様子を眺めていた。普段通りの朝の光景。人々は日常の営みを始め、店は開き、子どもたちは学校へと向かう。どこからか母の子守唄に似た調べが風に乗って聞こえてくるようで、幼い頃の記憶が鮮明に甦る。父が窓辺でカメラを手入れしながら微笑んでいた姿も、心の奥から浮かび上がってきた。誰一人として、昨夜この町で何が起きたのか知らないかのように。呼吸するたびに、胸の奥に重いものを感じる。これが新しい記憶と古い記憶の混ざり合う感覚なのだろうか。
「記憶は不思議なもの」
背後から声が聞こえた。振り返ると、クロミカゲが立っていた。青白い髪と金色の目、そして狐の耳と尻尾を持つその姿は、昨夜奥宮で生まれた新たな存在—チヨとクロが一つになった姿だった。朝の光を受けると、その姿は半透明になり、光が透過して虹色の光芒を放っていた。部屋の隅では時間の軋む音が微かに響き、クロミカゲの言葉に呼応するように空気が震えている。
「姉さん…いや、クロミカゲ」
「どちらでもいい」彼らは微笑んだ。その表情にはチヨの優しさとクロの知性が混ざり合っている。「私の中には、二人の記憶と意識が共存している」
クロミカゲの瞳の色が一瞬だけ変化した。右目が青く、左目が金色に輝き、次の瞬間には元に戻る。彼らの内側でも、二つの意識が調和を模索しているのだろう。まるで、遠い記憶の向こうから父と母が互いを見つめるような、親密さと緊張感が同居している。
「まだ完全に安定していないようだね」クロミカゲは自分の手を見つめた。その指先から微かな青い光が漏れ、瞬く間に消えていく。「二つの魂が一つになるには、時間がかかる」
「クロミカゲ…あなたは、姉さんでもあり、クロでもある新しい存在なのね」ルカは慎重に言葉を選びながら尋ねた。「町の人々には見えないの?」
「そうだ。私は写し世と現世の狭間に存在する者。特別な目を持つ者か、写し世との強い繋がりを持つ者だけが私を認識できる」クロミカゲは窓の外を見つめながら答えた。「チヨの記憶と魂はこの姿の核となり、クロの力と意識がそれを包み込んでいる。二つの存在が融合した新たな存在、それが私だ」
「このまま進めば、あなたは巫女の境界に引き込まれるかもしれない」クロミカゲが突然真剣な表情で言った。「写し世の力を扱えば扱うほど、現世に留まることが難しくなる。それに備えるべきだ」
ルカはその警告の重みを感じながらも、クロミカゲの姿をじっくりと見つめた。その姿は不思議と町の人々には見えないらしく、朝からの買い物に静江と出かけた風見蓮も、他の人々もクロミカゲに気づかなかった。写し世と現世の狭間に存在する者として、その姿は特別な目を持つ者にしか見えないのだ。
「私の記憶は…少し混乱しているの」
ルカは額に手を当てた。昨夜の儀式で、彼女は姉を忘れていた10年間の記憶を代償として差し出した。その結果、頭の中は断片的な記憶で埋め尽くされ、時系列が曖昧になっている。父がカメラを構えた日の光景、母が花を活けていた朝の匂い、三人で撮った家族写真の温もり—それらが次々と甦る。そして、それらに混じって、父がチヨを救うために欠片を探していた姿や、母が静かに涙を拭っていた夜の記憶も。喉元まで込み上げてくる感情の波に、彼女は一瞬戸惑った。これまで感じたことのない強さで、悲しみと喜びが同時に押し寄せる。
「当然だ。記憶の再構築には時間がかかる」
クロミカゲは窓辺に近づき、外の景色を見た。その姿が窓ガラスに反射せず、直接外の景色が透けて見えることに、ルカは奇妙な感覚を覚えた。
「記憶は単純な直線ではない。螺旋状に絡み合い、時に交差し、互いに影響し合う」
クロミカゲが指で空中に螺旋を描くと、その軌跡に青い光が残り、ゆっくりと消えていった。軌跡が描く模様は、父のレンズを通して見た光の軌跡に似ていた。
「10年間の空白は大きな代償だった」クロミカゲの表情が鬱陶しさを帯びる。「その喪失が、今後あなたの人間関係にどう影響するか…見守る必要がある」
その言葉の重みをルカは感じた。失われた記憶には、もう二度と取り戻せない人々や場所、感情があるのだろう。彼女は喪失感と期待が混ざり合う複雑な思いを抱えたまま、静かに頷いた。かつての彼女なら、この混乱した感情を即座に抑え込んだだろう。しかし今は、その複雑な感情を少しずつ自分の中に受け入れようとしていた。
「でも、なぜ町の人たちは何も覚えていないの? 祭りの異変も、奥宮での出来事も」
「秘匿の霧がかかったからだ」
クロミカゲは説明した。狐神の力の一部である「秘匿の霧」は、一般の人々から超常的な出来事の記憶を隠す。それは彼らを守るためでもあり、世界の均衡を保つためでもある。
「秘匿の霧は写し世と現世の均衡を保つ自然の仕組みなんだ。過剰な記憶の漏出が現世に混乱をもたらさないよう、通常の人間の記憶から消し去る」
耳を澄ますと、遠くから鈴の音が微かに聞こえてくるようだった—過去の記憶の残響だろうか。
「風見蓮は? 彼も忘れてしまうの?」
クロミカゲの表情が柔らかくなった。
「彼は特別だ。完全には忘れないだろう。感覚として、あるいは夢として、記憶は残る」
両手を広げると、指先から微かな青い光が放たれた。
「彼の目は真実を見る力を持っている。祖父譲りの才能だ。彼の科学的な視点と記録が、秘匿の霧に溶けない錨となる」
朝食の準備をするため、ルカは一階へと降りた。チクワが彼女の足元に擦り寄り、クロミカゲに向かって親しげに鳴いた。
「チクワは私を認識している」クロミカゲは猫の頭を優しく撫でた。「動物は真実を見る目を持っている」
猫の瞳が金色に輝き、その白黒の毛並みが一瞬青く染まったように見えた。チクワはクロミカゲの手に頭をこすりつけ、懐かしむように喉を鳴らした。胸の下ではカシャリと硬い音を立てて、何かを伝えようとしているようだった。
「この猫は影向稲荷の使者だ」クロミカゲが静かに付け加えた。「夢写師の記憶を守る存在として、代々この館に寄り添ってきた」
チクワが魂写機の方向を見つめ、まるでそれを守るかのように低くうなった。彼の金色の瞳には、遠い記憶の残響が映っているかのようだった。
朝食を終え、片付けを終えたルカは、ふと思い立った。心臓が早鐘を打ち、手のひらに汗がにじむ。何かに呼ばれているような感覚が、彼女の全身を駆け巡る。遠くから母の「行っておいで」という声が聞こえるような錯覚さえある。
「現像室に行かなきゃ」
クロミカゲは少し驚いた表情を見せた。右目の紋様が強く輝き、表情が一瞬チヨのものに似た柔らかさに変わった。
「なぜだ?」
「なんだか…呼ばれている気がするの」
ルカはその感覚を言葉にするのが難しかった。心の奥から聞こえる声、魂の呼応のような感覚。父が古いカメラを初めて触らせてくれた時の高揚感、母が写真整理を手伝ってくれた時の温もり、そんな感覚が混ざり合っている。しかし、その衝動に従わずにはいられなかった。
「くらやみ」と呼ばれる現像室へと向かった。土蔵を改造したこの空間は、写し世との境界が最も薄い場所。橋爪家代々の夢写師が、写祓の儀式を行ってきた聖域だった。扉に手をかけると、その木の感触がいつもより温かく感じられた。まるで生きているかのように、木目が脈打っているようだった。
扉を開けると、中は普段より暗く感じられた。窓から差し込む光も弱く、壁の鏡は曇っているようだった。まるで深い水の底にいるような、圧迫感と浮遊感が同時に訪れる。頭の奥に、父が好きだった古い歌が流れ始めた。部屋中に埃と古い薬品の匂いが漂い、床には過去の写真師たちが残した足跡の痕が微かに見える。壁に並ぶ写真から、かすかな囁き声が聞こえるかのよう。
「おかしいわね…」
ルカは懐中電灯を点け、中に入った。クロミカゲも黙ってそれに続く。
現像室の中央に立つと、ルカは違和感を覚えた。床に描かれた魔方陣が、かすかに光を放っている。まるで、何かの儀式が今まさに始まろうとしているかのように。「奥宮の光が現像室に繋がっている」という感覚が彼女を包む。空気が重く、粘りつくような感覚がある。呼吸するたびに、胸が締め付けられるような痛みが走る。そして、耳の奥では時間の軋む音が次第に大きくなっていく。
「これは…」
「記憶の深淵が開こうとしている」
クロミカゲの声に緊張が混じった。その姿が揺らぎ、一瞬チヨとクロの二人の姿が重なって見えた。
「私の中のバランスも崩れている…」クロミカゲは苦しげに呟いた。「チヨの意識がルカの記憶に共鳴し、俺の力を制限する。この場所が、彼女の記憶を刺激するんだ」
「大丈夫?」ルカが心配そうに問うと、クロミカゲは小さく頷いた。
「チヨの記憶と意識は私の中核だが、クロの力と意志がそれを包み込み、形を与えている。だが時に、強い感情や場所の力によって、このバランスが崩れる。今、お前の記憶が再構築される過程で、現像室も反応している。深層の記憶が浮かび上がろうとしているんだ」
その言葉に呼応するように、床の魔方陣の光が強まった。同時に、壁の八つの鏡がそれぞれ異なる光景を映し始める。鏡の表面が波打ち、液体のように揺らめいている。まるで母の化粧鏡に映る幼い自分のように、懐かしくも不思議な感覚だった。
「これは…私の記憶?」
ルカは息を呑んだ。鏡に映るのは、彼女が体験してきた様々な場面だった。しかし、それだけではない。彼女が知らない、あるいは忘れていた記憶も映っている。時間が歪み、異なる時代の記憶が同時に流れている。
「姉さんと写し世へ行った記憶…」
一つの鏡には、幼いルカとチヨが手を繋ぎ、霧の中を歩く姿が映っていた。別の鏡には、初めての写祓の様子。そして、最も大きな鏡には、十年前の封印の儀式が鮮明に映し出されていた。父が魂写機を構え、震える手で最後の家族写真を撮ろうとしている。母が涙を堪えながらルカを抱きしめている。「現像室の魔方陣は夢写師の記憶を写し世に繋ぐ」というクロミカゲの声が、どこからともなく響く。
「私、あの時…何をしていたの?」
少女時代のルカは、儀式の傍らで何かを握りしめている。両親がルカを抱きかかえ、必死に押さえつけている。幼いルカの口から叫び声が上がる。「お姉ちゃん!行かないで!」
その光景を見て、ルカの胸に激しい痛みが走った。記憶が鮮明に甦り、当時の絶望感が彼女を襲う。幼いころの自分が感じた無力感、喪失感、そして深い悲しみ。両親はチヨを失った後、言葉少なくなり、写真を取ることさえ避けるようになったことも思い出した。膝が震え、彼女はその場にしゃがみこんだ。冷たい恐怖が心に侵入する感覚、写し世の脅威を肌で感じる。しかし、同時にそれは彼女が長年抑え込んできた感情の解放でもあった。痛みと共に、何かが解き放たれていくような感覚。
「あの時、私は…」
「耐えられなかった」クロミカゲが彼女の肩に手を置いた。「だから、記憶を閉ざした。それが、お前を守る唯一の方法だった」
彼の声には、チヨの優しさが入り混じっていた。まるで姉が傍らで囁きかけるような、温かく懐かしい声色。
涙が頬を伝い落ちる。これまで抑圧していた感情が、一気に解放されるような感覚。幼い頃の記憶に秘められた、深い絶望と喪失が彼女を揺さぶる。父がカメラを箱に閉まい、母が写真のアルバムを閉じて泣いていた日の記憶。そして両親を失った後、ただ一人写真館を守り続けた孤独な日々。影向稲荷の札を手に持つと現像室の光が安定する感覚があった。
「あの時計…」
ルカは震える手で胸ポケットから懐中時計を取り出した。針は七時四十二分を指したまま。しかし、昨夜からわずかに動いているような気がする。七時四十三分。表面に刻まれた模様が、魔方陣の光に反応して青く輝いている。父が大切にしていた、祖父の形見の時計だった。
「これは封印の瞬間を指している」
クロミカゲが説明した。
「チヨがお前に最後に渡したもの。『時間が止まっても、記憶は流れ続ける』という思いを込めて」
「チヨの時計が魂写機と共鳴し、私の記憶を呼び覚ます」とルカは感じた。クロミカゲが「チヨの意識がルカの記憶を写し世に繋いだ」と補足する。
ルカは時計をじっと見つめた。チヨの最後の言葉が耳に蘇る。「わたしのこと、ずっと覚えていてね」
時計を鏡に向けた。瞬間、時計と鏡が共鳴するように光を放った。まるで父のフラッシュが焚かれたように、まばゆい閃光が部屋中を包む。
「何が…」
現像室全体が震動し始めた。床の魔方陣が強く輝き、鏡の映像が流動的に変化していく。現在と過去、現実と記憶が入り混じっているようだ。ルカの足下で床が揺れ、天井から砂埃が落ちてくる。遠くから時計の振り子が大きく揺れる音が響き、耳の奥で時間の軋む音が強まった。
「記憶の深淵が開いている。時の狭間の最深部だ」
クロミカゲの声にも動揺が混じった。その姿がさらに不安定になり、チヨとクロの姿が交互に現れては消える。
「これは予想外だ。お前の記憶の再構築と、私の誕生が相互に影響し合っている」
心の奥で、何かがほどけていくような感覚。長年縛られていた鎖が解き放たれるような解放感と、同時に恐怖も感じる。ルカの中で感情の洪水が押し寄せてきたが、今回は抑え込もうとはしなかった。父の「感じることから逃げてはいけない」という言葉が心に響く。少しずつ、彼女は自分の感情と向き合い始めていた。
「クロミカゲ、あなたは?」
「大丈夫だ…チヨの意識が強くなりすぎているだけだ。彼女もまた、お前との約束を果たそうとしている。ルカの巫女の力で私の存在が安定する」
床から光の柱が立ち上がり、天井の月見窓に向かって伸びていった。それは現像室を完全な写し世空間へと変容させつつあった。部屋の色彩が反転し始め、暗いはずの部分が明るく、明るいはずの部分が暗く見える。すべての音が反転したように、静寂の中に強烈な音の波が押し寄せてくる。
「もう少し続ければ、あなたも巫女の境界に引き込まれるかもしれない」クロミカゲが警告した。「肉体を持つ者が時間の波動に長く晒されると、精神が現世から切り離される危険がある。でも…これはあなたにとって必要な試練かもしれない」
「どうすれば…」
言葉が終わる前に、光が爆発的に広がり、ルカの視界が白く染まった。
意識が戻ったとき、彼女は見知らぬ空間に立っていた。無限に広がる白い空間。床も壁も天井もなく、ただ白い霧のようなものが漂っている。耳を澄ますと、霧の奥から遠い笑い声が聞こえてくる。母と父と姉と自分、四人の家族の笑い声。これが時の狭間の最深部、記憶の深淵なのだと直感的に理解する。
「ここは…」
「記憶の深淵だ」
クロミカゲの声が聞こえたが、その姿は見えない。声だけが空間に反響するように響く。遠くからは時間の波紋が小さな水滴の音を立てて広がっていく。
「お前の記憶の最深部。時の狭間の中で最も深い場所だ。通常、生きている人間が訪れることのできない場所。肉体を持つ者は時間の波動に耐えられないため、この場所に辿り着くことは難しい」
ルカは周囲を見回した。霧の中に、様々な映像の断片が浮かんでいる。それぞれが彼女の記憶の一部だ。子供の頃の遊び、学校での出来事、写祓の儀式、そして両親との思い出。父が初めて小型カメラを手渡してくれた日の喜び、母が写真の現像を教えてくれた夏の夕暮れ、両親とチヨと四人で撮った最後の家族写真。特に鮮明なのは、父が「写真は心の鏡だ」と語った夜の記憶だった。彼は魂写機を手に取り、ルカの肩に手をかけて、「いつか、この焦点の先に別の世界が見えるようになるだろう」と静かに言ったのだ。
歩くと、足下に波紋が広がり、色が反転する。歩いた後の足跡が黒く残り、ゆっくりと元の白に戻っていく。時間の感覚が歪み、言葉が引き伸ばされて聞こえる。記憶の霧が彼女の記憶に応じて色を変化させる—両親の思い出は暖かな赤とオレンジ、孤独の記憶は深い青へと。
「なぜ私がここに?」
「お前は特別だ。夢写師として、そして…封印の鍵を持つ者として」
霧が渦を巻き、一つの形を作り始めた。それはチヨの姿だった。彼女は儀式の時と同じ巫女装束を着ている。色彩が反転し、白い小袖が黒く、赤い袴が青く見える。
「姉さん…」
しかし、それはクロミカゲの一部が形作ったものだった。
「私の中のチヨの意識が、この形を取った。お前に見せたいものがある」
チヨの姿をしたクロミカゲは、霧の向こうを指さした。そこには一つの扉が浮かんでいた。古い木製の扉。父が仕事部屋に使っていた部屋の扉によく似ている。光と影が交錯し、扉自体が呼吸をするように膨張と収縮を繰り返している。
「視覚化して理解しやすくするため、チヨの姿を借りている。私の中の彼女の意識は独立した存在ではなく、クロとの融合体の一側面だ。この姿は一時的なもので、純粋にチヨ自身ではない」クロミカゲはルカの混乱を察したのか、説明を加えた。
「現像室の奥の扉」
彼女は呟いた。写真館の現像室には、普段は見えない扉があると言われていた。「記憶の深淵」と呼ばれる空間への入口。橋爪家の書物に記された、伝説の扉。父もよく話していた、魂写機の本当の秘密を隠した扉。
「その扉の向こうに、最後のピースがある」
「最後のピース?」
「ああ。お前の記憶を完全にするための、そして…私たちの真の姿を知るための」
「写し世の深淵は記憶の最深部。この場所は通常、生きている人間が訪れることはできない」クロミカゲの声が説明を加えた。「だが、お前は影写りの巫女の血を引く者。その力が目覚めれば、この場所との交流が可能になる」
ルカは扉に向かって歩き始めた。霧の中の記憶の断片が、彼女に触れるように寄ってくる。幼い頃に両親と過ごした夏祭り、学校での忘れかけていた友人との思い出、写祓の最初の成功体験…それぞれが彼女の心を揺さぶり、時に喜び、時に悲しみをもたらす。父が魂写機の使い方を教える声が聞こえ、母が写真の美しさを語る言葉が響く。
父が「写真は感情の結晶だ」と語り、母が「記憶は水の流れのよう」と囁く声も、鮮明に蘇ってきた。
霧の中から、写真館のミニチュアや両親の作業部屋が浮かび上がり、記憶の舞台を多様に彩る。父がチヨを救うために欠片を探す姿、母が静かに祈る後ろ姿—これまで彼女が知らなかった記憶の断片までもが甦る。
しかし不思議なことに、どれだけ歩いても扉との距離は変わらないように感じる。歩けば歩くほど、扉が遠ざかるような錯覚。
「どうして…近づけないの?」
「お前自身が拒んでいるからだ」
チヨの姿が彼女の横に現れた。色彩が反転した世界で、その姿だけが本来の色彩を保っていた。温かく、懐かしい色合い。
「心のどこかで、真実を知ることを恐れている」
「そんなことない…私は姉さんを取り戻すために、すべてを捧げたわ」
「それは間違いない。だが、お前は他の何かも恐れている」
チヨの指が彼女の胸に触れた。その接触で、ルカの胸が熱くなる。鼓動が早まり、呼吸が浅くなる。
ルカは立ち止まり、自分の内面を見つめた。何を恐れているのだろう。姉を失うこと? 記憶を完全に失うこと? それとも…
胸が締め付けられる感覚。両親の葬儀で流れた曲が耳に蘇る。父のカメラを撮る手が止まり、母の微笑みが消え去った日。チヨがいなくなった後の孤独な夜々。感情を抑え込み、冷静を装った日々。自分の心に蓋をして生きてきた時間。
「私は…自分自身を恐れているの?」
「そうかもしれない」
チヨの姿をしたクロミカゲが彼女の肩に手を置いた。その手から温かさが伝わってくる。母の手のぬくもりに似た、安心感を与える温かさ。
「夢写師として、お前は常に他者の記憶と向き合ってきた。だが、自分自身の記憶とは真剣に向き合ってこなかった」
それは確かに真実だった。ルカは自分の感情を抑え、他者の記憶を写し取ることに集中してきた。自分自身の記憶や感情を深く掘り下げることを避けてきたのだ。
「過去の巫女たちは記憶を守ることに専念してきた」チヨの姿が静かに語った。「だが、お前には別の可能性がある。記憶を創る力だ」
「記憶を…創る?」
「そう。記憶を守るだけでなく、新たな記憶を創り出す。それこそが、次の段階の影写りの巫女の使命」
幼い頃のルカの姿が霧の中に浮かぶ。泣き叫ぶ少女、感情を爆発させる子供。そして次第に表情が硬くなり、感情を閉ざしていく少女の姿。
「感じると傷つくから…」彼女は呟いた。「だから、感じないように…」
父が仕事に没頭し、母が黙って家事をこなす姿。両親が喪失感から立ち直れず、少しずつ生気を失っていく様子。そして、残されたルカが必死に感情を押し殺し、普通の顔をして生きようとする姿。彼女は両親の葬儀でさえ、涙を見せることができなかった。
「あなた自身も強い人だったけれど、チヨを忘れたとき、感情も一緒に閉じ込めてしまったのね」チヨの姿が溜息交じりに語った。
「私が向き合うべきこと…それは…」
ルカの脳裏に、様々な記憶の断片が浮かび上がる。両親との記憶、チヨとの思い出、孤独だった日々、そしてクロとの出会いと旅。すべての記憶が彼女の中で重なり合う。
「感情を抑えなくていいんだよ、ルカ」
その言葉が、彼女の心の奥深くから蘇ってきた。チヨは常に彼女に言っていたのだ。感情を表現することの大切さを。それは決して弱さではなく、強さなのだと。父も母も、本当は同じことを伝えようとしていた。
ルカの目から涙があふれ出た。これまで抑え込んできた感情の波が、彼女を押し流す。悲しみ、喜び、怒り、恐れ、そして愛。あらゆる感情が一度に解放される。その感情の奔流は一気に押し寄せるものではなく、長い間閉ざされていた扉が少しずつ開いていくような感覚だった。
「私は…自分の感情を恐れていた」
ルカは静かに認めた。両手で顔を覆い、肩を震わせる。
「感じると傷つくから、感じないようにしてきた。でも、それは半分の生き方だった」
チヨの姿をしたクロミカゲが彼女を抱きしめた。
「そう、ルカ。感情を恐れる必要はない。感情こそが、人間の証だから」
その言葉は、父が写真を撮る意味について語った言葉と重なる。「写真は感情を写すものだ。感情が宿らなければ、ただの絵に過ぎない。」
ルカは涙を拭い、決意を固めた。そして、彼女は少しずつ感情を受け入れ始めた。一度に全てではなく、一歩一歩、自分自身と向き合っていくという決意。再び扉に向かって歩き始めた。今度は、扉が少しずつ近づいてくる。彼女の決意が、扉を引き寄せているかのように。「ルカの感情解放が写祓の最終段階」という認識が彼女の中に生まれる。
「そう、その調子だ」
ルカの背後でチヨの声が励ました。それは母が初めてカメラを持たせてくれた時の声と重なる。「怖がらなくていいよ。自分の目で見たものを写せばいい。」
「自分自身を受け入れれば、扉は開く」
扉の前に立ったルカは、深く息を吸った。その扉の向こうに何があるのか、まだ分からない。しかし、もう逃げることはない。魂写機を通じて写し世と対話する感覚が彼女を包み込む。
「姉さん…わたし、もう逃げないよ」
彼女はノブに手をかけた。手が震え、胸がドキドキする。恐れもある。だが、その恐れに負けない決意がある。
「感情を抑えなくていいんだよ」とチヨの言葉が心に響く。それは父と母の言葉でもあった。
「写祓には二つの段階がある」チヨの形をしたクロミカゲが静かに語った。「まず記憶を結晶として写真に定着させる『結晶化』。そして次に、その記憶が実体を持って現れる『具現化』。お前はこれまで結晶化しか成し遂げていなかった。だが今、感情を解放することで、具現化の扉が開かれようとしている」
ルカは扉を開いた。
まばゆい光が彼女を包み込み、意識が再び遠のいていった。光の中から、父の笑顔と母の優しい目が浮かび上がり、チヨの手が彼女を導くように伸びてきた。
目を覚ますと、ルカは現像室の床に横たわっていた。頭に鈍い痛みを感じる。外から急ぐ足音と、扉をノックする音が聞こえる。
「気がついたか」
クロミカゲが彼女の傍らに座っていた。その姿はより安定し、チヨとクロの特徴が調和しているように見える。表情には安堵の色が見える。
「どれくらい…気を失ってた?」
「数分だ。だが、お前の中では、もっと長い時間が流れたのだろう」
ルカはゆっくりと起き上がった。頭の中が驚くほど整理されている感覚がある。記憶の断片が正しい場所に収まり、時系列が明確になっている。そして何より、感情が少しずつ自由に流れるようになった感覚。代償の喪失が彼女の感情を解放したことを実感する。
「私、思い出したわ…すべて」
彼女は静かに言った。胸の奥から湧き上がる感情を、もはや恐れていない。しかし、それは嵐のような感情の爆発ではなく、静かな小川のような穏やかな流れだった。少しずつ、彼女は自分自身と和解し始めていた。
「十年前の封印の儀式で、私は姉さんから時計を受け取った。『必ず帰ってくる』という約束と共に」
クロミカゲは頷いた。
「そして、お前はその約束を守った」
ルカは懐中時計を見た。針がわずかに動いている。七時四十三分。一分だけ進んだのだ。かつて父が「時間は記憶の流れを映す鏡だ」と語っていたことを思い出す。
「時間が…動き始めた」
「ああ。記憶が戻り、封印が解けたからだ」
ルカは立ち上がり、現像室を見回した。壁の鏡は普通に戻り、床の魔方陣も光を失っていた。しかし、部屋の雰囲気は以前と違う。より明るく、より開放的に感じられる。窓から差し込む光が、以前よりも鮮やかに見える。父が最後に撮った家族写真が壁にかかっている気がした。
「でも、扉の向こうで見たもの…あれは何だったの?」
「それは…」
クロミカゲが言葉を切ったとき、現像室の扉が開いた。風見蓮が心配そうな顔で顔を覗かせている。彼の手には小さな機械と、祖父の日記らしきノートがあった。
「ルカさん!大丈夫ですか?」
「蓮さん…」
「写真館が揺れて、光が見えたので…」
彼は現像室に入ってきた。ノートを開き、何かのデータを記録している。クロミカゲの姿は彼には見えていないようだが、蓮の目は部屋の異変を感じ取っているようだった。耳を澄ませば、彼の周りに時間の軋む音が微かに響いているのが聞こえた。
「僕の計測器が振り切れました。祖父の記録にも、『記憶の波動』が最高潮に達すると空間が振動すると…」
彼は熱心にデータを記録し、しばらくして顔を上げた。ノートを開きながら、「祖父は科学で測ろうとしたものを、僕は今、目の前で感じている」と呟いた。
「何があったんですか?」
「ちょっとした…記憶の整理」
ルカは微笑んだ。これまでにないほど自然な笑顔だった。蓮の存在が、現実に戻ってきた感覚を強めてくれる。彼は「普通の人間」として、彼女を現世に繋ぎとめる錨のような役割を果たしていた。母が「人と人との絆は、決して記憶だけでは作られない」と言っていたことを思い出す。
「本当に大丈夫ですか? 顔色が…」
彼はルカの手を取り、脈を確かめるように親指で手首を軽く押さえた。その優しさに、ルカは感謝の気持ちを覚えた。
「ええ、むしろ良くなったくらい」
蓮は彼女をじっと見つめた後、安心したように肩の力を抜いた。しかし、その目は鋭く部屋の隅々まで観察している。蓮の存在が彼女に現実感を与えてくれる。失われた10年間の記憶の喪失感の中で、新たな繋がりの温かさを感じた。
「何か…見えませんか?」ルカが尋ねた。
「いいえ、見えはしません。でも感じます」彼は静かに答えた。「祖父と同じように」
「良かった。あなたがいてくれて良かった」
ルカは素直に気持ちを伝えた。蓮の頬がわずかに赤くなった。彼はルカがこれほど率直に感情を表現するのを見たことがなかった。失われた記憶と引き換えに、彼女は少しずつ感情を表現する術を取り戻しつつあった。
「そろそろ、準備をしなくちゃ」
ルカは現像室を出ようとした。蓮の手をそっと握り、クロミカゲに頷きかける。
「準備?」
「ええ。明日から、私たち…新しい旅を始めるの」
「新しい旅?」
「そう。記憶をすべて失った村を探す旅」
彼女の声には確信があった。扉の向こうで見たもの、感じたことが、彼女に新たな使命を与えたのだ。そして、耳の奥で風の音が囁いた—「心の欠片」「霊の欠片」「封印の欠片」という言葉が、風に乗って届いてくる。
「行きます」蓮は迷わず言った。「僕も一緒に」
ノートを閉じ、彼は真剣な表情でルカを見つめた。
「僕の祖父も、その村のことを探していました。記録によれば、霧梁県の北部に存在するはずです。彼は『記憶の波紋』と呼ばれる現象を研究していて、夕霧村で何かを発見したようです」
「夕霧村…」ルカは静かに言葉を繰り返した。その名前は知っているはずなのに、記憶が霧の中にあるようで、捉えどころがない。
「ありがとう」
ルカは心からの笑顔を蓮に向けた。彼女の目に涙が光っていたが、それは悲しみの涙ではなく、感動の涙だった。父の「写真は感情の記録だ」という言葉が心に響く。
現像室を出て、彼らは写真館の客間に向かった。そこには静江が座り、お茶を飲んでいた。チクワをそばに置き、猫の額を優しく撫でている。
「すべて思い出したようだね」
老婆は静かにルカを見つめた。その目には知恵と経験が宿り、どこか優しさと厳しさが混在している—母の眼差しに似ていた。
「ええ。そして、これから何をすべきかも分かったわ」
「そうか。では、お前たちの旅は続くのだな」
静江は茶碗を置き、「欠片の旅はまだ続く」と静かに告げた。彼女の言葉に、ルカの心が高鳴った。
「はい。でも今度は、何かを取り戻すためではなく、何かを見つけるための旅です」
ルカの眼差しに強い決意が宿っていた。もう迷いはない。扉の開封で見た風景、彼女が失った記憶と引き換えに得たもの—それは希望だった。
「明日の朝、出発しましょう」
彼女は窓の外を見た。午後の陽光が町を明るく照らしている。かつてないほど世界が鮮明に見える気がした。色彩が豊かになり、音も匂いも触感も、すべてが鮮やかに感じられる。遠くから小鳥のさえずりが聞こえ、風に乗って花の香りが漂ってくる。
「新たな旅が、私たちを待っている」
夕暮れが近づき、写真館の窓から赤い光が差し込んでいた。ルカは新しい旅の準備をしながら、自分の中に湧き上がる感情の強さに驚いていた。恐れ、期待、そして決意。かつては抑え込んでいたそれらの感情が、今は彼女の中で共存している。それは嵐のような感情の爆発ではなく、穏やかな波のように彼女の心の中を流れていた。
チクワが彼女の足元で丸くなり、穏やかに眠っていた。ルカはそっと猫の頭を撫で、柔らかい毛並みの感触を味わった。金色の瞳が一瞬開き、魂写機の写真を守るように前足を置いた。今まで気づかなかった小さな幸せに、彼女の目に涙が浮かぶ。
「感情を抑えなくていいんだよ」
チヨの言葉が、今や彼女自身の信念となっていた。その言葉を思い出すたびに、胸が温かくなる。それは父と母が常に彼女に伝えようとしていたことでもあった。
窓際に立ち、ルカはクロミカゲの姿を見た。半透明の彼らは夕陽に照らされ、幻想的な輝きを放っていた。月のない夜でも、彼らの姿はわずかに光を帯びている。時折、クロミカゲの影が壁に映り、九つの尾を持つ狐の姿になって揺らめいていた。
「準備はいいか?」クロミカゲが尋ねた。
「ええ。明日への準備は整ったわ」
「新しい旅だ。今度は失われた村を探す。心、霊、封印の欠片は失われた村に眠っている」
ルカは頷いた。今度は強い覚悟を持って旅に出る。かつてのように受け身ではなく、自ら真実を求めて歩み出す旅だ。耳元では、父のカメラのシャッター音が懐かしく響いた—カシャリ。
「私は影写りの巫女の継承者なのかしら」ルカは自分の力の源について考え込んだ。「チヨの記憶を取り戻したけれど、私の力はまだ何も証明していない。本当の巫女として活動できるのか…」
その疑問は彼女の心に静かに宿り、次の旅での試練への準備となった。
客間では風見蓮が地図を広げ、旅の計画を立てていた。彼の熱心な様子を見て、ルカは心強さを感じた。
「蓮さんも一緒に来てくれるなんて、本当にありがたいわ」
「僕の喜びです。祖父の記録を完成させる機会でもありますから」
蓮は少し照れくさそうに微笑み、眼鏡を直した。その手つきは真っ直ぐで誠実さに溢れ、ルカには父が地図を広げていた姿と重なって見えた。
「僕の科学的な視点と記録が、写し世の謎を解明する助けになれば」と蓮が付け加えた。「祖父は言っていました。『科学と神秘は、本来は対立するものではない。互いを照らし出すものだ』と」
静江は彼らを見守りながら、静かにお茶を飲んでいた。
「もう迷いはないようだね」と彼女は言った。
「ええ。もう迷わない。過去に縛られず、未来を見つめて歩いていくわ。他者の記憶を癒すための巫女として」
ルカは沈みゆく太陽を見つめた。明日から始まる新たな旅に向けて、彼女の心は静かな決意に満ちていた。時間の軋む音が静かになり、代わりに遠くから鐘の音が聞こえてくるようだった—新しい始まりを告げる音色。
「姉さん…私、もう逃げないから」
そして彼女は、初めて長い間、心から笑顔を浮かべた。その笑顔には、かつてのチヨの面影が宿っていた。感情を抑えることなく、素直に表現できる自分を、もう恐れる必要はないのだと感じた。「記憶を守ることも、変えることも、どちらも大切」というクロミカゲの言葉が心に響く。
夕陽は徐々に沈み、新しい日の幕開けを予感させていた。明日は、また新たな一歩を踏み出す日。ルカは深呼吸し、その瞬間を静かに味わった。新たな旅の先に、失われた欠片と、そして自分自身の新たな姿が待っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます