3章02 名前のない声

ユオンは、声を失っていた。

のどを焼かれたわけでも、声帯を傷めたわけでもない。

ただ、「うるさい」と言われ、叩かれ、殴られ、

――それでも助けを呼ぼうとした声が、誰にも届かなかった。


(助けて、って、ずっと、言ってたのに……っ)

(ゆるして、って、ずっと、言ってたのに……っ)

(叫んだって、助けなんか、来なかった……)


両親は酒と賭博に溺れ、借金を抱えたまま夜逃げした。

ユオンは置き去りにされ、修道院に預けられた。

愛されてもいなかった、必要ともされていなかった事実を突きつけられ、

その絶望が、彼から声を奪った。


無口で無表情な少年。

だが、リュカは言葉をかけることなく、自然に彼の隣に座って本を読む。

とくに親しくもない。ただ、そこにいる。

彼は、ユオンと違って、話せないわけではない。

それでも何も言わず、ただ、ユオンのそばに居てくれる。

不思議と、心が安らぐのを感じるのだった。

ひとことも喋らない、そんな関係なのに、

リュカは、友達だと認めてくれているようだった。


そんな日々の中、年下の少女・ナナが、無邪気に話しかけてくる。

ユオンにとっては騒がしく、けれど不思議と不快ではない存在だった。


ナナは言う。

「ユオンおにいちゃんの声、きっと、きれいだと思うな」


ユオンは何も返さない。ただ視線を伏せる。

こちらは一言も話していない。

……それでも、ニコニコと笑いながら、いつも隣に座ってくる。

なぜか、ユオンのそばにいることを、あたりまえのように思っているようだった。


ある日、ユオンが庭で落とした本を拾ってくれたのもナナだった。

「これ、おにいちゃんの?」


ユオンはうなずいた。それだけだったけど、ナナは嬉しそうに笑った。

その笑顔が、なぜか胸の奥に残っていた。

リュカともまた違う、ユオンの心の癒しとなっていた。


* * *


春が訪れ、セラン村の草花が色づいたころ、

ナナが「森に木の実を取りにいこうよ」と誘ってきた。

(森か……行ったことないな)と、ユオンはそれに応じる。


* * *


普段、丘の上で空を見て過ごしていたユオンにとって、

セラン村の森は、まるで異国のようだった。


木漏れ日が揺れ、風が葉をくぐり抜けるたび、

虫の羽音や鳥の声、獣の気配さえも、生きている音として耳に届く。


花も草も、枝に実る小さな果実でさえも――

目に映るものすべて、どこか、絵本の中のもののように、まばゆく映った。


かつて、シスターが教えてくれた。

キノコは触ってはいけない、蛇には近づかないこと。

獣の気配を感じたら、すぐに引き返すこと。


実際に足を踏み入れた森は、

知識ではわからない、言葉では伝えきれない、ざわめきと静けさに満ちた、

怖くて、美しい場所だった。


* * *


普段食べている木の実や、果実、

虫や花を見て、はしゃいでいるナナであったが、

日が登り切り、暑さの峠を超えた頃、

茂みの奥、ナナが鮮やかなキノコを見つける。


「これ、かわいいね」


指先で触れ、匂いをかいで、手をなめる。

(あっ……)


ユオンが気づくのも遅く、ナナは手に取ってしまった。

ユオンは首を振りながら、手放すように促す。

「えー…これかわいいのに……」


渋々な顔で、ナナがキノコを元の場所に戻す。

しばらくして、ナナがふらつきはじめる。


「なんか、へんなの……」


顔色がどんどん青くなり、ついには倒れてしまった。

ユオンが慌てて抱きかかえ、帰ろうとしたそのとき、

足を滑らせ、段差から落ち、足を酷くくじいてしまう。


森の中のくぼ地。声を出さなければ、誰も気づかない場所。

ナナの手は、冷たくなっていく。


(痛い……でもこのままじゃ、ナナが……)


日が傾きかけ、森の中はどこか冷たい気配をまとっていた。

木々のざわめきが、耳の奥で重く響く。


ユオンは、息を切らしながらナナを支えた。

体は小さくても、ぐったりと力を失ったナナの重みは、思いのほか重かった。


(くそ……動けない……足が……)


痛みが脳に突き刺さる。

それでも、ナナの顔に触れる手は、どうにか震えをこらえていた。


ナナの呼吸は浅く、唇が白くなっている。

その小さな胸が、動かなくなるのではないか――

そんな恐怖が、ユオンの胸をじわじわと締めつける。


(お願いだ……誰か……)


誰に、とは言えなかった。

誰かに頼っていいという経験が、彼にはなかった。

けれど、願っていた。

ナナの命だけは――誰か、気づいてほしいと。


そのときだった。


──風が、木々を揺らした。


カサカサと葉が擦れる音に混じって、微かに声が混ざった。


「リュカ、これって……食べられるの?」

「うん、ミズナラの実だよ。煎ったらおいしいんだって」


……聞き覚えのある声だった。

リュカ。そして、レオの声。


ユオンはハッとして顔を上げた。

森の向こう、木の隙間から、光が差している場所が見える。

その先に、ふたりの姿があった。


だが、こちらには気づいていない。

木々と起伏の陰に、ユオンたちは隠れているのだ。


(リュカ……!)


声を出せば、気づいてもらえるかもしれない。

けれど、喉が震える。


叫んだところで、届かなかった過去がよみがえる。

あのときも、声は届かなかった。

だから、今もきっと……


(でも……)


ナナの冷たい手が、自分の手に重なっている。

意識のないまま、必死で何かにすがるように。

ユオンの胸に、何かがせり上がってくる。


(……今、黙ってたら)

(ナナが、死んでしまう……!)


怖い。

声を出すのが、怖い。

でも、


(リュカ……!)


唇がわななく。

喉が震える。


「……リュカっ」


かすれた声だった。

か細くて、風にかき消されそうだった。


ふたりの歩みは止まらない。

気づいていない。


(……ああ、行っちゃう、このままじゃ……!)


拳を握る。喉が焼けるように熱くなる。


(お願い……今だけでいい、だから……)


「…っ…リュカーーーっ!!!」


森の音が、止まった気がした。

ざわめきが消え、一瞬、世界が息を飲むような静寂が訪れる。


リュカが、足を止めた。

顔を上げ、耳を澄ませる。

風がまた吹き、声を運ぶ。


そしてリュカは、走り出した。

──その先に、声が、命が、待っていると知っているかのように。


* * *


日が暮れかけた頃、修道院の小さな部屋の窓辺に、ユオンの姿があった。

ナナは隣の寝台で、すやすやと眠っていた。

顔色も戻り、穏やかな寝息をたてている。

シスターの話では、しばらく休めば問題ないということだった。


(よかった……)


声にはならない。

けれど、胸の奥にふっと灯るような安堵があった。


自分の手を見下ろす。

その手が、あの日、自分を叩いた誰かの手と同じだと思っていた。

何も守れない、誰にも届かない、そう思っていた。


けれど今は――

この手が、小さな命を抱きしめたのだと、知っている。


静かに目を閉じた。

あのとき、たしかに届いた。

はじめて、誰かに届いたのだ。


部屋の戸口に気配を感じて、顔を向けると、リュカが立っていた。

何も言わず、ただユオンと目を合わせて、小さく笑う。


ユオンは、声を出さないまま、ゆっくりと、うなずいた。

それだけで、言葉よりも確かなものが、ふたりの間に流れていた。


風が、窓から吹き込んでカーテンを揺らす。

遠く、鳥たちのさえずりが、夕暮れの空へ溶けていく。


ユオンの心の奥で、誰にも知られないまま、

ひとつ、静かに癒えた声があった。

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