斎王の森
ホームに降りると、すうっと涼やかな風が体を撫でていく。
伊勢と同じだ、と少女は思った。
「なっんか、このままベンチで、ぼーっとしてたい感じのとこね」
小さな田舎の駅のプラットホーム。
線路の向こうには、何処までも広がる平野が見えた。
「山がないのね。
遠くに霞んで見えるわ。
なんだか違和感」
「貴方の居るところは山が多いですもんね。
あれ?
でも、斎宮の森ってありますよ」
と男は伊勢市駅でもらってきた観光マップを覗き込む。
「森って、あのこんもりした奴のこと?」
随分先にあるその深緑の塊を指差す。
「平地ですね」
「森であって、山じゃないもの」
「森は全部山にあるんだと思ってましたよ」
「ああ、街の人間ってそういう感覚かもね。
でも、せいぜいあれは、林って感じ」
「昔はああじゃなかったのでしょう」
と一騎が言う。
てことは、此処も少しは変わっているということか、と思った。
「ま、とりあえず、行こうか、一騎」
だが、そう呼びかけてから、一騎が、あらぬ方を見ているのに気がついた。
一騎? ともう一度呼びかけてみる。
「あ、ああ、すみません。
ちょっと別行動を取ってもよろしいでしょうか」
「いいけど?」
そもそも、少女たちには一騎の行動を束縛する権利はない。
垣坂はともかく、一騎の方にはお情けで付き合っていただいているようなものだ。
「じゃ、あとで、宿で合流しましょう。
今日は温泉宿だし、ぱあーっと行くわよ」
はい、と一騎は微笑んだ。
「わー、とうもろこし畑だー」
「おいしそうですねー」
「建物は何処なのかなー」
「……何処なんでしょうね」
二人は投げやりな会話をしていた。
何処までも平地で緑。
吹き渡る風は心地よく言うことはなかった。
二十分くらいは――。
真っ直ぐな道の側には畑。
とうもろこし畑が広がっていた。
さざ波のように葉の緑が風に揺れている。
少女は麦わら帽子を脱いだ。
熱が抜けて、一瞬頭が寒くなる。
だが、それは本当に一瞬のことだった。
すぐに真夏の日差しが黒い頭に照りつけてくる。
「いい場所なんだけどさーあ」
「遺跡は何処なんでしょうねえ……」
別に遺跡に行けば何かあると決まったものでもないが、何か古いものの側には、扉に関わるヒントでも残っているのではないかと思ったのだが。
さんざん歩いて駅前で自転車を借りるべきだったと思った頃、男がマップを見ながら、指さした。
「わかりました。こっちです」
怪しげな男の誘導に従い、発掘が進んでいるという斎宮の遺跡を捜して歩いた。
しかし、遺跡には全く辿り着けなかった。
いつも思うのだが、方向音痴の自分が、方向音痴のお目付け役を連れて歩くことに、なんの意味があるのだろう。
「……とりあえず、斎王の森にでも行ってみますか」
「あれ、間違いようがないもんね」
小さな斎王の森のすぐ近くに、史跡公園があった。
井戸や道路、建物の跡が復元されている。
「此処が、史跡公園ですね」
「何処、何処なの。
そして、どれが遺跡なの?」
少女は大げさに見回してみる。
「お嬢、これ、井戸らしいですよ。当時の」
少女はその四角く木で囲まれた井戸に倒れかかるように掴みかかる。
井戸とは言っても、形が作ってあるだけで、掘ってはない。
落ちると危ないからだろうか。
「これだけ? これだけを拝みに来たの? 私たち」
「そこが道の跡で、あっちが、柱の跡らしいです」
「こんなもん見てなに感じろっていうのよっ。
此処から扉が開いてるわけ?
そうだ。さてはこの井戸の中にっ」
癇癪を起こしたように少女はいきなり井戸を乗り越え、中に入ろうとする。
「お嬢っ。それはただの復元したものですっ。
底が見えてるじゃないですかっ。
てか、この罰当たりっ」
男は少女の腰を抱いて引き摺り下ろした。
溜息をついて、少女はその場に座り込む。
「服、汚れますよ」
「泥だから、はたけば落ちるもん」
そのまま膝を抱え、復元された井戸に背を預けた。
背中にしょった森からシャワシャワと蝉の声が聞こえてくる。
「にしても、広い遺跡ねえ。
なんだか見つけられなかったけど、ほんとはこの辺り一体から斎宮址が見つかってるんでしょう?」
「点々と発掘されてるんですよね。
それだけの建物だったのなら、かなりの人数が住んでたんですかね?」
「まあ、遺跡があちこちから見つかってるのは、移転を繰り返してるせいもあるだろうけど。
相当居たみたいよ。
五百とか七百とか千とか。
当時の人口からしたら、かなりよね。
ま、なんせ、もうひとつの朝廷だもんね」
肌にまとわりつく柔らかな素材のスカートから覗く膝に頬杖をついた。
「そういえば、これかどうかは知らないけど、井戸の底から櫛とか出てきたみたいよ」
「なんでですか? 落としたとか?」
「さあ。水面に姿を映して髪を梳いていたから落としたんだって説もあるけど。
井戸には大事なものを入れる風習があったそうだから、それでかも」
確か斎宮でも、井戸を神と崇め祀っていたはずだ。
当時、水源は何よりも大事なものだったと聞く。
その話をすると、そうですよね、と男も頷いた。
「公共料金を滞納すると、最後に止められるのが水道っていいますもんね」
「まあ、水でも飲んで生きとけってことね。
……なんか急に貧乏くさい話になったわね」
「ところで、櫛って大事なものなんですか?」
「当時はね、斎王が出立する前にも、別れのお櫛って言って、天皇が自ら斎王の額髪に櫛を挿す儀式があったのよ」
ふいにそのとき、白い手が見えた気がした。
白く長い指先、だが、そのはっきりした節に、男のものだとわかる。
白い袖からその白い指先が覗き、黒い漆塗りの箱を開けた。
都のかたに――。
高くて少し掠れた、透明感があるのに男っぽい声。
都のかたに――?
詠み上げる男の口許がはっきりと見えた。
紅をさしたように血色のいい、薄い唇。
現実に、額に冷たい指先が当たった気がして、少女はそこに手をやった。
そのとき、ふうっと風のように、目の前に全く違う景色が広がった。
現実のものではない目まで開けてしまったかのように。
川原に垣坂一騎が立っていた。
今までとは全く違う顔で、遥か遠い山を見ている。
都の方角か。
これは、垣坂だ、と思う。
だが、あの傲岸不遜な態度は何処にもなかった。
そこにはただの一人の男が居た。
「……お嬢?」
今のは垣坂?
垣坂は今、川原に居るのだろうか。
いや、それよりあの川原は……。
お嬢? と、男は珍しく心配そうな声で呼びかけた。
日射病ですか? と影を作るように前に来て、少し腰を屈め、顔を覗き込もうと手首を掴む。
少女は顔を上げた。
男の顔の上に、透けるように寝殿造りの建物が見えた。
都のかたに――
柑橘系の香りを放つ木々が庭に揺れている。
都のかたにおもむきたもうな。
『心配しなくても』
「お嬢っ!?」
たまらず倒れこんだ少女の額が男の胸にぶつかる。
『心配しなくても、あんたが生きてる間は帰ってきやしないわよ』
目の前の人物が眉をひそめた。
なんだか悪いことを言ったような気がした――。
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