封印2

 

 殺してはやらないぞ。


 一瞬、垣坂の声が聞こえた気がした。


 父様、母様、禁忌を犯してまで、私をこの世に生み出してくれてありがとう。


 祈るように目を閉じる。


 命を賭けて鏡を磨き上げたあの斎宮での日々が、庭で揺れる桔梗の濃い色が、何故か今、まざまざと蘇る。


 私はこれから、何を見て生きていけばいいんだろう。


 これから……何を信じて生きていけばいいんだろう。


 少女はふらりと立ち上がる。

 一騎がちらとこちらを見たが、祝詞を止めるようなことはしなかった。


 祭壇に手を伸ばし、鏡を手に取る。

 開けてはならぬその袋を外し、下に落とす。


 露になった鏡は曇っているはずなのに、窓からの日を受け、ぎらりと光った。


 一同から声が漏れる。


 それは、一生生きていても、見ることなど叶わないはずのものだった。


 誰もが怯え、平伏する。


 少女は社の蓋を開けた。

 それを今まさに封じるために。


 誰もが直視できないその輝きを正面から見つめ、少女は小さくその口を動かした。



「――光、あれ」



 ふいに手から鏡が消えた。


 振り返ると、男が鏡に自分の顔を映し、立っている。

 異変に気づいた者たちがざわめいた。


「あなたの想いとはそんなものだったのか!」

「え――」


「この世界と引き換えにしてもいいんじゃなかったのか!」


「離れなさい、無礼な!」

 男の手から鏡を取り返そうとした欒を男は振り返る。


呉禰欒くれない まどか

 初めて『呉禰』の名で呼ばれ、欒はびくりと動きを止めた。


「他人の中に己れの真実を求めるな」

「なっ」


「お前はこの女がいなければ自己を証明することさえできないのか?」


「無礼な! 宮様をこの女などと!」

「欒、やめないか!」


 儀式を中断する失態に、立花が割って入る。

 だが、男は無作法にも少女を指さして言った。


「この女は確かに人ではないかもしれない。

 だけど、それは力の話だ。


 心は神でも、ただの人間と変わりない。


 お前はこの女の人生を喰いものにして生きていくのかっ」


 本当は自分でもわかっていたのだろう。


 欒の性格なら、もっと激しくやり返すはずなのに、彼女はただ、何かを堪えるように唇を噛み締めていた。


「お前がこの女の幸福を望むのなら、二度とこの女に縋らないことだ」


 男は鏡を頭上に掲げた。

 その意味を察して、少女は鏡に手を伸ばす。

 そのときだった。


「宮様っ」

 立花が少女を突き飛ばした。


 側に居た一騎が素早く袖で少女を隠す。

 祭壇の木に何かがめり込む音がした。


 ――なに?


 袖の下から顔を出すと、朱塗りの矢が祭壇に突き刺さっていた。


 立花が神殿から駆け出していくのが見えた。


 座り込んだまま少女は、その人一人殺すのに充分な鋭さと長さを持つやじりを見、茫然と呟いた。


「……本当に、居たのね、刺客」

「そうですね……」

と男も事態に付いていけず、ぼんやりと呟く。


 少女は手の下にあるものを見た。

 掌を待ち上げると、一緒にひっついて鏡の破片が持ち上がった。


「鏡が……」


 だいじょうぶですか、と欒が問うた。

 だが、少女は破片を見つめていた。


 割れた鏡に、雑多なものが映っているように見えた。


 見たことのあるようなないような風景。


 霞みのかかった見知らぬ景色。

 それに一瞬、黒い影が過ぎった。


 はっと少女は身を起こす。


「待って!」


 鏡に向かって伸ばした手ごと、後ろから抱きとめたものが居た。


 覚えのある感触に振り返る。


「立花……」


 彼の眼には恐らく何も見えてはいなかったのだろうに。


 もう一度、鏡に視線を落としたが、そこにはもう、天井と自分の黒髪がばらばらと映っているだけだった。






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