第8章「影写りの祭りの夜」
祭りは記憶の再現。
繰り返される儀式の中に、先人たちの祈りと知恵が宿る。
忘却に抗う、静かな抵抗。
「久遠木に戻るんですか?」
風見蓮が尋ねた。三人は山中の廃教会を後にして一夜を野営で過ごし、帰路についていた。朝霧が徐々に晴れ、山道の先に久遠木の町並みが見え始めている。湿板を入れた鞄を大切そうに抱えた蓮の眼鏡に朝日が反射していた。その瞳には好奇心と冒険への興奮が宿っていた。
「ええ。次の欠片を探す前に、少し準備が必要なの」
ルカは答えた。四つの欠片を持ちながらも、彼女はまだ一つしか使っていない。声の欠片だけが消費され、願いの欠片、時の欠片、光の欠片はまだ手つかずのままだ。彼女の胸ポケットが重く、欠片たちの存在を感じる。それぞれの欠片が共鳴するように脈打ち、微かな温もりを放っていた。
欠片に触れるたび、失われた記憶の断片—両親との最後の会話、初恋の記憶、チヨの見た最期の夢、そして光の欠片で失った「隠された真実の記憶」—が痛みとなって胸に染みる。それでも、この旅を続ける決意は揺るがなかった。
「それに、今夜は『影写りの祭り』だから」
「影写りの祭り?」
蓮の目が好奇心で輝いた。彼は小さなノートを取り出し、何かを走り書きした。その手つきには科学者の鋭い観察眼と、子どものような純粋な興奮が混ざり合っていた。
「私も聞いたことがあります。霧梁県の夏至の祭りですよね? 祖父の観測記録にも特別な項目がありました。『記憶の波動が最も強まる夜』と…」
彼はノートのページをめくり、そこに書かれたグラフを指さした。波線の頂点に赤いマークがあり、「夏至・記憶共鳴点」と書き込まれていた。その横には月の満ち欠けと霧の濃度の関係を示す複雑な数式が並んでいた。
「祖父の研究によれば、この夜は写し世と現世の境界が最も薄くなる。気象データと集団的記憶の相関関係が数値的に証明できるんです」
彼は数ページめくると、色あせた気象図を見せた。それは十年前の夏至の夜の霧梁県上空の気圧分布図で、中心から放射状に広がる異常な低気圧の模様があった。
「これは十年前、チヨさんの封印の夜の観測データです。祖父は『史上最強の記憶波動』と記録しています。科学的に見ても異常な現象だったんですね」
彼の声は興奮と敬意に満ちていた。科学的なデータで超自然現象を説明しようとする姿勢は、物事を異なる視点から捉える彼の特性を表していた。
「そう。毎年夏至の夜に行われる、影向稲荷の大祭よ」
ルカは説明した。「影写りの祭りは、記憶を共有し、定着させる儀式。八百年前から続く伝統なの」
彼女の言葉に、蓮はますます興味を示した。彼のノートには「集合的記憶の儀式化」という見出しが追加された。
「ところで、この祭りの目的は何なんですか?」蓮が熱心に尋ねた。
「八百年前、霧梁県を大飢饉が襲ったとき、村人たちの集合的記憶を写し取り、神に捧げることで災いを封じたという」ルカは昔から聞かされていた言い伝えを話した。「それ以来、毎年夏至の夜に写し世と現世の境界が薄くなる時、町の人々の記憶を写し取って、影向稲荷に奉納しているの」
「つまり、夢写師の役割は…」
「町の記憶の守り手として、記憶を定着させること。それが祖父や父、姉、そして私の役目よ」
クロが突然足を止め、久遠木の方向を見つめた。その右目の円形紋様が微かに青く輝いている。紋様の光は風に揺れる炎のように不安定で、何かに反応しているようだった。
「今夜は特別だ。十年ぶりの…強い月だ」
その声には珍しく緊張が滲んでいた。低く震えるような声色に、内面の不安が表れていた。ルカは思わず彼の顔を見上げた。黒い狐の面の向こうに、何か懐かしいものを感じる。紋様の光が強まると、面の下から微かに女性の囁きが漏れたようにも聞こえた。
「クロ?」
「…何でもない」
彼は面をわずかに直し、歩き始めた。その動作には不自然さがあり、何かを押し込めようとしているかのようだった。ルカには、彼が何か重要なことを隠しているように思えた。「重要なことは祭りの後に」と彼は小さく呟いた。
遠くで、時間の軋むような低音が微かに響き、彼女の耳を震わせた。朝霧の中に、過去の歩み声が隠れているような錯覚。風に乗って、遠い祭囃子の音色が幽かに聞こえてきた。それは記憶の中の音か、実際の音か、区別がつかなかった。
チクワは先を行き、時折振り返っては金色の瞳をルカに向けた。その毛並みが朝の光を受けて一瞬青く輝いた。猫の足跡は露を滲ませる草地に星形の跡を残し、それらは歩くたびに新しい模様を作りだしていく。
久遠木に近づくにつれ、町が普段と違う雰囲気に包まれていることに気づいた。通りには色とりどりの提灯が飾られ、店先には祭りの装飾がされている。人々も忙しそうに準備をしていた。子供たちの笑い声と、祭りの太鼓の音が反響するように聞こえた。
空気には独特の香りが漂っていた。夏の熱気と、祭りの食べ物の匂い、そして神聖な儀式を前にした緊張感。それらが混ざり合い、町全体を特別な雰囲気で包んでいた。ところどころで、提灯の光が写し世の光と共鳴しているように見え、カラフルな影が揺らめいていた。
蓮は街並みを見ながら感嘆の声を上げた。
「すごいですね。あれはすべて今夜の祭りのためですか?」
彼は初めて見る祭りの準備に目を輝かせていた。科学者の視点と、人間としての素直な感動が混ざり合う表情だった。懐中時計を取り出し、何かの計測をしている。
「ええ、影写りの祭りは町全体の行事よ。写し世と現実の境界が最も薄れる夜に行われる儀式」
「写し世と現実の境界…」蓮は再びノートに何かを書き込んだ。「祖父の記録にもそんな表現がありました。『鏡のような夜』と」
彼は小さな測定器を取り出し、空気中の何かを測定した。「不思議です。この場所は明らかに大気中の粒子密度が異なります。いわゆる『霧粒子』の濃度が通常の3.4倍…これは祖父の予測値と一致します」
「あなたは科学で見えないものを理解しようとしているのね」ルカは優しく言った。
「はい、見えないからこそ」蓮は微笑んだ。「祖父が残した道標を辿りたいんです。彼は写し世の存在を科学的に証明しようとしていました。心霊現象や迷信ではなく、測定可能な現象として」
彼の純粋な探究心に、ルカは心を打たれた。蓮の視点は彼女にとって新鮮であり、写し世を別の角度から見る機会を与えてくれた。
三人はハシヅメ写真館に向かった。道中、多くの町民がルカに挨拶をし、今夜の祭りについての期待を口にした。彼女は写真館の娘として、またこの夜の撮影者として、町に欠かせない存在だったのだ。
「橋爪さん、今年もよろしくお願いします」
「写真、きれいに撮ってくださいね」
クロは終始無言で、時折右目を抑えるようなしぐさをしていた。右目の紋様の光は不規則に明滅し、彼の内面の葛藤を示しているようだった。月の力と祭りのエネルギーが、彼の中の何かを呼び覚ましつつあるようだった。
写真館に着くと、チクワが玄関で異様な緊張感を漂わせて彼らを迎えた。猫の白い部分が月明かりのように淡く光っているように見えた。その金色の瞳は青く輝き、時折見上げる空の方角—影向稲荷の方向—を警戒するように見つめていた。
「ただいま、チクワ」
ルカが猫を抱き上げると、チクワは喉を鳴らしながらも、落ち着かない様子で耳をピクピクと動かしていた。蓮の姿を見ると、警戒するような目つきになる。
「大丈夫、彼は味方よ」
ルカが言うと、チクワはじっと蓮を見つめた後、やや緊張を解いた。しかし、クロを見ると再び毛を逆立て、低く唸った。金色の瞳がクロの面を焼くように鋭く光り、その影が一瞬、九尾の狐の形に伸びた。まるでチクワの中に別の存在が潜んでいるかのようだった。
「写真館の猫さんですね」
蓮は優しく手を差し出した。チクワは初め距離を置いていたが、やがて少しずつ彼の手に近づき、慎重に匂いを嗅いだ。いくつかの匂いを識別するように、鼻が微かに震える。
「お、受け入れてくれましたね」蓮が微笑んだ。「私は動物好きなんです。祖父の観測小屋にもいつも猫がいました。彼女も金色の瞳をしていましたよ…不思議と写し世の境界に敏感だったようです」
「珍しいわ。チクワは初めての人には警戒的なのに」
「何か気になることでもあるんですか?」彼はチクワの落ち着かない様子を指して尋ねた。
「今夜は特別な夜。彼も感じているのね」
三人は写真館に入り、ルカは客間にお茶を用意した。客間の壁には様々な写真が飾られている。風景写真や人物写真、どれも橋爪家の歴代の夢写師が撮影したものだ。写真からは微かな光が漏れ、時折人物が動いたような錯覚を覚える。それらは写し世の記憶が定着された証だった。
「すごい写真ですね」蓮は一枚一枚じっくりと見ていった。彼の鋭い観察眼は、一般の人には見えない細部まで捉えているようだった。「写真のエマルジョン層に何か特殊な反応が…」彼は眼鏡を上げて写真に近づき、細部を観察した。
「代々受け継がれてきたものよ」
ルカは少し誇らしげに言った。写真の中には父が撮影したものも多く、その繊細な光と影の表現には特別な才能が感じられた。父のカメラを握る手、母の穏やかな笑顔が記憶によみがえり、喪失の痛みが胸を締め付けた。
「これらの写真は単なる記録じゃないの。集合的記憶を定着させる媒体なの」
彼女は説明し、壁に掛かった古い写真を指した。それは百年以上前の影写りの祭りの様子を写したもので、色褪せながらも鮮明な光景が残っていた。振り返ると、写真の中の人々の表情が微かに動いたような気がした。
「でも、チヨのことを思い出してからは…祖先たちの写真を見るのが少し辛くなった。みんな私に何か言いたげに見えるの」
ルカが言葉を絞り出すと、蓮は彼女の変化に気づき、穏やかに微笑んだ。
「それはきっと、あなたが変わったからですよ」彼は静かに言った。「光の欠片を手に入れてから、あなたの目は…別の色を映すときがあります」
ルカは驚いて彼を見た。自分でも気づかない変化を、蓮は科学者の鋭い観察眼で捉えていたのだろうか。
「私の…目?」
「はい、一瞬だけですが、青く輝く瞬間があります。特に写真を見るときや、強い感情を感じたときに」
蓮は小さな装置を取り出し、空気中の何かを測定した。「あなたの周りには、微弱な電磁場があります。祖父が言う『記憶の共鳴』です。人間の感情と記憶が相互作用すると、こうした場が形成されるんです」
ルカは壁の鏡を見た。普段と変わらない自分の姿が映っているだけだったが、一瞬だけ目の色が変わったような気がした。もし本当に青く輝いたのなら…それはチヨと同じ証だろうか。影写りの巫女として目覚め始めている証だろうか。
蓮は壁の写真をもう一度見た。確かに、写真の人々は静かながらも何かを伝えようとしているように見える。父のカメラを構える姿や、母の優しい微笑みの写真も、今は物言いたげな表情に見えてしまう。
「風見さん、祭りの間はここに泊まってもいいわ。町は混雑するから」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
蓮は写真館の構造に興味津々の様子だった。彼の視線は廊下の奥、現像室のドアに引き寄せられていた。そこには「くらやみ」と書かれた札が下がっている。
「祖父も同じような暗室を持っていました。彼は特殊な乳剤で写真を現像し、『記憶の定着』と呼んでいましたよ」彼は懐かしそうに言った。
「今夜の祭りでは、橋爪さんが町の集合写真を撮るんですか?」
「ええ、それが私の役目よ。特に今年は十年に一度の特別な月の夜。撮影の力も強くなるはず」
ルカは静かな口調で説明したが、その内側に緊張が走った。十年前の祭りで姉が行った儀式を今、自分が担うことになるのだ。それは単なる祭りの写真撮影ではなく、町の記憶を守るための重要な役割だった。
「今夜の写真はとても重要なの」彼女は厳かな声で続けた。「夏至の夜の祭りの写真は、町の人々の集合的記憶を定着させる。それを影向稲荷に奉納することで、一年間の平穏が約束されるの」
「祈りと写真の関係…」蓮は思索にふけるように言った。「それは科学的に言えば、情報の保存と意識の共有ですね。祖父もそれを研究していました。"集合的記憶は気象条件と地脈の交点で増幅される"という仮説を」
彼の言葉には科学者の冷静さがあったが、目には熱意が宿っていた。蓮は神秘を否定するのではなく、それを理解しようと努めているのだ。彼はバッグから複雑な装置を取り出した。「これは祖父が作った『記憶波動測定器』です。今夜の祭りで使わせてください。祖父の研究を完成させるための重要なデータになるでしょう」
「それに」ルカは少し声を落とし、「今年の祭りには特別な意味があるかもしれない。十年前の祭りで姉が封印した力が、またよみがえる可能性も…」
この言葉にクロが反応した。彼は窓際から振り返り、右目の紋様が鋭く明滅した。
「その時が近づいているかもしれない」彼は低い声で言った。「だからこそ、今夜の祭りと写祓は重要なんだ」
彼の言葉には抑えきれない緊張と、何かへの恐れが混ざっていた。右手が微かに震え、ときおり拳を強く握りしめては緩める仕草に、内なる葛藤が表れていた。
「そういえば」蓮が思い出したように言った。「祖父のノートに、"十年周期の記憶の波動"についての記述があります。祖父は亡くなる直前、それについて何か重要な発見をしたようでした」
彼は古ぼけた手帳を開き、何かのグラフを示した。「これによると、霧梁県の記憶波動は10.5年周期で強まり、その頂点で『時の逆行』という現象が起きる可能性があるそうです。祖父はその瞬間を捉えようとしていたのかもしれません」
クロは蓮をじっと見つめた。その視線には警戒と共に何か別の感情—理解か、それとも共感か—が混じっていた。
「風見柊介は、真実に近づきすぎたのかもしれない」クロは意味深な口調で言った。
時が過ぎ、夕方になった。ルカは白い小袖と緋の袴という巫女装束に着替え、魂写機を準備した。現像室でコロジオン液を用意しながら、コロジオンの匂いが懐かしさと共に鼻をつく。それは父と過ごした暗室の記憶を呼び起こし、同時に姉の姿も思い出させた。チヨも同じ装束で、同じ準備をしていたのだ。
「お姉様も同じように準備されていたんですね」
蓮が現像室の入口で言った。彼の眼鏡の奥の瞳が好奇心に輝いていた。
「ええ。でも、現像室には入らないで」ルカは微笑みながらも、少し厳しい口調で言った。「ここは夢写師だけの場所だから」
「すみません」蓮は慌てて一歩下がった。「科学者の悪い癖ですね。好奇心が先に立って」
彼の素直な反応に、ルカは少し緊張が解けた。欠片を集める旅路で蓮が加わったことは、思いがけない幸運だったかもしれない。彼の科学的視点は、彼女に新しい見方を提供してくれた。
「でも、この機械を使っていただけませんか?」蓮は小さな装置を差し出した。「『記憶の波動』を測定するものです。写真の現像過程での波動変化を記録したいんです」
ルカは少し考え、頷いた。「わかったわ。でも、魂写機には触れないで」
鏡に映る自分の姿を見て、ルカは一瞬たじろいだ。そこにはチヨの面影が重なっていた。同じ装束で、同じように儀式に臨んだ姉。今年の祭りは、まさに十年前の封印の夜と同じ条件下で行われるのだ。運命の重なりに、彼女は身震いした。
「行きましょうか」
三人は写真館を出て、人の流れに混じって影向稲荷へと向かった。チクワも彼らと一緒に歩いていた。その足取りは軽やかで、まるでチヨの気配を追うかのように、時折立ち止まっては先を見つめた。今夜の月は特別に明るく、街路を銀色に染めていた。
提灯の光が街を彩り、子どもたちの笑い声と祭囃子の調べが空気を振動させる。露店からは甘い香りが漂い、夏の祭りの熱気が町を包み込んでいた。しかし、この陽気さの下に、微かな緊張感が流れているようにも感じられた。特に年配の住民たちは、空を見上げる度に不安げな表情を浮かべていた。
「今年は特別だ」老婆が低い声で言っているのが聞こえた。「十年に一度の…あの夜と同じだ」
「橋爪の娘は大丈夫かね」別の老人が応えた。「あの子は姉のように強くはないと思うが」
これらの囁きを聞きながら、ルカは自分の役割の重さをますます感じた。町の人々は彼女を信頼しているが、同時に不安も感じている。チヨのように強くないかもしれない—その言葉が胸に刺さった。
蓮は周囲を観察しながら、小さな装置で何かを測定していた。「信じられない数値です。大気中の粒子密度が通常の10倍以上…これは祖父が『記憶の共鳴前夜』と呼んだ状態です」彼の声には興奮と畏れが混ざっていた。「今夜は何か特別なことが起きる可能性が高いですね」
途中、多くの町民がルカに声をかけた。
「橋爪さん、今年もよろしくお願いします」
「写真、きれいに撮ってくださいね」
ルカはそれに笑顔で応えた。町民たちの中には、彼女を見て一瞬驚いたような表情を浮かべる者もいた。まるでチヨを見たかのように。
蓮は彼女の表情を見て、少し驚いた様子だった。
「みんなに慕われていますね」
「ええ、写祓は時々怖がられるけど、祭りの写真は別よ。みんな楽しみにしているの」
町の年中行事として、この祭りは生活と記憶の一部となっていた。たとえ写し世そのものは見えなくても、人々はその存在を感じ、尊重していた。それは科学では測れない信仰と記憶の力だった。
蓮は何か思いついたように、ポケットからアンティークの懐中時計を取り出し、確認した。時計の文字盤は通常のものとは異なり、複数の針と同心円が描かれていた。
「十時十七分。祖父の記録では、この時刻に空気中の霧粒子が最も感光性を持つそうです。今夜の撮影、僕にも何かお手伝いできることがあれば」
ルカは彼の真剣な表情に、思わず微笑んだ。科学と神秘を繋ごうとする姿勢が、彼女の心を温かくした。彼の姿勢はチヨに通じるものがあった。純粋な探究心と、真実への渇望。
「ありがとう。蓮さんは…不思議な人ね」
「不思議、ですか?」
「ええ、普通の人なのに、写し世を見ることはできなくても、その存在を受け入れてくれる」
蓮は照れたように眼鏡を直した。その仕草には少年のような純粋さがあった。
「僕にとっては、見えないものの存在を認めることは、科学的な態度なんです。祖父がそう教えてくれました」
彼は少し考え込むように続けた。「祖父は科学で神を測ろうとしたのかもしれません。でも僕は…」その言葉は宙に浮いたまま、終わらなかった。蓮の中の葛藤—科学者としての厳密さと、目に見えないものへの直感的な信頼—が表れていた。
影向稲荷に着くと、境内は既に人でいっぱいだった。赤い鳥居の下に集まった人々の間を、三人は進んでいく。ルカが魂写機を抱え、クロが三脚を持ち、蓮がバッグを運んでいた。チクワも彼らに寄り添うように歩き、時折立ち止まっては周囲を警戒するように見回していた。神社の中央には大きな台が設置され、そこにルカのカメラが据えられることになっていた。
境内には、提灯の柔らかな光と共に、祭囃子の音が充満していた。太鼓の低い響きが地面を伝わり、笛の音色が空気を震わせる。人々の足音と話し声が重なり、昔の祭りの記憶が現在と共鳴するかのようだった。遠い時代の囃子の音が今の音に重なり、音の波紋が広がっていく。
過去と現在が混ざり合う感覚に、ルカの感覚が研ぎ澄まされていく。彼女の目に映る世界が少しずつ変わり始め、人々の周りに淡い色彩のオーラが見え始めた。それは記憶の色、感情の色だった。蓮の周りには好奇心を表す青い光が、町民たちの周りには期待と喜びを表す様々な色が漂っていた。
「橋爪さん、来てくれたのね」
神主が近づいてきた。六十代ほどの男性で、白い装束を着ている。彼の周りには紫の威厳あるオーラが広がっていた。
「はい、準備はできています」
「ありがとう。それにしても…」
神主はルカの肩越しに、クロの姿を見た。その瞬間、彼の表情が変わった。皺の刻まれた顔に、認識と警戒が浮かぶ。
「あの者を連れてきたのか」
神主の声には警戒心が滲んでいた。クロは面を微かに傾け、挨拶とも挑戦とも取れる仕草を見せた。右目の紋様が強く明滅し、彼の内側で何かが揺れ動いているようだった。
「彼は…私の旅の同行者です」
「気をつけなさい。今夜は特別な夜だ。境界が薄れる」
神主は厳しい表情でそう言うと、儀式の準備に戻っていった。彼の表情には、知る者だけが理解する恐れがあった。過去の記憶を持つ者として、神主はクロの存在の意味を感じ取っていたのだろう。
蓮はその様子を不思議そうに見ていた。
「神主さんは、クロさんのことを知っているんですか?」
「おそらく…」
ルカは答えに窮した。神主が知っているということは、クロの正体は町の古くからの人々には知られているのかもしれない。彼女はクロの姿を見た。彼は境内の隅に立ち、月を見上げていた。その姿には神聖と不安が混ざり合っていた。
「影向稲荷はチヨの封印の結界を維持する神聖な場所なの」ルカは小さく呟いた。「祭りの撮影は、その力を一時的に強めるの」
蓮が境内を見回し、小さな測定器を取り出した。それは懐中時計のような形をしていたが、文字盤の代わりに針が振れる計器が埋め込まれていた。
「不思議ですね。境内の温度と湿度が、周辺より明らかに異なります。こういった微気象の変化が、写し世の出現と関係しているのかもしれません」
彼は別の装置を取り出し、データを記録した。「これは祖父が開発した『記憶波動計』です。空気中の粒子振動を測定します。数値は…驚異的です。祖父の理論では『記憶の実体化』が起こる閾値を超えています」
日が落ち始め、境内に提灯が灯された。鳥居には過去の巫女の影が鏡のように映り、淡く揺らめいている。ルカは台の上で魂写機の準備をしていた。彼女が乾板をセットしたとき、一瞬だけピントグラスに知らない少女の笑顔が映ったような気がした。思わず息を飲む。
「何か見えました?」台の下から蓮が尋ねた。
「…いいえ、気のせいよ」
彼女は言葉を濁したが、実際には確かに何かを見た。写し世の記憶が、今夜はいつもより鮮明に漏れ出しているようだった。
月が昇り、その光が神社全体を銀色に染めていく。クロは境内の隅に立ち、月を見上げていた。彼の右目の紋様が青く輝き、その輝きは次第に強さを増していく。面の下から微かに囁き声が漏れ出し、彼の身体が二つの存在の間で揺れているようだった。チクワも月に向かって鳴き、その背中の毛が青く光った。
「そろそろだ…」彼は囁いた。その声は男性と女性の声が混ざり合ったような響きを持っていた。
蓮はこの様子を注視し、急いでノートに記録していた。「クロさんの声の波形が変化しています。二重の周波数...これは祖父が『魂の共振』と呼んだ現象かもしれません」
人々は神社の中央に集まり始めた。クロは月を見つめたまま、静かに続けた。
「ルカ…今夜、お前は姉の試練を受ける」
その言葉が何を意味するのか、ルカには分からなかったが、胸の奥で何かが震えるのを感じた。「チヨが祭りで封印を行った」という静江の言葉が記憶によみがえり、彼女は大きく息を吸い込んだ。撮影が試練になる予感がする。
彼女の手が微かに震え、胸ポケットの欠片たちが共鳴するように温かさを放った。写し世と現世の境界が薄れる中、欠片の力も強まっている。
境内を取り囲む木々が風に揺れ、その影が過去の記憶のように伸び縮みする。提灯の灯りが青白く変色し、写し世の光と混ざり合っていた。
「では、始めましょう」
神主の声が境内に響き、儀式が始まった。まず、巫女たちによる神楽が舞われ、次に神主による祝詞が奏上される。祝詞の言葉が空気を震わせ、境内全体が浄化されていくような感覚があった。そして、いよいよ写真撮影の時間になった。
ルカは台の上に立った。彼女が巫女装束で撮影を行うのは初めてだ。これまでは、祖父や父、そしてチヨがこの役目を担っていた。彼女は深呼吸し、心を落ち着かせようとした。
台の上から見る境内は幻想的だった。月光を浴びた人々の姿が銀色に輝き、その周りには感情のオーラが漂っていた。提灯の光が月の光と混ざり合い、現実と写し世の境界が溶け合っているように感じられた。
「みなさん、こちらを向いてください」
ルカは群衆に呼びかけた。数百人の町民が、笑顔で彼女の方を向く。ファインダーを通して見る彼らの姿は、普段とは違って見えた。それぞれの人の周りに、記憶と感情のオーラが色彩豊かに広がっている。月光が彼らを照らし、幻想的な雰囲気が漂っている。蓮は群衆の中で、メモを取りながらも、ルカを見守っていた。チクワは落ち着かなく鳴き、ルカの足元で低く唸り、境内の隅に立つクロに向かって警告するように金色の瞳を光らせた。
「はい、じっとして…」
ルカがピントグラスを覗くと、奇妙なことが起きた。ガラスに映る人々の間に、半透明の人影が見えたのだ。まるで写し世の住人たちが、町民たちと共に写真に写り込もうとしているかのように。
過去の祭りの記憶が現在に漏れ出し、両者が重なり合っていた。子どもたちの笑い声と、昔の祭りの太鼓の音が混じり合い、時間が層を成す響きとなって広がる。
彼女の心拍が早くなり、手が震えた。集中しようとしたが、頭の中に知らない記憶の断片が浮かび上がる。笑う少女、祭りの提灯、誰かの手…写し世の波紋が彼女の記憶に干渉し、一瞬、思考が混乱した。
「これは…」
ルカは深呼吸をし、冷静さを保とうとした。これが影写りの祭りの本質なのか。現世と写し世の住人が、同じ場所に集まる瞬間。彼女の内側で何かが変化し始め、感覚がより鋭くなるのを感じた。
「皆様、もう少しだけ…」
彼女の声が震えていた。ピントグラスの中で、影がさらに鮮明になっていく。人々が集まる場から、遠い囁き声が聞こえてくる。記憶の中の声、写し世の住人の声が混じり合い、時間の軋む音が低く響く。
そして、群衆の真ん中に見覚えのある姿が現れた。
「姉さん…?」
ファインダーの中で、チヨとおぼしき姿が微笑んでいた。白い小袖に緋の袴。まさに、ルカが今着ているのと同じ装束だ。チヨは直接ルカに向かって微笑み、口を動かしている。何かを伝えようとしているようだった。
「ルカ…選んで…」
かすかな声が心に直接響いた。その声は風のようであり、水のようでもあった。伝えようとしている言葉の意味を、ルカは理解しようとした。選ぶ?何を選べばいいの?
ルカの胸が締め付けられるように痛んだ。彼女の視界が一瞬、涙で曇る。それでも彼女は決意を固め、カメラのシャッターに手をかけた。姉の声が心の中で彼女を導くように、「今」と囁いた気がした。
「撮ります!」
シャッターを切る。カシャリ。
その音と共に、境内全体が一瞬、青白い光に包まれた。ピントグラスが閃光のように明るく輝き、ルカは思わず目を閉じた。光の閃きと同時に、強烈な音の波も広がった。太鼓の低音、提灯の揺れる音、過去の祭りの笑い声が一斉に響き、人々からどよめきが起こる。
この一瞬、写し世と現世の境界が完全に消え、両者が融合したように感じられた。ルカの感覚も変容し、人々の記憶が色彩を伴って見えるようになった。それぞれの人の頭上に、過去の自分自身の姿が重なり、幾重にも層を成す記憶の光が広がっていた。
「見えた! 影が見えた!」
「先祖の姿が…」
「あの光…なんて神々しい!」
町民たちは興奮して声を上げている。彼らにも何かが見えたようだ。普段は写し世を見ることのできない人々にも、今夜は何かが見えているのだ。やがて、一部の人々は眩暈を感じたように揺らぎ、友人や家族に支えられていた。写し世の波紋が、一時的に彼らの感覚を揺さぶったのだ。
蓮は群衆の中から、懐中電灯のような光を頼りにスケッチを続けていた。彼の表情には興奮と驚きが入り混じっていた。科学者としての冷静さを保ちながらも、目の前の現象に心を奪われていることがわかった。彼の測定器は針が振り切れるほど反応し、ノートへの記録は急いで走り書きされていた。
「これは…祖父の記録と一致する!記憶の波動が実体化する瞬間だ!光の波長=記憶の振動数…祖父は正しかった!」
彼の声には純粋な喜びと、祖父の遺志を継ぐことへの誇りが溢れていた。「これは科学と神秘の融合点だ…祖父が生涯をかけて探し求めたものだ!」
ルカは再び魂写機を構え、二枚目の写真を撮ろうとした。だが、乾板を入れ替える手が震え、彼女は深呼吸をした。ファインダーを覗くと、さらに多くの影が町民たちの間に現れている。そして、今度はチヨの姿がさらに鮮明になり、彼女の背後には七色の光が輝いていた。
「これは…欠片?」
チヨの背後に浮かぶ七色の光の中に、彼女はこれまで集めてきた欠片と同じ青い輝きを認めた。チヨは現在のルカだけでなく、過去と未来のルカをも見ているように思えた。彼女は何か言おうとしているようだった。ルカは唇の動きを読み取ろうとする。「もう少し…来て…」
彼女の手が震えた。シャッターを切ろうとしたその瞬間、境内全体が揺れ始めた。チヨの囁き声—『ルカ、選んで』—が反響した。
「何が…」
人々が混乱し始める。地震ではない。何か別のものが、現実を揺るがしている。台の上のルカは、頭に激しい痛みを感じた。記憶の断片が一瞬混乱し、彼女は目の前がくらくらとした。
境内一帯に異変が生じていた。提灯の灯りが青く変色し、鳥居の赤が濃くなり、地面の色が反転する。写し世の色彩が現世に漏れ出し、両者の境界が崩れかけていた。人々の周りのオーラが強まり、中には過去の自分自身が重なって見える者もいた。
「写し世が漏れている!」
クロの声が聞こえた。彼は月明かりの中、黒い影のように台に駆け寄った。彼の右目の紋様が明るく輝き、声は女性のような音色を含んでいた。面の下から青い光が漏れ出し、その姿が二重写しになっているようだった。
「急いで最後の一枚を撮れ。そうすれば安定する。写祓の写真が写し世の記憶を定着させ、境界の揺らぎを抑えるんだ」
クロはルカの肩に手を置いた。その接触で、ルカの頭痛は一瞬だけ和らいだ。彼の手から、チヨの温もりのような感覚が伝わってきた。彼の手も人間のものとは少し違う、微かな毛が生えた狐の手のようだった。
「封印の力で一時的に現世に干渉できる」とクロは低く呟いた。その瞳は青く輝き、狐の面の下で何かが動き、変化しつつあるように見えた。
「でも、この揺れでは…」
「構わない。撮るんだ。お前なら…できる」
クロの声には信頼と焦りが混じっていた。その声にチヨの調子が混ざり、面の下から青い光が漏れ出していた。彼の右手は激しく震え、感情の波に耐えているようだった。月光の下で、彼の体の輪郭が時折ぼやけ、半透明になることもあった。内なる葛藤の表れだろうか。
「みなさん、もう一度だけ…」
彼女の声は震えていたが、人々は混乱の中でも彼女に注目した。彼らは何かがおかしいと感じつつも、祭りの伝統と、夢写師への信頼から、彼女の指示に従った。
一瞬だけ躊躇し、チヨの姿を見つめるルカ。姉は静かに頷き、彼女を励ますように微笑んでいた。その表情には信頼と愛情が、そして少しの悲しみも混じっていた。
「姉さん…」ルカは小さく呟いた。
ファインダーを覗くと、そこはもはや境内の光景ではなかった。写し世と現世が完全に混ざり合い、過去と現在の人々が同じ空間に存在している。祭りの記憶が重なり、何十年もの儀式が同時に行われているかのようだった。
その中央に、鮮明なチヨの姿があった。彼女はルカを見つめ、手を差し伸べていた。「ルカ…私を…記憶から…」その声ははっきりと聞こえないが、心に直接響いてくるようだった。
「姉さん…」
ルカはシャッターを切った。カシャリ。
強烈な閃光が走り、魂写機から青白い光の筋が天に向かって伸びた。境内全体が一瞬、別の次元に引き込まれたような感覚があった。人々は悲鳴を上げ、中には気絶する者もいる。光の波と共に、音の渦も広がり、祭囃子の音色が過去の音と融合し、時間の波紋となって境内じゅうに響き渡った。
光の中で、ルカはチヨの声をはっきりと聞いた。
「ルカ…もう少しよ…記憶を、忘れないで…」
そして、静寂が訪れた。
光が消え、通常の月明かりだけが境内を照らしている。人々は混乱し、周囲を見回していた。台の上のルカは、魂写機を抱えたまま立ちすくんでいた。
「橋爪さん!大丈夫ですか?」蓮が群衆の中から駆け寄った。彼の装置は完全に振り切れ、一部は機能を停止していた。「信じられないデータが記録されました!これは祖父の理論を超える現象です!」
「何が起きたの…」
「あんな光、見たことない」
町民たちの間で混乱が広がる中、神主が急いで台に上がってきた。
「橋爪さん、大丈夫ですか?」
ルカは虚ろな表情で頷いた。彼女の顔から一筋の涙が伝っていることに、蓮は気づいたが、何も言わなかった。その目は通常の茶色から、一瞬だけ青く輝いていた。
「はい…でも、カメラが…」
手にしていた魂写機が、熱を持ったように熱くなっていた。レンズが青く輝き、カメラ内部で何かが反応しているようだった。その中から、微かにチヨの笑い声が響いてくる。まるでカメラの中に封じ込められたかのようだった。
「すぐに現像しなければ」
神主は厳しい表情で言った。
「この写真は、今夜必ず現像しなければならない。さもないと…」
彼は言葉を切った。しかし、その意味は明らかだった。今、撮影された写真には何か重要なものが写っている。それを定着させないと、危険な事態になる可能性がある。
「わかりました」
ルカはカメラを抱え、台から降りた。体が異様に重く感じられた。蓮が心配そうに彼女に駆け寄ってきた。
「ルカさん、大丈夫ですか? あの光は…私の測定器ではあり得ない数値です。電磁波のスペクトルを超えた何かが発生しました。これは祖父の理論を証明するものですが、同時に…未知の可能性も示しています」
「わからないわ。でも、すぐに現像室に戻らないと」
クロはルカの様子を見て、一瞬躊躇したようだったが、彼女から魂写機を受け取った。その重さに、彼も驚いたように面を傾げた。右目の紋様は弱く、不安定に光っていた。今にも消えそうなほど弱々しい光だった。
「これは…中に何かが閉じ込められている」
彼の声には疲労が滲み、右手は自分の意志と無関係に震えているようだった。面の下からは、焦りと不安が混ざった表情が垣間見えた。
三人は急いで写真館に向かった。途中、まだ混乱する町民たちの姿が見えた。誰もが今夜起きたことの意味を理解できずにいる。ところどころで、「先祖の声が聞こえた」「昔の祭りが見えた」といった会話が聞こえてくる。
蓮は歩きながらもノートに記録を続けていた。「記憶の波動は予想を超える強度で発生し、写し世と現世の境界は一時的に消失…これは祖父の『時の逆行』理論の核心に迫る現象です。彼が命を懸けて研究していたことが、今夜証明されたのかもしれません」
写真館に戻ると、チクワが異様に落ち着かない様子で彼らを出迎えた。猫は興奮した様子で、現像室の方向を見ては鳴いている。その瞳は月明かりのように金色に輝いていた。背中の毛が逆立ち、まるで青い炎を灯しているようにも見えた。
「彼も感じているようだね」
クロが言った。「写し世の揺らぎを」
ルカは急いで現像室に向かった。
「風見さん、申し訳ないけど、ここからは一人で行くわ」
「ええ、わかります」
蓮は頷いた。しかし、その表情には明らかな心配の色が見えた。彼は脱いだ上着をルカに差し出した。
「寒くなるでしょう。もし何かあれば…」彼は懐中時計を握りしめた。「何でも言ってください」
彼の装置を手に取り、指針が振り切れていることを確認した。「これは驚異的な記録です。祖父が探し求めた『記憶の波動』の実証データです。あなたのおかげで祖父の研究を一歩前進させることができました」
ルカは感謝の微笑みを見せた。それは今夜初めての、心からの笑顔だった。
「ありがとう」
ルカが現像室へと向かうと、チクワが従った。クロも無言で後に続く。彼の足取りは重く、まるで大きな負担を背負っているかのようだった。右目の紋様は弱まり、時々消えそうになるほど暗くなることもあった。
「くらやみ」に入ると、空気が異様に重かった。いつもより暗く、冷たい。月見窓から差し込む光だけが、室内を照らしている。ルカは魂写機から乾板を取り出し、現像の準備を始めた。手が震える。何かが怖かった。
室内には、普段は聞こえない音が満ちていた。遠い時代の祭りの笑い声、竹筒に注がれる水の音、チヨの囁き声が、現像室の隅々から漏れ出してくるようだった。壁の鏡が微かに揺れ、その表面に波紋が広がっていた。
「これは…ただの祭りの写真じゃない」
クロが言った。「封印の鍵が写っている」
「鍵?」
「ああ。十年前の記憶が、その写真に定着している」
彼の言葉に深い意味が込められていた。右目の紋様が弱く明滅し、その光は以前の強さを失っていた。クロの体からは疲労が伝わってきて、肩の力が抜け、彼が何かの重い疲れを感じているのが分かった。まるで今夜の祭りの力が、彼から何かを奪ったかのようだった。
チクワが現像台に飛び乗り、ルカが準備する乾板を見つめた。猫の瞳が月のように輝いている。その周りを、小さな光の粒子が舞い、過去の記憶の断片が漂っているようだった。
ルカは慎重に現像液を準備した。月見窓からの光がさらに強くなり、室内の鏡が青く輝き始めた。チクワが鏡の前で低く唸る。鏡の表面に波紋が広がり、過去の祭りの光景が映り込んでくる。
「大丈夫だ」
クロの声には珍しく優しさがあった。彼は面を少し上げ、その下から輝く紋様が見えた。右目の紋様だけでなく、彼の顔全体が青い光に包まれていた。
「これは必然だ。今夜のために、すべてが動いていた」
彼の声に力強さは残っていたが、体は疲労で震えているようだった。月の光の下で、彼の輪郭が時折ぼやけ、半透明になる瞬間もあった。今夜の儀式が、彼自身の存在にも影響を与えているようだった。
ルカは深呼吸し、乾板を現像液に浸した。液体が乾板を包み込み、徐々に像が浮かび上がってくる。現像液から青い煙のようなものが立ち上り、鏡に映り込んでいく。チクワが鏡を見つめ、前足を鏡面に当てた。その瞬間、鏡面に映る像が鮮明になり、音の波紋が部屋中に広がった。
最初は境内に集まる人々の姿。しかし、その間に半透明の人影が見える。そして中央に…
「チヨ…」
姉の姿がはっきりと写っていた。白い小袖に緋の袴。笑顔で手を広げている。そして彼女の背後には、九つの小さな光。それぞれが異なる色を放っている。チクワが鏡に映る写真のチヨの姿に向かって低く鳴いた。その声には懐かしさと切なさが混じっていた。
「これは…欠片?」
ルカは息を呑んだ。これが今夜の異変の原因だったのか。写し世の記憶が、この写真を通じて現世に漏れ出してきたのだ。
「でも、どうして今夜…」
「十年の周期だ。そして、お前がすでに四つの欠片を集めている。それが引き金になった」
クロが答えた。彼の声は確かだったが、右手が微かに震えていた。紋様の青い光が顔の輪郭を照らし、クロの表情の一部が見えた。それは若い男性の顔だったが、どこかチヨに似ている。目元の優しさ、口元の決意。そこには青年の痛みと、少女の慈しみが混ざっていた。
現像が進むにつれ、写真はさらに鮮明になっていく。チヨの姿だけでなく、彼女の表情までがはっきりと見えるようになった。そして、彼女の口元から言葉が聞こえてくるような錯覚を覚えた。
「ルカ…もう少しよ…」
それは実際の声ではなく、心の中に直接響く言葉だった。その声の波紋が広がり、現像室の木製の床が振動し、チヨのいた頃の足音が蘇ったかのように響いた。ルカは涙を堪えながら、写真を見つめ続けた。
チクワが現像台の上で円を描くように歩き、やがてチヨの姿を指すように片足を伸ばした。その瞳が写真を映し、さらに鏡に反射して、部屋全体が金色の光で満たされる。神秘的な雰囲気の中、時間の軋む音と遠い祭囃子の調べが静かに融合していった。
「彼女も姉の存在を感じているんだな」クロが言った。「チクワとチヨには、特別な繋がりがある」
幼い頃のルカとチヨが、この猫を拾った日の記憶が蘇った。チクワはいつも姉の方に寄り添い、金色の瞳を向けていた。まるで特別な何かを感じ取っていたかのように。
「チクワは影向稲荷の使者だ」クロは静かに告げた。「夢写師の記憶を守るために送られた。だから彼女はチヨの力に反応する」
クロが窓際に立ち、月を見上げた。その右目の紋様が青く輝き、彼自身もそれに気づいているようだった。
「今夜の私は、少し不安定だ。月の力が…私の中の何かを呼び覚ます」
彼の声には不安と期待が混ざり合っていた。その声は少しずつ二重音になり、面の下から女性の声が漏れ出しているようだった。「チヨの声が俺を縛る」と彼は小さく呟いた。月明りを受けた彼の影が壁に落ち、ゆっくりと九尾の狐の形に変わっていった。彼の体が震え、右手を握りしめては開く動作を繰り返した。内なる葛藤をあらわにする仕草だった。
現像が完了し、ルカは慎重に写真を乾かした。完成した写真は、通常の写真とは明らかに違っていた。普通の目には、単に祭りの集合写真にしか見えないだろう。だが、夢写師の目には、その奥に隠された真実が見えた。
九つの光が写真の中で輝いていた。すでに手に入れた四つの欠片は、微かに色あせて見えるが、残りの五つは鮮やかに光っている。そしてその中央に立つチヨの姿。彼女の笑顔には、悲しみと希望が混ざっていた。背後には父と母の姿も透けて見え、家族の絆が写し出されていた。
「これをどうするの?」
「保管しておけ。最後の欠片を見つけた後で、必要になる」
クロは面を少し下げ、紋様を隠した。その声は女性の声と混ざり合い、何かを抑えようと苦闘しているようだった。「彼女を救うためなら俺は消えてもいい」と彼は耳に届くか届かないほどの声で呟いた。彼の肩の力が抜け、疲労が全身から伝わってきた。今夜の儀式は、彼の存在自体を消耗させたのかもしれない。
ルカは頷き、写真を特別な封筒に入れた。封筒は古めかしい和紙でできており、保存用の朱印が押されている。心の中では、まだチヨの言葉が響いている。
「もう少し…」
何がもう少しなのか。欠片をすべて集めることか、それとも別の何かか。封筒には淡い光が宿り、中の写真が生きているように感じられた。
チクワが窓台に飛び乗り、月を見つめた。その姿が影となって壁に映り、まるで大きな狐の影のように見えた。光の反射で、猫の影がさらに形を変え、九本の尾を持つ狐の影へと変わっていく。その神秘的な変化に、ルカは息を呑んだ。
現像室の壁の鏡には、まだチヨの姿が映っていた。鏡の表面が水面のように揺れ、その向こうに見える世界は、写し世そのものだったのかもしれない。
現像室を出ると、蓮が心配そうに待っていた。彼は窓際に座り、ノートに何かを書き留めていた。ルカたちを見ると、すぐに立ち上がった。
「大丈夫でした?」彼は神経質そうに眼鏡を直した。「あの光と波動は、私の装置でも記録し切れないほど強力でした。祖父の理論を超える現象です」
「ええ、なんとか」
ルカは疲れた様子で微笑んだ。顔色が青白いことに蓮は気づいたが、何も言わなかった。その思いやりに、ルカは感謝した。
「写真には…何が写っていたんですか?」
「見せられないわ。でも…大切なものよ」
蓮は追及せず、ただ頷いた。彼の理解ある態度に、ルカは感謝の気持ちを覚えた。科学者としての好奇心を抑え、彼女の判断を尊重してくれたことが嬉しかった。
「何か手伝えることはありますか?」彼は真剣な眼差しでルカを見た。「祖父の研究道具ならいくつか持っています。特殊な測定器や…」
「今は休むだけよ。明日は…地下鉄建設跡に向かう予定だから」
「僕も同行させてください」蓮は即座に言った。「気象記録によれば、地下ではさらに強い波動が観測されているんです」
彼はノートを開き、数式を指さした。波線のグラフと、ノートの隅に描かれた地下鉄のスケッチが、彼の理論を裏付けるようだった。
「祖父の理論では、地下空間は記憶の共鳴が増幅される場所なんです。光は反転し、影が主役となる空間で…」
蓮の眼鏡の奥に、祖父への誇りと、謎を解き明かしたいという純粋な探究心が輝いていた。チヨと同じ輝きを持つ目だと、ルカは感じた。
ルカは少し考え、頷いた。彼の科学的な視点は、時に彼女には見えないものを教えてくれるかもしれない。また、蓮の素直な探究心に、チヨの面影を感じることもあった。
「科学と神秘は、本当は一つなのかもしれないわね」彼女は小さく呟いた。
「祖父は…科学で神を測ろうとしたけど」蓮が言った。「僕は科学と神秘の両方を受け入れたい」
彼の瞳には真摯さと、祖父への敬愛、そして未来への希望が輝いていた。ルカは蓮の存在に心強さを感じた。彼は自分とは違う視点を持ちながらも、同じ目標に向かって進んでいる。
その夜、町は興奮と混乱に包まれたまま眠りについた。多くの人々が、祭りで見た光景について語り合っていた。先祖の姿を見た者、過去の記憶が蘇った者、不思議な声を聞いた者。街の空気には余韻が残り、提灯の光が消えた後も、写し世の光が微かに残っているようだった。
写真館では、三人がそれぞれの部屋で休んでいた。クロは客間の窓際に座り、月を見つめていた。彼の右目の紋様が時折、青く輝いている。面の下からは、時折女性の囁き声が漏れていた。狐の面と人間の顔が重なり、その姿が二重に見えることもあった。
「もう少しだ…」彼は囁いた。「すべてが明らかになる時が来る」
クロの右手が微かに震え、その指先から青い光が漏れ出していた。彼は自分の手を見つめ、複雑な表情を浮かべた。狐と人間、男と女、過去と現在—様々な境界が曖昧になりつつあるようだった。彼の体の輪郭が時折薄れ、半透明になる瞬間があった。今夜の儀式が彼の存在自体に大きな負荷をかけたのかもしれない。
蓮は自分の部屋で、ノートに今日の出来事を詳細に記録していた。気象データ、光の波長、時間の流れ、人々の反応…。そして最後に、彼は小さく書き加えた。
「ルカの眼差しが変わった。彼女の中で何かが目覚めつつあるのかもしれない。今夜の現象は、祖父の『記憶波動理論』の核心的証拠となった。科学と神秘が交差する瞬間を目撃した…もはや私の装置では測定しきれない領域に足を踏み入れている」
彼は自分のノートを読み返し、一部の文字が薄れていることに気づいた。あわてて書き直そうとするが、筆跡はますます淡くなっていった。「祭りの光を見て、祖父の死の謎に近づいた」と彼は呟いた。現実世界の記憶がすでに消え始めているのだろうか。しかし、祭りの核心的瞬間の記録だけは鮮明に残っていた。真実を見極める目を持つ者の記録だけが、消えずに残るようだった。
ルカは二階の自室で、現像した写真を見つめていた。チヨの笑顔。そして九つの光。写真から感じる温かさが、彼女の冷えた手を優しく包んだ。その写真は単なる記録ではなく、写し世の力を宿した生きた存在のようだった。
「あと一つ…」
彼女は静かに呟いた。地下鉄建設跡に眠る「影の欠片」。それを手に入れれば、静江からの封筒を開けることができる。そして、何らかの真実に近づけるはずだ。
ルカは写真を机の上に置き、窓辺に移動した。月が久遠木の町を照らし、その光が屋根や木々を銀色に染めている。静かな夜の風が、祭りの余韻を運んでくる。祭りの高揚感の後に訪れる静寂が、彼女の心を落ち着かせた。
「姉を忘れた自分を許せない」彼女は小さく呟いた。その罪悪感が、彼女の感情抑制の根源だったのだろうか。手にした写真を見つめながら、彼女は自問した。「姉を救うために他者の記憶を犠牲にする覚悟はあるのか」
その問いは、これからの旅でも彼女について回るだろう。代償と救済、忘却と記憶、個人と集団—様々な選択を迫られることになる。けれど今夜、チヨの姿を見たことで、彼女の決意は強まった。もう迷わない。どんな代償を払っても、姉を取り戻す。
チクワが部屋に入ってきて、ルカの膝の上に飛び乗った。猫は優しく喉を鳴らし、彼女の慰めになろうとしているようだった。その鳴き声には、かすかに別の音が混じっているように聞こえた—チヨの笑い声の残響のようなそれは、幻聴とも現実とも判断できなかった。チクワの体温が、ルカの不安を少しずつ溶かしていく。
窓の外では、月が高く昇り、久遠木の町を照らしていた。夏至の夜の祭りが終わり、再び日常が戻ってくる。だが、今夜起きたことは、この町の記憶に長く残るだろう。写し世と現世が交わった瞬間。そして、封印されていた記憶が甦る予感。
ルカは写真をしまい、床に就いた。夢の中で、彼女はチヨと共に、かつての祭りに参加していた。二人で写真を撮り、笑い合う。そんな懐かしい光景が、夢の中で鮮やかに蘇っていた。父がカメラを構え、母が二人の髪を撫でる。彼女が忘れていた家族の幸福な一瞬が、記憶の奥から浮かび上がってきた。
「姉さん…必ず見つけるから」
彼女はそう誓いながら、深い眠りに落ちていった。夜風が窓を揺らし、月光がルカの顔を優しく照らす中、チクワは静かに見守っていた。その金色の瞳は、やがて来る試練を予見するかのように、闇の中で輝いていた。
窓の外から漏れ込む月の光に照らされ、チクワの背中の毛は一瞬青く輝いた。猫は耳を立て、まるで遠くから届く声に聞き入るかのように首を傾げた。微かな音の波紋が部屋の空気を震わせ、過去の祭りの反響が最後の一音を残して消えていった。
その姿はただの猫ではなく、世界と世界の境界を見守る守護者のようだった。チクワの目に映るものは、人間には見えない真実の断片。その瞳の中には、チヨの記憶と、来たるべき運命の予感が宿っていた。
窓の外では、月が久遠木の町を照らし、祭りの名残が街角に漂っていた。明日は新たな冒険が始まる。地下の影へと続く旅路。そして、ついに静江からの封筒を開ける時が訪れるのだ。
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