4章05 願いが走った日

 セツは、名前を偽っていた。

 遠く戦乱の地から逃れてきた、ひとつの小国の姫。

 生き延びるため、身分を隠し、庶民のふりをしてセラン村に身を寄せていた。村では、掃除や洗濯を手伝いながら、穏やかな日々を過ごしていた。


 リュカと出会ったのは、そんな日々の途中だった。

 初めて声をかけられたときのことを、セツはよく覚えている。


 川辺で足を滑らせたとき、ふわりと手が差し出された。

 「大丈夫?」と、柔らかい声がした。

 顔を上げると、黒い髪の少年が、心から心配そうな目でこちらを見つめていた。


 あの日からだった。

 リュカと話すのが楽しみになっていた。些細な会話のひとつひとつが、胸を温かくした。

 けれど、日が経つほどに、その温かさが、かえって胸を締めつけるようになっていった。


(私は、このままじゃいけない)

(だって、私は……帰らなくちゃいけない)


 戦乱は終わり、国からの迎えが来ることになっていた。

 あと数日で、ここを離れなければならない。


――この気持ちは、しまっておこう。

――この想いは、なかったことにしなきゃ。


 セツはそう決めた。そう思いこもうとした。


* * *


 別れの日。セツは村の門の前に立っていた。

 霧が少し出ていた。けれど、春の風がそれをやさしく拭っていた。


 リュカが、見送りに来てくれた。

「……行っちゃうんだね」

「うん……元いた場所に、戻らなきゃ」

 セツは笑ってみせた。

 でも、その笑顔の奥で、何かが押しつぶされるように揺れていた。


(好きになっちゃいけない)

(忘れよう、この人のことは)


 その瞬間だった。風が止み、気配が変わった。

(……これは……!?)

 リュカの心が、呪いの発動を告げる。


 リュカとセツの足元から、霧が立ち昇った。

 リュカとセツの胸に痛みが走り、苦しそうに顔を歪めた。


「……セツ、今、なにを、思ったの……?」


 痛みに耐えながら、リュカは問う。

「…いや! 言いたくない!」

 セツは叫んだ。涙が頬を伝う。

 リュカはその返事に、焦りを覚える。


「ごめん……でも、このままだと、死んじゃうの!!」


 懇願のような声だった。

 霧が濃くなる。空気が軋む。リュカがよろめき、膝をついた。


* * *


 その異変を目にしたのは、門の近くにいたミゼルだった。

 濁流のような霧が、リュカとセツを包んでいる。見たこともない光景だった。


「おい、おまえら! 大丈夫か!?」


 ミゼルが踏み出した、その瞬間だった。

 リュカの胸の奥に、さらに突き刺すような痛みが走った。


(!……この人の痛み!?……っ…動けない……)


 リュカの中に、痛みと焦りがせり上がる。

 顔を伏せたまま、わずかに震えていることしかできない。


「お、おい……大丈夫か……?」


 リュカが顔を上げた。

 苦痛に濡れた瞳でミゼルを見つめ、絶え絶えな声で、苦し気に――

 でも、真っすぐにミゼルを見据える目に「信頼」を感じた。


「……お願い……セツに……本当のことを、聞いて……」


 がくっと膝をつき、支えることもできず、うずくまるリュカ。


「くそっ……! ……よくわかんねえけど、わかったよ!」


 セツに向き合い、ミゼルは叫ぶ。


「……おい! 言いたいこと、あるんだろ?

 今しかねえんだよ。今、言わなきゃ、いつ、言うんだよ!?」


 濁流のような勢いを増す霧に包まれながら、セツは、顔を伏せたまま震えていた。

 胸にせり上がる感情と、吐き出したいような、吐き出したくないような――

 気持ちのせめぎあいが続いている。


 ミゼルの声が耳に届く。……背中を押されたような気がした。

 ……震える唇で、ようやく声を絞り出した。


「わたし!……リュカが、好きなの!!!

 好きだけど……好きになっちゃ、いけないの……!!」


 言いたかった気持ち、そして、認めたくなかった気持ちを、吐き出した。

 押しとどめていた核のようなものが、砕けた。


 その瞬間、霧がすうっと引き、空気が、やわらかく戻った。


 リュカとセツの胸に宿った痛みが消え、温かさが戻る。

 セツが泣きながら、リュカに駆け寄る。

 リュカは意識が朦朧としながらも、小さく微笑んだ。


「……ありがとう」


 その言葉に、セツの頬がさらに濡れた。


* * *


 別れの間際、セツはミゼルの方を振り返った。


「……ありがとう。あなたがいなかったら、私……きっと後悔してた」


 少し迷ってから、彼女は言った。


「私の本当の名前は、フィリア。小さな国の、王の娘よ。

 でも……リュカのことが好きだったの。それだけは、本当だから」


* * * 

 去りゆく馬車を見送りながら、

 ミゼルはただ、立ち尽くしていた。

 そこには、穏やかな春の空が広がっていた。


 あの嵐の中で、苦しみながらも真っすぐに誰かを信じた――

 あのときのリュカの目が、胸の奥に焼きついている。


 信じるなんて、馬鹿げた話だと思っていた。

 そうして、自分を守ってきた。

 なのに――

 「……託された、んだよな。俺に」


 誰かの痛みを代わりに聞くなんて、できると思っていなかった。

 けれど、やってみれば、身体は勝手に動いていた。


 もう信じないって決めてたくせに。

 ……また、どこかで。

 「また…誰かを、信じたいと思ってたんじゃねぇのか、俺は」


 ――霧の嵐で、余計なものも吹き飛んだのかもしれない。


 願いが走ったように、春の風が、耳を撫でていった。

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